新しい暮らしの始まり1
船が帰港し、ローランド様を先頭にタラップを降りる。
身なりのいい四十代くらいの夫婦が、涙ながらにローランド様に駆け寄ってくる。先ぶれを受けて待っていたモンテローザ侯爵と夫人だろうと、すぐに想像できた。
「ローランド様! リーリエは……!?」
「モンテローザ侯爵、お待たせしました。彼女です」
逸る様子の侯爵夫妻を前に、ローランド様は多くを語らず、すぐに一歩後ろに立つリーリエを示す。
リーリエの前に侯爵が踏み出した。
「リーリエ! 君が、リーリエか……!」
モンテローザ侯爵はとても優しそうな男性だった。白い物が混ざり始めた髪は金。ただしリーリエよりも、むしろ私に似た日に透けそうな淡い色味をしている。青い瞳は十四年ぶりに戻った愛娘のリーリエを前に、潤んでいた。
「おじさんが、あたしの父さんなのか? ずっと会いたかったよ!」
「なんて嬉しいことを……。私もどんなに君に会いたかったか。どうか、お父様と呼んでおくれ」
「お父様!」
満面の笑みで答えるリーリエに、侯爵は歓喜に声を詰まらせた。
「リーリエ! 私の愛しい娘。どんなにかこの日を待ち望んだことでしょう!」
夫人が震える手を伸ばし、ひしとリーリエを抱きしめた。
「お母様?」
銀髪と水色の瞳を持つ小柄な夫人は、北方の出身だという。気品に溢れる嫋やかな佇まいで、今はリーリエを胸に抱きホロホロと涙を流していた。
「ああ! あなたに母と呼んでもらえる日が来るなんて……っ。お母様にもっとよくお顔を見せてちょうだい」
「うんっ、お母様」
フリップ様は下船するとすぐに、用事を済ませると言ってどこかに行ってしまっていた。
荷物を手に少し遅れてタラップを降りた私はひとり、数メートル離れた場所から親子三人の再会を眺めていた。
リーリエと両親が涙ながらに笑い合い、抱き合って再会を喜ぶ。まるで自分のことのように嬉しいと感じる心に嘘はない。だけど、ほんの少し切ないと思ってしまう。
夫人の嫋やかな腕に抱かれ、侯爵の大きな手に頭を撫でられる。それはいったい、どれくらい心地いいものなのだろう。
その時。肩に温かなものが触れた。
見上げるといつの間にかローランド様がすぐ横に立っていて、彼の大きな手が私の肩に置かれていた。
「フィーア。君のことは、俺からも事前に手紙で伝えてある。夫妻の穏やかな人柄は俺もよく知るところだ。けっして君を悪いようにはしないはずだ」
よほど所在なさげに見えたのだろうか。
私を安心させようと語りかける彼の声がとても優しい。これまで誰かに気遣われたり労わられたりした経験に乏しく、嬉しくも少しくすぐったい。
「ありがとうございます」
励ますように肩をポンポンと叩かれて、じんわりと温もりが伝わってくる。だけど、実際に人肌の温度を得ている肩よりも、心が温かになった気がした。
ローランド様の優しさが、私の心の深いところを熱くする。意思とは無関係に、胸の鼓動が速くなる。
彼にとっては、私を励ますためのほんの些細な触れ合いだろう。だけど私は息が苦しいくらい、ドキドキしてしまう。
いよいよ居た堪れなくなった頃、後ろから声がかかる。
「ローランド様」
振り返ったら、モンテローザ侯爵が数歩分の距離のところまでやって来ていた。
「先ほどは挨拶もそこそこに失礼しました」
「なに、リーリエと十四年ぶりの再会だったのだ。そんなのは構わん」
侯爵様とローランド様が話しだす。
ローランド様は侯爵位にあり、親子ほども年の離れたモンテローザ侯爵に対して気後れする様子がない。むしろ、侯爵の方が謙った姿勢を見せている。
本人に尋ねたことはないけれど、ローランド様も侯爵位やそれに準じる高位の家の出なのかもしれない。
