ーー寂しさーー
ーーどれほど眠っていたのだろう。
ふと目を覚ますと、車内はひんやりとした空気に満ちていた。エンジンはかけっぱなしのままなのに、暖房は弱まり、指先には薄い冷たさが触れる。リクライニングした座席をゆっくり起こし、ぼんやりとした頭のまま窓の外へ視線を向ける。
先ほどまでしんしんと降り続いていた雪は、いつの間にか止んでいた。代わりに、止んだ雪が作り出す静寂だけが世界を支配している。年末の深夜。普段なら長距離トラックが列をなし、オレンジ色の尾灯が土星の輪のように続くはずのサービスエリアも、今夜に限ってはまるで別世界だ。広い駐車スペースにはほんの数台のトラックしか停まっておらず、降り積もった雪が電灯の光を淡く反射し、白く滲んだ世界を照らしている。
エンジン音が妙に遠く聞こえる。青年はフロントガラス越しに静まり返った光景を眺め、胸の奥に小さく疼くものを感じていた。
(……原人さんたち、無事に帰れたのかな。)
そう思う自分に、自分で苦笑する。誰も信じないだろうこの感情。誰にも話すことのない秘密。けれど確かに心の中には、原人たちの存在がまだ息づいている。
この世でたった一人だけが抱く想いを胸の奥にしまい込みながら、黒とも白ともつかない夜の天幕を青年は見上げ、ゆっくりと息を吐いた。曇天の空は、いまだ星を見せてくれない。
「さぁ、もう一息。帰って作らないと。」
独り言のように呟きながら、青年はエンジンの回転数を軽く上げた。眠気はもうない。荷物の位置を整え、シートベルトを締め直し、サービスエリアを後にする。
たった短い睡眠だったはずなのに、深く沈むように眠れたせいか、頭は驚くほど冴えていた。視界はくっきりと冴え、夜の残り香を濃く残した空気が肺に新鮮に入り込む。山あいの道を抜ける間はまだ雪が残り、路面は慎重さを求めてくる。しかし青年の運転は迷いがなく、呼吸をするようにハンドルとアクセルを操っていた。
峠を越え、新潟の山々が遠ざかると、降り続いた雪も次第に姿を潜めていった。白い世界はやがて終わりを告げ、雲の切れ間からわずかな光がのぞく。北陸の空気は冷たいままだが、険しさよりも穏やかさが前面に出てくる。まるで天気までが「先を急げ」と背中を押してくれるかのようだった。
青年は無心で車を走らせた。アクセルを踏む足には迷いがなく、ナビの案内も耳に入らない。胸の内にはただ一つ、揺らぎのない計画だけが息づいていた。
今年のうちに完成させる。そして、年が明けたらすぐに埋める。
それが、自分に課した使命のように感じられていた。
たった一人の夜のドライブは、まるで孤独そのものとの戦いのようだった。
窓の外は黒一色。車内を照らすメーターの光だけが現実との境界をつなぎとめている。音楽を流しても、旋律は耳に届かず、ただ車体のエンジン音とタイヤが雪を踏むリズムだけが、淡々と時間を削っていった。
ようやく辿り着いたアパート。
駐車場に車を停めると、冷たい空気が身体にまとわりつく。荷物は多く、車と部屋を三往復。鍵を回して玄関を開けた瞬間、肌にまとわりつくような異様な温気に気づく。
(これは…? まさか。)
慌ててエアコンのリモコンを手に取ると、表示ランプが赤く灯っていた。
(うわ、消し忘れた。)
朝から晩まで、誰もいないこの部屋を、律儀に暖め続けてくれていたらしい。
空気はゆるく、まるで時間までここだけ取り残されたようだった。
外で冷たい空気に触れ、あれほど冴えていた気持ちが、部屋のぬるい空気に触れた途端、しゅるしゅると音を立ててしぼんでいくようだった。
たかがエアコンの切り忘れ。
けれど、その“たかが”が、胸の中の火を不意に冷ます。
さっきまでタイムカプセルを作る意欲で軽く感じていた荷物が、
急に鉛でも詰まったように重くなった。
部屋の温度は暖かいのに、心は外気のように冷えていく。
熱を持っていたはずの想いが、
今はただ、静かに手の中で重さだけを主張していた。
強い意志とは、言葉にすればたった四文字だ。
だが、それを貫ける人間がどれほどいるだろう。
誰もが諦めずに頑張れるわけではない。
むしろ、何度も心が折れて、立ち止まって、それでも少しずつ前へ進むのが人間だ。
(もし、恐竜原人の思考をコピーして生まれたのが人間なら――彼らも案外、心は強くなかったのかもしれないな。)
ふとそんな考えが浮かんで、青年は小さく笑った。
完璧な存在ではないという想像が、なぜか心を軽くする。
今の青年には、それで充分だった。
強さを装う必要はない。
あの神社での出来事、原人たちの声、澄んだ青空を思い出せば、
それだけで自然と心に熱が戻ってくる。
(さぁ、やるか。)
小さく呟き、床に置いていた荷物を持ち上げる。
エアコンの音が静かに部屋を包み込む中、
青年はカップにお湯を沸かし、湯気が立ちのぼるのを眺めながら、
再び心を作業へと切り替えた。
机の上にノートと道具を広げ、
タイムカプセルの中をどうしたら百年先でも形を保てるのかを考える。
ネットで調べても、明確な答えはどこにもない。
どんな防水処理をしても、どんな金属を選んでも、完璧な方法は見つからない。
「結局、自分で決めるしかないか。」
そう呟いて、自論ノートを開く。
ページには、少年の頃に書いた自論。それを上書きした大人になった自分が書いた自論。そして原人との出会いから今日までの記録がぎっしりと詰まっている。
その筆跡のひとつひとつが、自分の生きた証であり、
誰かに届くかもしれない“未来への声”でもあった。
まず、青年は自論ノートを丁寧に閉じ、ページの隙間を指でなぞった。
今日までの想いが詰まったそのノートは、ただの紙束ではない。
それは彼自身の記録であり、原人たちとの「証明」でもあった。
(ここからが本番だ。)
青年は深呼吸をしてから、透明なジッパー付きビニール袋を取り出す。
ノートを慎重に差し込み、乾燥剤をいくつか入れた。
“時間”という名の湿気から守るための、ささやかな防御。
袋の口を閉じる瞬間、空気の逃げる「パチン」という音がやけに静かに響いた。
次に用意したのは、透明なタッパー。
中に消しゴムを3つ、少し間をあけて配置する。
それはまるで“足場”のように、ノートを宙に支えるための工夫だった。
青年はその上にノートを袋ごとそっと置き、位置を微調整してバランスを整える。
(……よし、浮かせたままいける。)
そして、レジンを流し込み始めた。
透明な液体がタッパーの底からゆっくりと広がり、
ノートの縁を包み込みながら静かに満たしていく。
気泡を立てないように、息を止めるほど慎重に。
部屋の照明がレジンの表面に反射し、
ノートがまるで宝石の中に閉じ込められたように見えた。
光を透かして浮かぶ文字の影が、時を越える意思のように揺らめく。
(綺麗だな……まるで時間が止まったみたいだ。)
青年はその姿を数秒見つめ、
ゆっくりとUVライトを当てて硬化を始めた。
静まり返る部屋の中、機械的な光が脈を打つように点滅する。
ノートが、未来へ向けて封印されていく瞬間だった。




