ーー登山ーー
気がつけば、ナビのディスプレイには「長野インター 出口まであと3km」の表示。
胸の奥にじわりと高揚感が広がる。
(はやる気持ちを抑えろ…焦ると事故るぞ。)
そう自分に言い聞かせながら、ブレーキを軽く踏み、ゆるやかに減速。
料金所を抜け、一般道に出る。
車のスピードが落ちると、音楽が途端に近く感じられた。
サビのリズムに合わせて口ずさみながら、青年はハンドルを軽く握り直す。
ーー(あとはナビ通りに進むだけか。雪はどんな感じだろう。)
この時期、皆神山の道路状況がどうなっているのか、正直まったく分からない。
スマートフォンを手に取り、車を路肩に寄せて停める。
吐息が窓ガラスに白く曇る中、検索窓に指を滑らせた。
――「皆神山 道路 冬期通行止め」
指先が画面の上で止まる。
ほんの少しの緊張と、旅の終盤特有の静かな期待が、胸の奥でゆっくりと混じり合っていく。
例年なら、皆神山の山頂でもせいぜい二十センチほどの積雪と聞く。
だが今年は太平洋側でも雪が多かったようで、その影響が長野にも及んでいるらしい。
ーー(マジか…行けないってこともあるのか?)
画面をスクロールする指先に、わずかな焦りが走る。
いくつかの記事を開き、SNSで現地の写真も探してみる。
どうやらこの先の道路は、整備工事のため通行止めになっているようだ。
雪だけでなく、人の手による制約。
計画通りにはいかない現実が、旅の終盤で急に顔を出した。
ーー(迂回路は…あるにはあるな。けど、山頂までは車じゃ無理かもしれない。)
ナビに新しいルートを入力し、少し息を吐く。
ーー(行けるところまで進んでみるか。せっかくだし。)
再び車を発進させる。
標高が上がるにつれて、空気が透明になっていくのが分かる。
遠くの山並みの奥に、ついにその姿が見えた。
白く光る峰の中で、皆神山が静かに佇んでいる。
まるで何かを待っていたように。
ーー(あれが…皆神山。)
青年は思わず息をのむ。
スマートフォンの画面越しではなく、実際の目で見るその姿は、写真よりもずっと重たく、どこか懐かしさを感じさせた。
やがて「大日尊」の鳥居前に着く。
駐車場には数台の車が停まっているだけで、観光客の姿はほとんどない。
冬の静けさに包まれたその場所は、まるで時間が止まっているようだった。
ーー(登山口から入るか…頂上までは車道もあるけど、この季節じゃどうだろうな。)
靴の底で踏みしめた雪が、軽やかにキュッと鳴る。
思ったよりも積雪は少ない。
空は、これ以上ないほどの晴天。
参道に伸びる影がくっきりと長く、冬の太陽の角度を感じさせた。
ーー(歩いて行こう。せっかくだからこれも楽しもう。)
澄んだ空気が肺に染み渡り、心拍数が少しずつ上がっていく。
遠くの山々を背景に、青年は車を振り返り、ゆっくりと鳥居をくぐった。
その先に広がる静かな世界が、まるで異なる時代へと続いているように思えた。
参道の入り口に立ち、青年は頂上までの道のりを頭の中で描いた。
ーー(もしかしたら登山道は雪で覆われてるかもしれないな…。スコップは折りたたみ式のがあったはず。大丈夫だ。)
山に行くと決めた時点で、装備は少し大袈裟なくらいに準備していた。
靴底の厚い登山靴、保温性の高いグローブ、そして万が一のための非常食。
たとえ半日程度の登山でも、自然を甘く見るつもりはなかった。
しかし、さすがは長野。
陽の当たる場所では空気が緩むような暖かさを感じるのに、ひとたび木々の影に入ると、世界は一変する。
風の通らない登山道の奥は、まるで冷気そのものが地面から滲み出しているようだった。
耳の先が痛くなり、鼻の感覚も少しずつ薄れていく。
