ーー疑問と異変ーー
――この日もそうだった。
職場での午後は、取り立てて変化のない時間の繰り返し。
退勤まで、あと一時間半。
気持ちはすでに机上の業務から離れ、午後の休憩に向かっていた。
休憩室では、別部署の同僚と肩を並べる。
話題はもちろん、今晩の戦い――パチンコだ。
スマートフォンの画面を覗き込み、データを追い、グラフを指でなぞる。
勝てる台を探す作業は真剣そのもの。
だがそれは、明日の生活を賭ける戦ではない。
勝つか負けるか分からない不確かな遊戯に、あえて全力を注ぎ込む。
その無駄のような必死さが、なぜだか一番楽しい時間だった。
気づけば三十分はあっという間に過ぎていた。
まだ狙い台を決め切れてはいない。
だが、それでいい。どうせ決めたところで、勝てる保証はない。
プロ気取りの真似事をしているだけ――そんな自嘲を胸のどこかで笑いながら、缶コーヒーを飲み干した。
休憩が終わり、持ち場へ戻ろうとしたときだった。
窓の外で、ぽつりと大粒の雨が落ちたかと思うと、すぐに地を這うような轟音に変わった。
雨は一気に強まり、屋根を叩く音が会話をかき消す。
同僚が何か声をかけても、もう言葉は耳に届かない。
ポケットから取り出したスマートフォンの画面には、臨時ニュースが流れていた。
〈線状降水帯が発生〉
〈地盤の緩い地域では直ちに避難を〉
赤いテロップが雨音の圧力と重なり、胸をざわつかせる。
それでも、幸運と言えるのは休憩終わりを狙って降り始めてくれたことだ。
せっかくの作戦会議を邪魔されずに済んだのは、むしろあめが空気を読んでくれたようでさえある。
同僚との何気ない会話は、彼にとって束の間の楽しみだった。
もしこれが休憩時間を直撃していたら――声も聞き取れず、ただ缶コーヒーを握りしめたまま、無言でやり過ごすしかなかっただろう。
雨音が増していくのを眺めながら、彼は心のどこかで「ありがとう」と呟いた。
自然の猛威に感謝を覚えるなど、考えてみればおかしな話だ。
それでも、その一瞬の安堵が、彼の午後をほんの少しだけ温めていた。
仕事が再開し、時計の針は容赦なく進んでいた。
青年にとって、この後に控える本当の戦い――つまりパチンコ屋での一戦――までの時間は、ただの待機に過ぎない。
残業など、もってのほかだ。
長引きそうな案件には決して手をつけず、要領よく流せる仕事だけを拾い、時間を調整する。
この見え透いた小細工が功を奏するかどうかは、いつも小さな賭けだった。
「……よし、今日はイケる」
心の中でそう呟きながら、17時のチャイムと同時に席を立ち、一直線にホールへ向かうつもりでいた。
だが、ふとした気まぐれで窓の外を覗いた瞬間、その目論見は音を立てて崩れた。
辺り一面が、まるで海原のように水に覆われていたのだ。
用水路は濁流を吐き出し続け、道路は見渡す限り冠水している。
昼休みに目にした空の暗さを思い出すが、それでもここまでとは想像していなかった。
「……いつのまに?」
声を上げると、同僚たちも気づき始め、次々に窓辺へと集まった。
一斉に仕事の手が止まり、職場がざわめきに包まれる。
そこへ課長が足早にやってきた。
「海沿いの道が土砂崩れで通行止めになったぞ。バイパスも大渋滞らしい。……悪いが、今やってる仕事がキリの良いところで上がってくれ」
その一言に、場の空気が揺れた。
早上がりは歓迎すべきことだろう。だが青年にとっては素直に喜べるものではなかった。
「……なんとも悪いニュースだな」
心の中で小さく呟く。
確かに早く帰れるのはありがたい。だが渋滞に巻き込まれれば、パチンコ屋に辿り着く頃にはすっかり夜が更けてしまうだろう。
「良いニュース」なのか「悪いニュース」なのか――判断のつかないまま、青年はしぶしぶ帰宅の支度を始めた。
