ーー目撃ーー
火口の縁で二本の脚を刻む影。
世界中の人々は「奇妙な影」として見過ごしたかもしれない。
だが、彼だけは知っている。
――恐竜原人が、そこに立っているのだ。
テレビ中継が途切れるや否や、青年は弾かれたように会社を飛び出した。
街路樹の隙間から覗く空は、まだ夕暮れの赤みが残る。熱気混じりの湿った風を切り裂き、駐車場に停めてあった自分の古びた車へと駆け寄る。
エンジンをかけ、アクセルを踏み込む。
ハンドルは珍しく、迷いなく自宅の方向へと切られていた。
いつもなら道中、街角のネオンに視線を奪われ、パチンコ屋の駐車場に吸い込まれるのが常だ。
だが今夜だけは違った。
胸の奥で脈打つものがあまりに強く、寄り道の余地を許さなかったのだ。
家に着くと、靴を脱ぎ捨てるより先にリビングへ駆け込み、普段は電源すら入れないテレビの前に腰を下ろした。
リモコンを握る掌にじっとりと汗が滲んでいる。
それが興奮のせいなのか、残暑の湿気のせいなのか、あるいは家まで急いだせいなのか――自分でもはっきりとは分からなかった。
どのチャンネルも、あの映像を取り上げた特番ばかりだった。
青年は一つひとつの番組をせわしなく切り替え、耳を傾ける。
しかし、映像の解釈は予想通りだった。
学者と称する人々が整ったスーツ姿で画面に並び、落ち着いた声で言い放つ。
「ただの影です」
「火山の熱で生じた陽炎が、人の形に見えただけでしょう」
否定、否定、否定。
あの瞬間を、冷たい理屈で切り捨てていく。
青年は唇を噛んだ。
しかしチャンネルをさらに回すと、空気の異なる番組があった。
深夜バラエティ寄りの構成で、派手な字幕が画面を賑やかし、司会者が大げさに身振りを交えている。
そこでは、どこか胡散臭い雑誌編集長や、肩書きばかり長い研究者が得意げに語っていた。
「地底人の存在も、完全には否定できないでしょう」
「いや、未確認生物の一種だと考える方が自然ですよ」
根拠など、どこにもない。
だが、その無責任な響きにこそ、青年の胸は激しく高鳴った。
彼が求めていたのは、まさにそうした“ロマン”だった。
科学の鎖ではなく、夢想の翼。
――ただ、不思議だった。
なぜだろう。
なぜ、世界はこんなにも落ち着いているのか。
あれだけの人々が、同じ映像を目にしたはずだ。
火口に口を開いた黒い穴も、赤黒い影の歩みも、確かに共有された「出来事」だった。
それなのに、街には悲鳴も混乱もない。
ニュースは連日騒いでいるが、それはあくまで“話題”の域を出ず、緊急事態の空気はどこにも漂っていなかった。
政府も、専門機関も沈黙を守ったまま。
声明は出されず、ただ「様子を見ている」とでもいうように無言を続ける。
青年はテレビの前で、奇妙な孤独を覚えた。
全世界がパニックに陥り、自分ひとりが冷静さを保つ――そんな場面を、これまで幾度となく夢想してきた。
だが現実はまるで逆だった。
世界は冷静で、自分だけが興奮し、妄想を膨らませている。
「……おかしい」
口の中で呟いても、その違和感を言葉にできない。
釈然としない思いを抱えたまま、夜はゆっくりと更けていく。
カーテンの隙間から差し込む薄い光が、暗い部屋の中に筋を描く。
テレビの音声が虚しく響く中、青年の胸の鼓動だけが、なおも昨日の延長を刻み続けていた。
テレビ番組も、ゴールデンタイムこそ特番が組まれたが、結局のところ二時間にわたってあの同じ映像を繰り返し流すだけで終わった。
火口の縁に揺らめく黒い人影、その一瞬を何度も拡大し、角度を変え、解説者たちが「錯覚」「影」「陽炎」と言葉を並べて否定していく。
それ以上は語られず、掘り下げられることもなく、ただ“消費”されていく映像。
