ーー黒ーー
同じ頃、世界各地の都市にも再び灯りが戻る。
夕暮れで真っ赤に染まった薄暗い街並みが、一瞬にして日常の明るさを取り戻す。
信号が点滅を始め、電車の車輪が再び音を響かせ、無数の家庭のモニターが息を吹き返すように映像を映し出した。
誰もが待ち望んでいた“瞬間”が、ついにやってきたのだ。
世界中が固唾を呑み、画面に食らいついた。
――しかし。
映し出されたのは、あまりにも平凡な光景だった。
連日、底知れぬ闇を湛えていたはずの穴は、今や赤々としたマグマを湧き上がらせ、まるで活性化した火山口のように揺らめいている。
灼熱の噴煙が立ち上り、硫黄の白い靄が漂い、風に煽られて舞う。
それだけだった。
何事もなかったかのように。
世界中の人々は、まるで肩透かしを食らったかのように沈黙した。
けれど目はモニターから離れなかった。
胸の奥に渦巻くのは落胆ではなく――疑念。
これは一体、どういうことなのか。
さきほどの光は何だったのか。
なぜ、全世界の電気が止まり、そして一斉に戻ったのか。
思考が追いつかず、ただ立ち尽くすように画面を見つめるしかなかった。
そのとき、映像がふいに動いた。
報道ヘリのカメラが、ゆっくりと、確かめるように穴の中心へとズームしていく。
マグマの煮え立つ様子をより鮮明に映し出そうとしている――誰もがそう思った、その刹那。
世界中の視聴者の目に、衝撃の映像が飛び込んできた。
それは、灼熱のうねりでも、赤黒い噴煙でもなかった。
燃え盛る光の縁、揺らめく炎の向こう側に――。
黒。
炎を拒むかのように存在する、いくつもの漆黒の影。
それは岩の突起のようにも、人の形をした立像のようにも見えた。
だが確かに“人影”だった。
互いに干渉することもなく、ただ無言で立ち尽くす無数のシルエット。
その数は、映像がズームするたびに増えていくようにさえ感じられた。
誰一人として声を発することはできなかった。
言葉が出ない。
いや――出せなかった。
世界は、その瞬間、呼吸を止めていた。
ざわめきは、世界中のテレビの前から一斉に溢れ出した。
息を呑んだような静寂が破られ、疑問と動揺が絡み合い、空気をざわめかせていく。
「……なんだ、あれ?」
「人か? でも、あんな熱気の中に立てるはずがない」
「絶対に岩の影だって」
暗い映像に浮かび上がるのは、煮えたぎる溶岩の赤黒い灯りに照らされた影だった。
ゆらめく熱気に輪郭を歪ませながらも、その存在だけは確かにそこにあった。
ただの岩とも言えたが――次の瞬間、世界中の視線は同時に凍りつく。
カメラが、捉えてしまったのだ。
二本の脚で、ゆっくりと歩き出す影を。
「……動いた……!」
「生きてる! 生き物だ!」
「いや、人間じゃない……だとしたら、何なんだ?」
ざわめきは混乱に変わり、テレビの前の人々は互いに顔を見合わせた。
その最中、報道ヘリからの中継に、震えるようなアナウンサーの声が重なる。
「皆様……ご覧いただいていますように、黒い穴だった火山口の周囲には、正体不明の生物と思われる影が複数、確認されております……!
