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新しい暮らしの始まり2




 モンテローザ侯爵家で暮らし始めて三日目。


「では、本日はここまでにいたしましょう」


 ソレイユ伯爵夫人のひと声で、三時間に及んだ授業が終わる。


 ソレイユ伯爵夫人は白髪交じりの灰色の髪をきっちりと結い上げた気品あふれる淑女で、ローランド様がリーリエのために手配した講師だ。昨日から午前中の数時間、淑女としてのマナー全般を教えるために来てくれていた。

 旦那様の意向で、私もリーリエと一緒に授業を受けさせていただいている。本当にありがたいことだ。


「ご指導いただき、ありがとうございました」


 私は昨日夫人から教えられた通りスッと席を立ち、腰を軽く落として淑女の礼を取った。その隣でリーリエは椅子に座ったまま持っていた教本を放り出し、グッと伸びをする。


「リーリエ様、教本を戻して姿勢を正してください」

「はぁ? だって今、授業は終わったじゃないか。もういいだろう?」


 ソレイユ伯爵夫人が注意すると、リーリエはムッとした様子で噛みついた。

 孤児院ではこんなふうに長時間にわたって学ぶという習慣がなかった。私は新しい知識を得ることにわくわくしたが、リーリエにとっては苦痛のようだ。


「言葉遣いが乱れております。それから昨日も申しました通り、リーリエ様には侯爵家の令嬢に相応しい振る舞いを日頃から意識していただかねば困ります」

「あー、もう煩い! なんて言われようと、これ以上はもう無理っ!」


 リーリエはガタンと大きな音を立てて椅子を引き、そのまま私たちが止める間もなく応接室を出ていってしまう。

 乱暴に閉められたドアを唖然と見つめる私の向かいで、ソレイユ伯爵夫人がホゥッと息をついた。


「ローランド坊ちゃまに聞いて覚悟はしていたのですが、なかなかどうして。これは、かなりの強敵ですわね」

「えっ!?」


 夫人の物言いに、パチパチと目を瞬く。そんな私に夫人は悪戯っぽく微笑む。


「あら、フィーアさん。私だって軽口や冗談くらい言いますわ。先ほど『令嬢に相応しい振る舞い』と申しましたのは、丁寧な所作や言葉遣いといった最低限のマナーについてで、必要以上に硬くなったり謙ったりする必要はありませんのよ。もちろん、私が教師役をさせていただいていますから、授業中はある程度緊張感を持っていただきたいけれど」


 夫人は、講義の最中よりも砕けた口調に私が驚いていると思ったようだ。けれど、そうではない。聞き間違いでなければ、ローランド様のことを『坊ちゃま』と言っていなかったか!?


「い、いえ。そうではなく、今、ローランド坊ちゃまと……」

「まぁっ、私としたことが昔の癖でついうっかり。ローランド様がここにいたら怒られていたところね。今のは失言だったわ」


 夫人はコロコロと笑い声をあげる。そんな様子も上品で可愛らしかった。


「ソレイユ伯爵夫人はローランド様とはご親戚かなにかですか?」

「まぁまぁ、うちはしがない伯爵家ですわ。王家と縁戚だなんてとんでもない」

「……王家、ですか?」


 首を傾げる私に、夫人の方が驚いたように目を丸くした。


「もしやご存じでない? ローランド様はこの国の王太子でいらっしゃるわ。そして私は、王妃殿下と同年にフリップを出産したことで縁をいただいて、ローランド様の乳母を務めさせていただいたの」


 ガンッと頭を打ち付けられたみたいな衝撃が走り抜ける。


「……うそ。ローランド様が王太子殿下?」


 高い身分なのだろうと思ってはいた。だけどまさか、次期国王になる人だなんて想像もしなかった。

 同様にソレイユ伯爵夫人がフリップ様のお母様というのも初耳だった。


「フィーアさん!? 大丈夫? 顔色が悪いわ」

「平気です。少し、驚いてしまって」


 慌てた様子の夫人に問われ、なんとか答える。

 しかし突きつけられた事実がひどくショックで、今はまともに物を考えることが難しい。


「ああ、なんてこと。てっきり知っているものだと勘違いしていたわ。こんな伝え方をして混乱させてしまったわね、ごめんなさい」


 私は緩く首を振る。


 ……でも、ローランド様はどうして教えてくれなかったんだろう。


「いえ。ソレイユ伯爵夫人に謝っていただくのは違います。それに、ここに暮らしていれば遠からず知ることになっていましたから」


 リーリエもこの事実を聞かされていないはず。もし、彼女がこの事実を早い段階で知らされていたら、もっとローランド様にすり寄る姿勢を示していただろうと、そう思った。


 王太子であるローランド様のもとには、きっとあらゆる思惑を持った人たちが集まってくる。私とリーリエもきっと警戒されたのだろう。それで彼は私たちに知らせるのを尻込みしたのかもしれない。

