はじまり1
やわらかな風が頬を優しく撫で、黄金色に輝く麦の穂を揺らす。
私は豊かな実りに頬を緩め、滴る汗を拭って鎌を握り直すと、残る刈り取り作業に励んだ。けれど、院長から刈り取りを指示された範囲は広く、日が一番高いところを通り過ぎ、西の方角に傾き始めても、まだ終わりは見えなかった。
食事は朝に取ったきりだった。少量のそれはとっくに消化しきり、空腹で胃がキリキリと痛んだが、孤児院の暮らしの中では決して珍しいことではない。
それよりも耐えがたいのは手の痛み。鎌を握り通しの手指は肉刺が潰れ、一振りするごとにジクジクと疼いた。
「こんな暮らし、もういやだ! やってられるか!」
隣で刈り取りを進めていたシスが、突然鎌を放り出して叫んだ。私はギョッとして、慌てて周囲を見回す。
先生たちの目がなかったことに、安堵の胸を撫で下ろした。
「シス、いったいどうしたの?」
すぐにシスの元に歩み寄り、声をひそめて問いかける。
肩に手を添えて覗き込んだ彼女の瞳の色は私とよく似たブルー。濃淡に差はあれど髪も同じ金色で背格好もよく似通った私たちは、孤児院の皆から『双子の姉妹のようだ』と言われることもしばしばだ。
孤児院の前に捨てられていた私の正確な年齢や誕生日は不明だけれど、当時の身体状態から一歳九カ月ほどだろうと判断された。あれから十四年が経ち、私は現在十五歳。シスも同い年だ。
「フィーア……っ」
シスはキュッと唇を噛みしめて、薄く涙の滲んだ目で私の名前を呼ぶ。私はあまり自分の名前が好きではなかった。
私は孤児院に引き取られた四人目の子供で『四』を意味するフィーアと名づけられ、六人目のシスはそのまま『六』を名前にされている。
他の子も似たり寄ったりの杜撰な名付けがされており、そこに子供たちへの愛情は一片も介在してはいない。
「どうしたもこうしたもあるか! 朝から晩まで日がな一日畑作業に明け暮れて。それでも、あたしらが口に出来るのは日に二回の固いパンとほんの少し具が浮いた薄いスープだけだ。それだって、院長の虫の居所が悪ければ、いとも簡単に取り上げられる。あたしはもう、こんな暮らしはまっぴらだっ」
彼女は吐き捨てるように叫ぶと、小刻みに震える手をグッと握り締めた。その手は、私の手と同様に真っ赤で、潰れた肉刺からは朱色の滴りが滲んでいた。
「こんなところ今すぐに出て──」
「シス、よく聞いて」
最後まで言わせずに、私は大きく一歩踏み出してシスの拳を取る。
「ここでの暮らしは厳しいわ。けれど孤児院を出たところで、身寄りのない未成年の私たちが一人で生きていくことは不可能に近い。あなたも、ここでの苦しさから脱走して、そうして元とは似ても似つかぬ姿になって戻って来た仲間たちを見てきているでしょう」
多くの仲間たちが大人たちに搾取され、食い物にされ、ボロボロになって戻って来た。……それでも、戻って来られた者はまだいいのだろう。
私は院長室の前を通りがかった時に、偶然聞いてしまったのだ。院長先生たちが、嘲笑混じりに戻らぬ仲間らの憐れな最期を語っていたのを。
「それにあと半年の我慢じゃないの! 私と一緒に、ここで頑張りましょう」
シスの拳を優しく包みながら告げた。
カインザード王国に新たな施策が敷かれたのは、二年前のことだ。王太子様の肝入りで、貧民層や孤児院の出身者に対する雇用制度が整えられた。十六歳で孤児院を卒院する際、職業紹介所に登録することで、仕事を斡旋してもらえるようになった。当然、十六歳の成人を前に孤児院を飛び出してしまったら、これへ登録する機会を逃し、政策の恩恵は受けられなくなってしまう。まっとうな仕事に就けるこのチャンスを絶対に逃すわけにはいかない。
私は同じく年明けの頃に成人を迎えるシスと共に、早春ここを出ていくことが決まっていた。現在、季節は秋。ここを出るまで、もう半年をきっているのだ。
「分かったよ」
私の言葉にジッと耳を傾けていたシスが、ひとつ頷く。それを見て私はそっと手を解き、その手で放り出されていた鎌を掴み上げた。
「……あたし、後半年、頑張るよ」
「よかったわ!」
「なぁフィーア、半年後にここを出る時は、一緒に行ってくれるんだよな?」
私が差し出した鎌を受け取りながら、シスが不安の滲む目で見つめる。
「もちろんよ、そう約束したじゃないの。ずっとふたりで肩寄せ合ってやってきた親友じゃないの、これからだってふたり一緒ならなんだってできるわ。……そうね、ここを出た後は、いただけるなら厨房の下働きでも針仕事でも、お仕事はなんだっていい。贅沢なんて望まないわ。日に三度の食事を食べて暮らせるだけお給金をもらえれば十分だわ。ふたりで慎ましく暮らしていきましょう」
「うん! それはいいな」
「ふふっ。それじゃ、残る麦を刈ってしまいましょう。それこそ、院長が立腹して夕飯抜きを叫ぶ前にね」
「ああ!」
こうして私とシスは、脇目も振らずに麦を刈り続けた。……けれど、全ての麦を刈り終えて、這う這うの体で孤児院に戻った私たちに言い渡されたのは、院長からの「夕飯抜き」という無情な一言だった。
長時間の過酷な作業と空腹で、目眩がした。粗末なベッドに体を横たえれば、あっという間に辛い現実は遠ざかり、優しい眠りの世界が私を包み込んだ。
優しい眠りの世界では、天使様がいつもと同じ穏やかな微笑みで私を出迎えてくれた。
……あぁ、天使様。会えて嬉しいわ。
眠りの世界に住まう天使様は、光を弾いて輝く金髪と深いグリーンの瞳が印象的な五、六歳くらいの麗しい少年だ。彼を前にすると、私はいつも心の奥底から沸き上がるような懐かしさを覚えた。
穏やかな笑みを湛えた彼は、今日も私の元にふわりと舞い降りると、形のいい桜色の唇を開く。
温かな瞳で私を見つめながら紡がれる言葉はいつも同じ。
「僕の可愛いお姫様」
物心つくかつかないかの時分から、何度となく繰り返された、同じ台詞……。やわらかな微笑みと共に紡がれるこの台詞は、耳にするたびに私の胸を苦しいくらいに震わせる。
その微笑みをいつまでも見つめていたい。耳に心地よい声をもっと聞かせて欲しい――。
しかしどんなに願っても、天使様に私の声は届かない。その姿が段々と宵闇に霞みはじめ、あやふやになった輪郭が空気に溶けだす。
……いやよ、天使様!