そして番組が終われば、何事もなかったかのように明るいテーマ曲が流れ、司会者の笑い声に満ちた通常のバラエティへと切り替わっていった。
世界は早くも「いつもの夜」へと戻っていく。
ただ一人、青年だけが胸の高鳴りを抑えられずにいた。
リモコンを握る掌にはまだ微かな熱が残り、頭の奥にはあの影の輪郭が焼きついて離れない。
だが興奮は、時計の針の音とともに確実に冷めていった。
番組が終わり、ニュースも途絶え、街のざわめきすら落ち着いていくにつれて、心の昂ぶりは次第にしぼんでいく。
やっぱり、自分の妄想に過ぎなかったのか。
周囲の冷静さに押し込められるようにして、熱はじわじわと薄れていった。
ふと、机の引き出しに手を伸ばす。
久しく触れることのなかった木の取っ手の冷たさが、掌の汗を吸い取った。
引き出しを開けると、そこに眠っていたのは古びたファイル――子どもの頃に書いた“例の論文”だった。
ノート用紙をホチキスで無理やり綴じただけの束。
表紙代わりに貼りつけたコピー用紙には、不格好な文字で「恐竜原人について」と書かれている。
ページを繰れば、震えるような筆跡が並び、背伸びした言葉で論理を組み立てようとしている。
「恐竜は絶滅していない」「地下に潜り、独自の進化を遂げた可能性」――。
拙い文だ。ところどころ漢字を間違え、行間には子ども特有の思いつきの落書きまで残っている。
徐ろにページをまとめてめくると、しっかりとした文字とうまくまとめた文章。
論文と共に成長した証。
それを読み返す青年の胸には、温かいものが込み上げていた。
書いていたときの自分の顔、夢中でペンを走らせる音、誰にも見せられないと知りつつも抱いていた奇妙な誇らしさ。
ページをめくるごとに、懐かしい記憶が呼び覚まされる。
楽しかった思い出も、ほろ苦い記憶も、小さな誇らしさも挫折も、すべてそこにあった。
部屋の静けさが重たくのしかかり、時計の針が進む音ばかりが耳につく。
眠ろうとしても、まぶたの裏に黒い影が焼きついて離れなかった。
青年はため息をつき、冷蔵庫を開ける。
中から取り出したのは、買い置きの安い缶ビール。
プルタブを引いた瞬間、乾いた音が夜気を切り裂き、続いて小さな泡の弾ける音が広がった。
ひと口。喉を通る苦味に顔をしかめながらも、妙に心が落ち着いていく。
けれどアルコールの熱が回るほどに、むしろ頭の中は冴えわたっていった。
机の上には広げた論文。
子どもの頃の稚拙な字と、思春期に書き足した拙い理屈。
そして今、手に取ったペン先が新たに白紙を汚し始める。
――近年の地殻変動は、恐竜原人が地表に影響を及ぼしつつある証左ではないか。
――マグマの噴出と共に目撃された黒い影は、地下生態系からの「露出現象」と解釈できる。
書きながら、自分でも笑いそうになる。
だが手は止まらない。
地震や洪水といった出来事の日時や詳細をネットニュースから切り取り、ノートの端に「恐竜原人活動域の拡張」という言葉と共に書き込んでいく。
飲み干した缶ビールが机の上に増えるたび、言葉は大胆さを増していった。
気がつけば外はすっかり深夜。
窓の外では、遠くで犬が吠える声がひときわ鮮やかに響き渡る。
それでも彼は机に向かい続けた。
まるで少年時代の自分と、十代の自分と、今の自分が同じ夜に同じ論文を引き継いでいるような錯覚に陥りながら。
書き足した論文を両手に抱きながら、青年は静まり返った部屋で深く息をついた。
カーテンの隙間から、わずかに夜の名残を残した空が白み始めている。
外の世界は、何事もなく朝を迎えようとしていた。
けれど青年の胸の奥では、ただの夜明けではないことを直感していた。
淡い光の向こうで、確かに“何か”が近づいている。
あの黒い影が証明したもの――人類が、再びあの“瞬間”に出会う時は、もうすぐそこまで迫っていた。