 辿り着いた考えに、悲しくなった。


「ねぇフィーアさん。おそらく、あなたが今考えていることは正しくないわ。ローランド様はあなたのことを信用していないから伝えなかったわけではないわよ。……まぁ、リーリエ様についてはその限りではないかもしれないけれど」

「え?」

「講師の件はね、一昨日王宮でお会いしたローランド様に直々に頼まれたの。その際ローランド様は私に頭まで下げたのよ。どうか講師を引き受けて欲しいと言ってね。リーリエ様のことはもちろん前提にあるでしょう。でも私には、ローランド様はあなたのことをより気にかけているように見えたわ。それこそ、頭を下げてまで頼み込んだのはあなたのためだったんじゃないかって」


 ……ローランド様が私のことをより気にかけて? そんなことがあるのだろうか。


 その時のことを思い出してか、夫人は口もとを綻ばせた。


「あなたについて『フィーアは気立てのいい女性だ。学習機会に恵まれなかったから知識の浅さはあるが、物事ののみ込みが早く、会話での機転も利く。あなたが淑女としての振る舞いや知識を授けてくれれば、将来的に貴族家の女官や家庭教師などの道も拓けるだろう』とこうおっしゃっていたわ」

「ローランド様がそんなふうに私のことを……」

「ふふっ。とても一線を引きたい相手にする態度じゃないでしょう? 王太子だと打ち明けなかったのも他意があってのことではなく、告げることであなたとの関係が変わってしまうのを恐れたからじゃないかしら」

「そうなんでしょうか」


 信じられない思いだったけれど、同時に胸がじんわりと熱を持つ。


「ええ。意外に思うかもしれないけれど、ローランド様には昔から繊細なところがおありなのよ。ここだけの話にしてちょうだいね」


 夫人は悪戯っぽく微笑んで唇に人差し指をあてると、さらに言葉を続ける。


「甘い汁を吸おうとすり寄ってくる者は多いから、ローランド様は常に警戒してらっしゃるわ。でもね、それと同じくらい王太子という身分がネックになって受け入れられない経験もしてきているの。幼い頃は他の子供たちが楽しそうにしている輪の中に入れずに、よく寂しそうにしていたわ」


 そうか。権力者に取り入ろうとすり寄る人ばかりじゃない。その身分に気後れし、距離を取ろうとする人だっている。

 だけど親しくしたい相手に壁を作られてしまうのは、ローランド様にとってきっと悲しいことだ。


「ソレイユ伯爵夫人。私、ローランド様の身分を知って、真っ先にもう安易にお話しなんてできないなって、態度を改めなくてはって考えました。……でも、やっぱり今まで通りお話させていただこうと思います。畏れ多いでしょうか?」

「とんでもない。急にあなたの態度が変わってしまったら、きっとローランド様は悲しまれるわ。今まで通りにするのがいいわ」


 窺うような目を向ける私に、夫人はこう言って笑みを深くした。


「はい。ありがとうございます」

「ところでフィーアさん、リーリエ様もローランド様が王太子だとは知らないのよね?」

「おそらく知らないはずです」

「そう。あなたの言う通り、いずれ耳に入ることですもの。だったら明日の授業で私からお話しすることにしましょう。どこかのタイミングで王家の方々や国の中核を担う高位貴族、その勢力関係についてお教えしなければと思っていたからちょうどいいわ」


 ここで廊下からドアがノックされ、侍女からソレイユ伯爵夫人を送る馬車の準備が整ったことを告げられる。


「ありがとう。すぐに行きます」


 夫人は侍女に答え、授業に使った教材を纏めて部屋を出る。私も夫人の見送りに、一緒に玄関に向かう。


 たどり着いた玄関に、リーリエの姿はなかった。シスという名で呼ばれ、孤児院で共に過ごしていた頃の彼女はもっと他人に気遣いができたし、こんなに激情型ではなかった。なのに今は、教えを乞う立場でありながら見送りにも顔を出さない。

 侯爵令嬢だと分かってからの彼女はどこかおかしい。


 玄関に横付けされた馬車に夫人が乗り込む。


「ありがとうございました。また明日、お待ちしています」

「ええ。また明日……あ、そうそう。明日は当然フィーアさんも初めて聞かされたていでいてちょうだいね」


 別れの挨拶の途中、夫人は思い出したように告げた。

 なるほど。たしかに私だけ事前に知っていたとなっては、リーリエが憤慨するだろう。


「はい、そうします。お気遣いいただいて、ありがとうございます」

「では、また明日ね。ごきげんよう」


 侍従の手で扉が閉められ、夫人の乗った馬車がモンテローザ侯爵邸を背に走りだす。


 小さくなっていく馬車を見つめながら、ローランド様は本当によい人を講師につけて下さったと感謝する。

 ソレイユ伯爵夫人は深い懐を持つ、とても愛情深い方だ。本来いち使用人に過ぎない私に、こんなに親切にしてくれる講師は彼女の他にいないだろう。


 そしてモンテローザ侯爵夫妻やこの家の使用人の人たちも皆、親切で優しい。リーリエの癇癪に晒されるのを除けば、王都にやって来てから私の生活は人にも衣食住にも恵まれて、かつてないほど充足している。