ただ、すでに日も落ち、視界も悪化しており、はっきりと確認するのは困難です。
現場ではライトの照射を試みましたが、火山口付近は危険区域のため、これ以上の接近は……」
言葉が途切れ、間を置いて続いた。
「……取材班の安全が確保できません。つきましては……夜が明けるまで、中継を一度断念させていただきます」
その瞬間、映像がぷつりと途切れる。
かすかなノイズののち、画面には提供クレジットの静かな文字が浮かんだ。
ただの白文字に過ぎないのに、無数の目がそこに釘付けになり、取り残されたような感覚が広がっていく。
「……なんだったんだ、今のは」
誰かが押し殺すように呟いた。
人々は、まるで舞台の幕が下りた観客のように言葉を失っていた。
やがて落胆や不満の声がぽつぽつと漏れ出す。
「せっかく真相が分かると思ったのに」
「ニュースまで打ち切るなんて……」
「やらせっぽくない?」
不満と諦めが入り混じった声は、次第に街のざわめきに溶けていった。
人々は肩をすくめ、苦笑を浮かべながら散り散りに家路へと戻っていく。
確かに、街の灯りは戻っていた。
信号は赤と青を繰り返し、電車は軌道を震わせながら走り、商店の看板は眩い光を取り戻していた。
その光の中に溶け込むように、人々はそれぞれの生活へと歩みを戻していく。
「……まあ、結局何でもなかったんだろう」
「火山の影じゃないか?」
「明日のニュースにならなければ、それまでのことさ」
そんな声が、いかにも無関心に交わされる。
黒い影の記憶は、驚きと共に訪れ、同じ速さで意識からこぼれ落ちていった。
――世界は、一瞬の興奮を味わっただけで、あっさりと忘却へ向かい始めていた。
ーーそこにはただ一人、会社のテレビの前から動けない青年がいた。
午後の仕事を終え、帰宅のために鞄を手に取った、その一瞬だった。
唐突に社内を襲った停電。
無機質な蛍光灯がぱちんと音を立てて消え、残された闇は数分のあいだフロアを沈黙で支配した。
電話の回線も止まり、PCのファンも止まり、同僚たちがざわつく声だけが闇の中に浮いていた。
やがて、ゆっくりと照明が戻る。
同時に、フロアの片隅でひときわ明るい光を放つモニターが、彼の視界に飛び込んできた。
全員がほっと息を吐き、何事もなかったかのように帰り支度へと戻っていく中で、青年だけがその場に立ち尽くした。
そこに映っていたのは、世界中の人々が同じ瞬間に目にしていた光景――火口の縁に、立ち現れた黒い影。
それは最初、人のようにも見えた。
だが次の瞬間、影が複数の形をとり、ゆっくりと二足で歩き出すのをカメラが捉えた時――青年の身体は石に変わったかのように動かなくなった。
手から鞄が滑り落ち、音を立てて床に転がったことにも気づかない。
目は開ききり、まばたきを忘れ、思考は完全に凍結する。
代わりに暴走したのは心臓だった。胸を叩く鼓動が耳の奥に反響し、こめかみの血管は火照り、視界が揺らぐ。
呼吸は乱れ、喉の奥は叫びを吐き出そうと震えた。
だが――彼は必死に押し殺した。
顔はあくまで平静を装い、心の奥で自分に言い聞かせる。
落ち着け。落ち着け。
恐怖ではない。
疑念でもない。
そこにあるのは、ただひとつの確信だった。
――地底人だ。
その言葉は、彼の幼い頃から、絶えず胸の奥に棲みついていた。
子どもの頃、理科の教科書に並んでいた人類の系譜を思い出す。
サヘラントロプス、アウストラロピテクス、ネアンデルタール、ホモ・サピエンス……。
その行列に加わらない、もうひとつの「可能性」。
彼はずっと信じていた。
なぜ恐竜は、滅んだと断言できるのか。
もしも彼らもまた、人間と同じように進化を遂げていたとしたら――。
幼い想像を大人たちは笑った。
けれど、笑われるたびに彼の中の確信はむしろ鮮明になった。
だから少年は、自分なりに名を与えた。
「地底人」。
地下深くに潜り、地上から姿を消し、独自の進化を遂げた者たち。
それは幼稚で、荒唐無稽な響きだった。
やがて思春期。
空想だけでは足りなくなり、彼はノートを開いた。
自由帳の罫線に、まるで研究者を気取るかのように仮説を書き連ねていく。
――恐竜は絶滅していない。生存のために地下へと潜り、独自の進化を遂げた可能性がある。
子どもじみた拙い文章だった。
だが本人にとっては真剣そのものだった。
参考書の端から難解な単語を拾ってきては無理やり文章に押し込み、「進化論」「適応放散」といった言葉を並べて悦に入った。
ある日、ふと気づく。
「地底人」という呼び方が急に子どもっぽく、稚拙に思えてきた。
論文に記しても恥ずかしくない、科学的な名を与えなければ。
彼は長いあいだペンを止め、机に額をつけて考え込む。
やがて顔を上げ、走り書きした。
――恐竜原人。
その一語で、妄想は次の段階へと進んだ。
空想の産物ではなく、自らが築いた「仮説」へと昇華されたのだ。
少年の胸に生まれた名は、やがて彼の青春を貫く旗印となった。
そして今――。
その名が、現実によって再び呼び覚まされている。




