ーー別れーー
その言葉は、別れの鐘の音のようだった。
青年はうつむく。胸の奥から込み上げる、説明のつかない寂しさ。
握りしめた小石は、たしかに存在する“つながり”の象徴だった。
彼はそっとそれをポケットにしまいこむ。温もりが、まだ指先に残っている。
ーー「これで帰ってしまったら……次に来る時には、オレはもう生きていないですよね?」
(そうですね。次の調査は、おそらく数百年後になるでしょう。)
ーー「……もっとあなた達のことを知りたかった。人間のことも知ってほしかった。話したいこと、いっぱいありますよ。」
青年の言葉は空へ溶けるように薄く響く。
すると原人は、少し微笑むような調子で続けた。
(あなたは開発者の意向を受け継ぐ者。あなたが我々について思考するたび、プログラムを通じて必要な情報が開示されるでしょう。)
(逆に言えば――我々は“あなたが想う通りの生命体”であるのかもしれません。)
その言葉は哲学のようで、祈りのようでもあった。
青年の心には、小さく火がともる。消えないまま残るであろう火だ。
冬の山頂の空は、やけに青く、どこまでも澄み渡っていた。
別れの予感を抱えながら、青年はその空をただまっすぐに見上げた。
(――では、これで最後になります。本当にありがとうございました。)
ーー「……はい。こちらこそ、ありがとうございました。」
そのやりとりは、たった一言の応酬だった。
しかし青年にとって、その言葉は何百行にも匹敵するほどの想いを抱いていた。
芽生えた不思議な友情は、これからも確かに自分の中で生き続ける――
そう感じられるほど、原人との時間は深く刻まれていた。
孤独とは別の世界で生きていたはずの存在と、たしかに心を通わせたという実感。
それは“記憶”ではなく、これからの“糧”になるものだ。
最後の応答が途切れると、耳に入ってくるのは冬の山頂特有の静けさだけ。
風も息を潜め、雪面の光だけが澄んだ青へ反射している。
青年は鳥居の方へ視線を向け、ゆっくりと一礼した。
ーー(また来よう。何度でもここに来よう。)
皆神神社を、ただの目的地ではなく「帰ってこられる場所」にしたい――
自然と、そんな想いが生まれていた。
ポケットの中の小石の感触を確かめると、青年は振り返らずに歩き出した。
青空はどこまでも澄み渡り、別れの後の世界とは思えないほど明るい。
原人との別れはあっけなかった。
だがその余韻は、静かで、深く、そして美しかった。
冬の陽光を背に受けながら、青年は来た道を一歩ずつ戻り始めた。
ーー車のドアを開け、エンジンをかける頃には、太陽はすでに山の端へと沈みかけていた。
雪面はかすかなオレンジをまとい、冬特有の短い夕暮れが終わりを告げようとしている。
帰り道の記憶は曖昧だった。
ハンドルを握り、アクセルを踏み、ただ景色が流れていくのを眺めていたはずなのに、頭の中はひとつの光景で満ちていた。
――あの声。あの対話。あの時間。
何度も何度も、同じ場所を再生するように。
けれど不思議と、胸の中は空っぽではなかった。
寂しさは確かにある。失った感覚もある。
だがそれ以上に、前へ押し出されるような力が湧いていた。
落ち込んでいるわけでも、浮かれているわけでもない。
ただ、何かを確かにやり遂げたという感覚――
いろんな感情が拮抗し、絶妙なバランスで保たれている“ニュートラル”。
それでも最後に、ほんのひとかけらの寂しさだけが顔を出す。
しばらくはこの“前向きな失恋”のようなふわりとした感覚を抱えて生きていくのだろう。
夜は容赦がない。
太陽の光が失われると世界は一気に冷え込み、車の窓ガラスは薄く白く曇り始めた。
青年はヒーターの風量を上げながら、凍りつく路面に注意を払い、主要道路へと慎重に車を走らせていく。
(……腹、減ったな。あれ?そういえば昼飯、食ってなかったっけ。)
独り言にもならない独り言を胸の中で呟く。
視線を道路脇へ向けると、遠くに黄色い看板が浮かび上がるように灯り始めた。
(あそこまで行けば何か食べられそうだ。)
空のように広い胃袋が急に主張を始める。
国道沿いのファミレスへとウインカーを出し、青年はようやくハンドルから力を抜いた。
食事にはまだ少し早い時刻だった。
店内は昼と夜のあいだの空白の時間帯で、客はまばら。ざわめきもなく、ゆっくりと疲れを降ろすにはちょうどいい静けさが広がっている。青年は窓際の席に腰を下ろし、まずはドリンクバーだけを注文した。まだ心の整理がつかない今は、食事よりも温もりが欲しかった。
カップを手にドリンクバーへ歩き、淹れたてのホットコーヒーを注ぐ。立ったまま一口含むと、熱が舌を刺し、眠っていた体のどこかが目を覚ます。猫舌の青年は小さく息を吐きながら氷を一つ落とし、席へ戻った。
上着を脱ぎ、深く座り直すと、バッグから一冊のノートを取り出す。
かねてから書き溜めていた〈自論ノート〉。そのページをめくるたび、今日の出来事が映像のように蘇り、胸を締めつける。空いた店内ゆえ視線を気にする必要もない。仮に誰かに覗かれたとしても、勉強や自己啓発のメモに見えるだろう。それで十分だった。
青年はペンを走らせる。
──出会いの衝撃。
──会話の意味。
──価値観の変化。
──そして別れ。
記すほどに、心の奥に沈んでいた想いが浮かび上がる。苦しく、愛おしく、どうしようもなく現実だ。
コーヒーを啜り、ふと天井を見上げる。
自分は何を受け取り、何を渡せたのか。
あれほどの存在と心を通わせてしまった以上「ただの出来事」として処理してしまうには、あまりにも濃すぎた。
プログラム──たしかに仕組みとしてはそうなのかもしれない。けれど、あの温度や哀しみ、優しさに触れた自分だけは知っている。
あれはただの遊び心のプログラムではないと。
思考のどこかで、言葉が形になる。
(この体験を、ただ胸の中にしまっておくだけで終わらせていいのだろうか……?)
指先が止まる。
次の瞬間、青年の脳裏に古代の壁画が浮かぶ。エジプトの石壁に刻まれた、太古の物語。あの壁画の作者もまた“伝えたい何か”を持っていた者。時代を越えて残し、託し、繋いだ者。
(……そうか。もしかしたら、これは使命なのかもしれない。)
恐竜原人との出会いが、一人の青年の人生の軸を、静かに、しかし確かに動かし始めていた。
青年はふと顔を上げると、冷めかけたコーヒーを一口飲み、スマートフォンを開いた。検索窓には迷いなく指が走る。最寄りのホームセンターを探すためだ。
ーー後世へ託す。
自分がまたこと、感じたこと、そして"宿ってしまった意向"を。