ーー(これは相当きついな…。早く見つけて帰らないと。)
当初は「冬の山をのんびり楽しむ旅」のつもりだった。
けれど、いざ足を踏み入れると、余裕よりも“生き物としての警戒心”が勝っていく。
青年は背筋を伸ばし、吐く息を短く整えながら、陽の差す方へと急ぎ足になる。
そんな時、ふと気づく。
足元の雪が思ったより少ない。
というより、登山道の中央だけが妙に踏み固められ、地面が顔を出している。
ーー(誰か通った形跡があるな…。参拝客か?初詣の下見かもしれない。)
辺りを見渡しても、人影はない。
だが確かに、つい最近の足跡が続いている。
するとその時、原人の声が脳内に柔らかく響いた。
(どうやらそうみたいですよ。近くの子供たちが、よくここで遊んでいるようです。)
ーー「子供たちが?こんな寒いのに?」
思わず小さく笑う。
原人は、まるでずっとこの地を見守ってきたかのように、淡々と、しかしどこか懐かしむように言葉を伝える。
青年はその言葉に、わずかな驚きと同時に、妙な安心感を覚えた。
ーー「やっぱり、あなたはこの世界をちゃんと見てるんですね。地上のことも、ちゃんと。」
木立の間から差し込むわずかな陽光が、雪面をわずかに照らす。
その瞬間、冬の山道に一瞬だけ温もりが戻った気がした。
ーー日陰の冷気は、歩みを進めても一向に和らがなかった。
黙々と登り続け、もう昼に近い時間帯のはずなのに “一日の中で最も暖かいはずの瞬間” が訪れているようには全く思えない。
吐く息は相変わらず白く濃く、指先の感覚はじんわりと遠のいたまま。
ーー(これが…冬の長野か。)
青年はその土地の厳しさを、身体そのもので受け止めながら、一歩また一歩と前へ進んだ。
足を止めた瞬間に体温が奪われてしまうと知っているから、リズムだけは崩さない。
無駄に汗をかけば、後で体を冷やす原因になる。
その危険を理解しているからこそ、呼吸と歩幅を丁寧にそろえ、登攀のペースを一定に保ち続けた。
そんな青年の意識の隙間に、原人の穏やかな声がふっと流れ込んでくる。
(時間はまだあります。焦らず、足元にだけは気をつけてください。)
ーー「ありがとうございます。仕事納めの次の日で体もまだ眠ってなかったのが救いです。明日は確実に筋肉痛でしょうけど…まあ、いい気分転換です。」
青年は立ち止まり、背筋を伸ばすようにぐっと両腕を上へ伸ばした。
背骨が小さく鳴り、溜まった疲労が少しだけ抜けていく。
木々の隙間から差す陽光は相変わらず弱々しいが、それでもほんのわずかな温度を与えてくれる。
深呼吸を一つ。
冷たい空気が肺にしみるが、気持ちはむしろ冴えていく。
ーー(さて……もう少しだ。)
青年は再び前へ踏み出した。
目指す頂は、きっとこの先の白と影のさらに向こうにある。
登るにつれて寒さは増しているはずなのに、いつの間にか背中はしっとりと汗ばみ始めていた。
フィルジャケットの性能が高いのはありがたいが、こうも熱を逃がさないとなると、それはそれで体温調整が難しい。
ーー(贅沢な悩みだな…)
そんなことを考えながら歩みを進めていると——
視界が、ふっと明るくなった。
足元を見続けていた顔をゆっくりと上げる。
すると、木々の壁が突然途切れ、世界が一気にひらけた。
眼前には、遠くの稜線までくっきり見渡せるほどの雄大な景色が広がっている。
皆神山は標高こそ高くないが、そのぶん森林限界が存在しない。
つまり、山頂に立つその瞬間まで視界は閉ざされ、自分がどれだけ登ってきたのか確証のないまま、ただ一歩一歩積み重ねるしかない。
だからこそ、この開けた光景は胸に迫る。