「必ず君を捜し出すよ」
天使様は悲しげに微笑むと、いつもと同じ囁きを残して消える。
……待って、行かないで!
「天使様――っ!」
自らの叫び声に驚いて、その衝撃で跳び起きた。
「おいフィーア、大きい声を出してどうしたんだよ?」
隣のベッドで寝ていたシスが半身を起こし、心配そうに私を見つめていた。
「ご、ごめんなさいシス。起こしてしまったのね」
「なに、あと一刻もせずに起床の時間だ。起こしてしまったもなにもない」
私の謝罪に、シスはヒョイと肩を竦め、なんでもないことのように答えた。窓に目線を向ければ、東の空が薄く白みはじめていた。
「ほんとうね……」
孤児院の朝は早い。日の出前には起き出して、朝食を作る。さらに、年少の子供らの身支度も、全て整えてやらねばならなかった。
シスは自分のベッドを抜け出すと、他の子らを起こさぬように、足音を忍ばせて私のベッドにやって来る。
「なぁフィーア、さっき『天使様』って叫んでいたよな。それって、ガキの頃から見てるっていう、例の夢だろう? だけどさ、いい加減に、そんな夢物語は卒業しろよ。どんなにあたしらが困窮しようが、天使様は助けになっちゃくれないさ。……いや、待てよ」
私のベッドの端に腰掛けると、シスは空虚を睨んで吐き捨てる。ところが言葉の最後で一転、なにかにハッと気づいた様子で、私にくるっと顔を向けた。
「そもそも夢の中の話じゃ、卒業もなにもないか。むしろ、楽しい夢を見て眠れるなら、その方が余程にいいのか!」
白い歯を見せて、シスがニカッと笑う。
「もう、シスったら」
シスと軽口で笑い合いならが、私は小さな違和感を覚えていた。『夢の中の話』とシスは言った。けれど私は、実際の彼を知っているような気がしてならないのだ。
「ねぇシス、不思議なんだけれど、私は彼のやわらかな微笑みや、宝石よりもなお美しいグリーンの瞳を、実際に見たことがあるように思えてならないの」
「でも、フィーアがこの孤児院に来たのは、物心がつくかつかないかの赤ん坊の頃だろう?」
「ほんの乳飲み子ではなかったそうだけれど、二歳になるかならないかの頃だろうと聞いているわ」
孤児の私は、両親はもちろんのこと己の出自を知らない。
孤児院の乳幼児部屋で、空腹と寒さに泣いていたのが、持ちうる最初の記憶だ。だけど、もしかするとそれ以前に、私はあの天使様から笑みを向けられて、語り掛けられたことがあったのではないか?
……そう。たとえば、この孤児院にくる前、私がまだ親元にあるほんの幼い頃に……。
シスは、何事か考えるように首を傾げた。
「普通に考えて、二歳くらいじゃ、ろくすっぽ記憶なんてないだろう? そうすると、ここで会ったってことになるけどさ。……そんなお綺麗な少年なんて、ここの孤児院には、いやしないよ」
隣の大部屋に暮らす少年たちを思い浮かべれば、苦笑が浮かんだ。彼らはお世辞にも上品とは言い難く、どう転んでも私の天使様ではあり得ない。
「それは、そうね」
「実を言うとさ、あたしも煌びやかな館の中で、隙なく化粧を施して、豪奢に着飾った女と一緒にいる夢をよく見るんだ。たぶんあたしもフィーアも、無意識のうちに、夢の中で現実逃避をしてるんだ」
「……現実逃避?」
「ああ。ここは貧しくて物寂しい。その対比が、きっと煌びやかな夢になって現れてるのさ」
厳しいけれど、シスの言うそれは、真実に近いように思えた。
「そうかもしれないわね。それにしても、あなたがそんな夢を見ていたなんて、知らなかったわ」
「どこか懐かしい気もするけど、それ以上に不気味な夢なんだ。あたしはその夢の中で、いつも泣きながら女のドレスの裾を追いかけてる。煌びやかな館は迷路のようで、女はいつもスルリとあたしを躱して多くある重厚な扉のどれかに吸い込まれて消えていく。そうすると、きまって扉の向こうから女の啜り泣きみたいな耳障りな声が聞こえてきて……あ、日が昇りはじめたみたいだな! あたし、チビたちを起こしてくるよ」
「ええ、私は隣の部屋の男の子たちに声を掛けてくるわ」
シスに続き、日々の肉体労働で疲れ果て、自主的に起きることが難しい彼らを起こすべくベッドを下りた。
これでいったん、シスとの会話は終わりになった。