身のこなしや言動からローランド様が貴族なのは早い段階から想像がついていた。でも、フリップ様だけを共に市井を歩き、私たち平民相手にも気さくに接っしてくれていたから、助けてもらった恩を感じはしてもその身分についてあまり深く考えることはなかった。
孤児の私とは住む世界が違う人だと分かっていたはずなのに、改めて意識すれば、なぜか胸がツキリと痛んだ。それがどういう感情に起因するものかは、自分でもよく分からなかった。
「もしかして、その子が手紙に書いてあった娘さんですかな?」
ふたりの邪魔をしないよう静かに控えていると、侯爵様がチラリと私に視線を向けた。
「ええ。この子がフィーアです。手紙でお伝えした通り、リーリエの侍女として、モンテローザ家に置いていただきたいのです」
「もちろんです。まだ成人前とのことですので、当家が責任をもって教育面などもフォローさせていただきます」
侯爵様が口にした予想だにしない好待遇に驚く。
「そう言っていただけるとありがたい」
「いやいや、礼には及びません。それがリーリエの望みならなおのことです。……ローランド様、改めてお礼申し上げます。こうしてリーリエを見つけていただき、感謝しかありません。ありがとうございました」
侯爵様は居住まいを正し、畏まった様子で頭を下げた。
「やめてくれ。リーリエとの再会は俺にとっても悲願だったのだから、それこそ礼には及ばんさ」
侯爵様との会話に区切りがつき、ローランド様が私に向き直る。
「フィーア、すまんが俺はもう行かなければならないんだ。後のことは、すべて侯爵に任せてあるから」
「はい。ここまで本当にお世話になりました」
目の奥がジンッと熱を持ちだすのを、なんとか堪えながら答えた。
船内で別れの挨拶は既に済ませていた。それでも、これで彼が行ってしまうのだと思うと寂しかった。
「俺はこの先しばらく予定が詰まっていて、体が空きそうにない。だが、折を見て必ず訪ねる。達者でな」
「ローランド様もどうかお体にお気をつけて」
ローランド様は柔和に微笑んで、クシャリと私の頭を撫でた。
大きな手のひらの温もりに、トクンと鼓動が跳ねた。
「では侯爵、俺はこれで」
「はい、本当にありがとうございました。フィーアのことも、お任せください」
見れば、いつの間にか所用で外していたはずのフリップ様が戻っていて、二頭の馬を引いて控えていた。ローランド様は一頭の手綱を受け取るとヒラリと跨る。そのままふたりは馬車列を縫うように港を後にした。
ローランド様を見送った侯爵が、私に視線を移した。私は慌てて、腰を折って頭を下げた。
「どれ、フィーアといったかね。私がモンテローザ侯爵家の当主、ブライアンだ。そう畏まらずともいいから、顔を上げてごらん」
「はい、旦那様。フィーアと申します。よろしくお願いいたします」
やはり、とても穏やかで優しそうな方だわ。
目と目が合った瞬間、私は温和な空気を纏う彼にひと目で好感を抱いた。
一方の旦那様は、なにかに驚いたように、目を見開いて固まっていた。
「旦那様? どうかされましたか」
旦那様はハッとした様子で口を開いた。
「……いや、すまない。君の雰囲気が出会った頃の妻にあまりに似ているものだから、少々驚いてしまった」
旦那様は私を見つめて、さらに続けた。
「フィーア、不躾に見つめてすまなかったね。我が家は君を歓迎するよ。よく知った君の存在が、きっとリーリエの心の拠り所になるだろう。これから娘によく仕えてやっておくれ」
「はい。リーリエお嬢様に誠心誠意お仕えいたします」
「頼んだよ」
旦那様はしばらく私から視線を外そうとしなかった。
「あなたー、どうなさったの? もうリーリエも馬車に乗りましたわ」
夫人から呼ばれ、旦那様はやっと私から目線を外した。
「ああ、今行くよ」
そんなに驚くほど、私と若い頃の奥様が似ていたのだろうか?