そこへ、昼休みに戦略を練った“戦友”が現れた。
「わりぃ、今日はオレ、勝負やめとくわ」
「……え?」
思わず聞き返した青年に、友人は渋い顔で続けた。
「実家がさ、土砂崩れのあたりなんだよ。心配だから連絡とって、顔出してくる」
「……そっか、それは心配だね」
青年は言葉を探しながら頷いた。
「じゃあ、オレもやめておくかな。どうせ渋滞にハマれば、いい台なんて取れないし」
心配の重みと、単なる打算。
その差は比べようもなく大きかったが、青年は深く追及しなかった。
結局、この日はまっすぐ帰るしかなかったのだ。
同僚との会話の最中も、大粒の雨は途切れることなく降り注いでいた。
早退の令が出たとはいえ、この雨脚では駐車場まで辿り着くのすら骨が折れる。
屋根を叩きつける雨音はなおも続き、窓の外はまるで白い幕で覆われたように霞んでいた。
誰かが休憩室のテレビをつけた。
ローカル局のニュース番組が、この地域一帯の大雨と土砂崩れの情報を伝えている。
「危険ですので、川の様子を見に行くことや、冠水している場所に近づくのは絶対におやめください」
アナウンサーの声は努めて冷静だったが、その抑揚の少なさが逆に事態の深刻さを物語っていた。
「次に、他県の様子も見てみましょう」
画面が切り替わる。
そこに映し出されたのは、近県を襲った洪水の映像だった。
濁流に呑み込まれた家々、屋根の上で救助を待つ人々、泥水に浮かぶ車。
画面いっぱいに広がる惨状に、青年は思わず息を呑み、小さく「……うわ」と声を漏らした。
休憩室に残っていた同僚たちも、息を飲んで映像を見つめている。
「ちょっとひどすぎるね。かわいそうに」
「こんな水害、初めてじゃない?」
「確か関東圏に配電する発電所あったよな? 向こうにも影響出るかもしれないね。」
誰もが口々に不安を語り、眉間に皺を寄せ、声を低める。
恐怖と憂慮が、確かにそこにはあった。
その間にも、雨音は次第に弱まっていく。
窓を見れば、白い幕が薄れ、いつのまにか陽の光すら差し込んでいた。
先ほどまでの豪雨が嘘のようだ。
外の様子を確認する者、スマートフォンで雨雲レーダーを開き予報を読む者、そして「今だ」とばかりに鞄を掴んで帰路に就く者。
人々の動きが慌ただしくなっていく中、青年もリュックを背負い、出口へと足を向けた。
その時だった。
胸の奥に、妙なざらつきが残っているのに気づいた。
(なんでだろう……富士山噴火のほうが、どう考えてもヤバいはずなのに)
あの赤いテロップと専門家の険しい顔を思い出す。
火山が本当に噴けば、国中に甚大な被害が出る――誰だって分かることだ。
それなのに、あのときの休憩室は静まり返っていた。
「交通止まるかな」「灰がこっちまで来るかもな」……軽口が漏れる程度で、恐怖の色はほとんどなかった。
一方で、今目の当たりにしている水害映像には、皆が明確に動揺している。
その温度差が、どうにも腑に落ちなかった。
(距離の問題……? 自分たちの足元にある災害だから? それとも、富士山はまだ予兆にすぎないから……?)
青年は胸の奥に重さを覚えた。
富士山がもし噴火したら、本当に国を揺るがす大災害になる。
被害の光景を想像した瞬間――
――フッ。
まるでロウソクの火を吹き消されたかのように、その不安は跡形もなく消え去った。
胸を締めつけていた重さが、するりと抜け落ちる。
(……まぁ、大丈夫か)
気がつけば、そう呟いていた。
違和感を「不思議だ」と思うことすらなく、自然と受け入れてしまう。
そして青年の意識は、もう駐車場までの道に広がる水溜りへと移っていた。
冠水したアスファルトの上を歩く自分の靴を思い描きながら、彼はただ無意識に足を進めていた。