 侍女を提案してくれたのはリーリエだが、王都に出るきっかけを作ってくれたのはローランド様だ。彼は私が一番困っていた時に、颯爽と助け、選択肢を与えてくれた。


 奇しくも今回、ローランド様が王太子殿下だと聞かされて、改めて自分の思いを自覚した。彼は恩人であり、眩い憧れの人だった。それと同時に自分で思う以上に、私はローランド様に心を寄せていたらしい。

 ローランド様は心優しい紳士で、しかも記憶の中の天使様を彷彿とさせる美丈夫だ。そんな男性が親身になって寄り添ってくれたら、恋心を抱かない方が難しい。私はローランド様に恋をしていたのだ。だからこそ、あんなにも動揺した。


 もちろん、もとより手が届かない人だと分かっていた。けれど、密かに慕うことすら憚られる彼の身の上に絶望して……ふふっ。でも、それもおかしな話よね。

 たとえローランド様が下級貴族だったとしても、孤児の私と彼の未来が交わることはなかった。だからこの想いにギュッと蓋をしておけば、今まで通り。なにも変わりない。


 今度お会いしたら過剰に謙らず、よくしてもらったことへの感謝を改めてお伝えしよう。

 ほんの少しの寂寥感を振り切って、玄関先から屋敷の中に戻ったところで。


「フィーア、ちょっといいかしら」


 この三日ですっかり打ち解けた先輩の侍女が困った様子で声をかけてきた。


「はい。なんでしょうか?」

「食堂に昼食の用意ができたんだけど、リーリエ様が物凄く不機嫌な様子で自室に篭ってしまっているのよ。昼食の声がけをお願いしてもいいかしら?」


 リーリエは旦那様と奥様の前では溌剌とした態度を崩さないが、使用人たちに対するあたりは驚くほどに強い。それはまるで孤児院で軽んじられながら暮らしてきたこれまでの鬱憤を晴らすかのように。

 屋敷で暮らし始めてまだ三日だというのに、リーリエは既にかなりの回数、使用人たちを怒鳴りつけていた。屋敷の使用人たちは皆、リーリエを扱いかねていた。そうしていよいよ困った時は、リーリエが専属に付けている私にこうして声がかかる。


「分かりました。リーリエお嬢様を食堂にお連れしますね」

「悪いわね、フィーア。あなたが居てくれて助かったわ」

「とんでもない。私はリーリエお嬢の専属侍女です。お嬢様のことでなにかあれば、遠慮せず私におっしゃってください」


 先輩の侍女は私をジッと見つめた後、はぁっと大きなため息をついた。


「まるでフィーアの方が本物のお嬢様のようね。怒鳴り散らしてばかりのお嬢様に、あなたの爪の垢でも飲ませたいわ」

「……ところで、今日のお昼のメニューをご存じですか?」


 先輩の際どい冗談を流して尋ねれば、先輩は不思議そうにしつつ昼食の献立を答えてくれた。先輩とは廊下で別れ、さっそく二階のリーリエお嬢様の部屋に向かった。


 ノックの後声をかければ、案の定「煩い、入ってくるな」と中から不機嫌な声が返ってくる。


 ……リーリエお嬢様はこんなに恵まれた環境に身を置きながら、どうしてこうも苛立ってばかりいるんだろう。

 疑問がよぎるが、考えたところで答えがでるわけもなく。


「リーリエお嬢様、すみませんが入らせていただきますね」


 厨房の料理人や食堂付きの侍女たちは、旦那様と奥様、リーリエが食事を終えた後に食事休憩を取る。

 今日は旦那様と奥様は留守にしていた。リーリエが部屋に篭ったまま食事を取らないでいたら、彼らはいつまでも休憩に入れない。私がリーリエを宥めて、なんとか食堂に連れ出さなくては。


「ハァッ!? どうして入ってくるんだよ!」


 扉を引き開けた瞬間、怒鳴り声と共にクッションが飛んでくる。咄嗟に避けてしまいそうになるが、あえてそのまま受け止めた。

 クッションは私の左頬にあたって床に落ちた。ビロード地のやわらかな素材だったため、幸いにも怪我はなかった。


「出過ぎたこととは思ったのですが、今日の昼食だけはどうしても温かい内に召し上がっていたきたくて──」


 内心でホッと息をつき、私はできるだけリーリエお嬢様の関心を引くように昼食の献立を伝えだす。

 長年寝食を共にしてきたのだから、彼女の嗜好はよく心得ている。特に今日の昼食は、船旅初日のビュッフェで彼女が好んで食べていたメニューだったのが幸いした。


「へぇ、舌平目のムニエルか」


 予想した通り、リーリエは魚介を使ったメニューを耳にして、突っ伏していた寝台から起き上がった。どうやら昼食を食べに食堂に行く気になったらしい。


 ……よかったわ。


 安堵する一方、かつての親友相手にこんなに神経を使う状況に、なんとも遣る瀬無い思いが募った。





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