さりげなく夫人の方を見ると、夫人と私の目が合った。すると突然、夫人がこちらに向かって一直線に駆けてくるではないか。
えっ? 息を切らせてやって来た夫人に驚きつつ、私は慌てて腰を折って礼を取る。低くした頭上に、痛いくらい夫人の視線を感じた。
「待ってちょうだい、あなた! こちらのお嬢さんはどなた!?」
「この子はフィーア。ローランド様からの手紙にあった、リーリエの侍女になる娘さんだ」
切れ切れの息で夫人から問われ、旦那様が端的に答える。
「リーリエの侍女に? ……フィーア、頭を上げてちょうだい」
「初めまして、奥様」
顔を上げると、奥様の水色の瞳が食い入るように私を見つめてくる。その眼差しの強さに、少し戸惑う。
「あなた、たしかリーリエと同じ孤児院の出身といったかしら。失礼を承知でお尋ねするわ。あなたは、親御さんのことはご存じ?」
奥様は柳眉を寄せ、真剣そのものの様子で問いかけた。
唐突ではあるが、雇い主が身の上を確認するのは当然のことだ。私は素直に打ち明ける。
「二歳前くらいの赤ん坊の頃に孤児院の前に捨て置かれていたそうで、両親のことはなにひとつ分からないのです」
「なにか覚えて……いえ、さすがに二歳前では難しいわね。では、リーリエのようになにか出自につながるような持ち物などはお持ちでないのかしら」
リーリエのように? それはリーリエが、出自に繋がる物を持っていたということだろうか。
孤児院にいた頃、私はそんな物を見たことも聞いたこともない。もちろんリーリエが私に言わなかっただけかもしれないが、親友として一番近くにいたことを考えると少し怪訝に思った。
「ありません」
奥様の質問に、私は首を横に振った。本当は首に巻かれていたスカーフがあったけれど、あれは既にリーリエのもので私のものではない。
「そう」
「あの、それが──」
「お母様ー! お父様ー! さっきからなにを話してるのさ!?」
肩を落とす奥様に「どうかしたのか?」と尋ねるようとしたら、リーリエがグイッと私たちの間に割って入ってきた。その息は弾んでいて、慌てて駆けてきたようだった。
「フィーアに挨拶をしていたんだ。待たせてしまい、すまなかったね」
旦那様の答えに、リーリエはすねたように頬を膨らませた。
「あたしとフィーアはずっと一緒にやってきたんだから、今さら堅苦しい挨拶とかはいらないよ。それよりあたし、早く家に行きたい」
リーリエが甘えるように、旦那様と奥様の腕を引く。
「あらあら。そうね、早く帰りましょう」
奥様はリーリエと絡めているのと逆の手で、リーリエの金髪を愛おしそうに撫でた。
リーリエと笑い合う奥様が、それ以上私に声をかけてくることはなかった。
「フィーアもついて来なさい」
「はい、旦那様」
私が仲良さげな親子三人のうしろを歩きだすと、ふいにリーリエが振り返る。侯爵夫妻からは見えない角度で、キッと睨みつけられて身が縮む。
ご両親と私が親しくするのが、きっとリーリエには不快なのだろう。やっと再会できたご両親を独占したいという彼女の気持ちは理解できた。
……使用人という立場をしっかり弁えなければね。
少し話しただけで分かる。とても優しいご夫婦だから、これからも色々と気にかけてくれるだろう。けれどそれに甘えすぎずリーリエの気持ちを一番に、夫妻とはできるだけ距離を置いて過ごそう。
屋敷までの道のり。私は同乗した馬車の中で、リーリエを中心に話に花を咲かせる三人の邪魔にならないよう息を殺していた。
一時間ほど馬車を走らせて到着したのは、お城かと見紛うほど立派なお屋敷だった。そこで私は夫妻から使用人棟ではなく、本館のリーリエの隣室の使用を勧められた。
リーリエもそれを望んだため、畏れ多くも本館に部屋をいただくことになった。
部屋に入った瞬間、思わず感嘆の息が漏れる。
「なんて素敵な部屋なの……!」
ぐるりと見回した室内は、大きく取られた窓から日差しが差し込んで明るい。シンプルながら仕立てのいい家具で統一され、居心地良く整えられていた。
「こんなに立派な部屋を使わせてもらえるなんて夢みたい」
あり得ないほどの好待遇。それに旦那様と奥様、先ほど挨拶した使用人の皆もとても感じがよかった。これからここで働けることは、なんて幸運なことだろう。
リーリエのお世話はもちろん、他の仕事も精いっぱい頑張ろう。少しでも雇ってよかったと思ってもらえるように、しっかり働かなくっちゃ!
こうして決意も新たに、モンテローザ侯爵邸での新生活が幕を開けた




