ーー出発ーー
何はともあれ、腹は減るものだ。
とりあえず頭を動かすより、胃を満たした方がいい。
外はまだ薄い朝の光。
車に乗り込み、近くのコンビニの駐車場へと滑り込む。
この時間のコンビニは、年の瀬らしい静けさに包まれていた。
客はほとんどおらず、コーヒーマシンの低い唸りと、
自動ドアが開くたびに入り込む冷気だけが音を立てていた。
棚には正月用品や限定スイーツが並び、
一年が終わる気配を淡く漂わせている。
青年が手に取ったのは、いつもの海苔直巻きおにぎり。
決してセパレート式のおにぎりを作るのが面倒だからではない。
しっとりとした海苔が米になじむ、あの食感が好きなのだ。
それに緑茶を一本。温かいものにしようか一瞬迷ったが、
これから長距離運転だと思うと、冷たい方が頭が冴えそうだった。
会計を済ませ、再び車に戻る。
エンジンをかけ、暖房の風がフロントガラスを曇らせない程度に流れ出す。
助手席の上には、一冊のノート。
出発前に鞄へ入れた“自論ノート”だ。
今回の旅で気づいたことや疑問を記しておこうと、ふと思い立った。
ーー「今の行動も、全部監視されているんですか?」
ふとそんな疑念が浮かぶ。
最後の通信から、もう少し時間が経っていた。
念のためと思い、試しにこちらから声をかけてみる。
(いつでも会話は可能です。ですが、これから長距離運転になりますので、お気をつけて。)
あの落ち着いた、穏やかな声がすぐに返ってきた。
人間味があるようで、どこか人工的でもある。
それでもこの声が聞こえると、不思議と安心する。
ーー「運転中に眠たくなるのが嫌なので、その時は会話に頼っても良いですか?」
(もちろん大丈夫です。)
返答は柔らかく、まるで旧友との約束のように自然だった。
青年は静かに頷き、ハンドルを握る。
道はすでに朝の光で白く霞み始めている。
カーナビの目的地に「松代」と入力し、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
晴れた日の雪道はサングラスが必須だ。
太陽光が雪面に反射し、白銀の世界を一面に広げながらも、まるで視界を焼くようなまぶしさを放つ。
吹雪の日にホワイトアウトしても、レンズ越しの濃淡がわずかに車道と歩道の境界を教えてくれる。
それは経験から身につけた、いわば雪国の知恵というやつだ。
買い物を終え、古めのSUVが静かにエンジンを鳴らす。
凍ったアスファルトを噛むタイヤの音が、まだ眠っている街を割くように響いた。
住宅街を抜け、やがて広いバイパスへ。
この車は今ではほとんど見かけない型で、
すれ違う車のドライバーが一瞬こちらに視線を向けるのがミラー越しに分かる。
その一瞥に、ほんの少しだけ優越感を覚えるのは——まあ、誰にも話したことはない。
バイパスに出ると、通勤ラッシュには少し早いが、
帰省ラッシュの“始まりの一枚”とでも言うべき光景が広がっていた。
雪を積んだ車が次々と進み、街の空気が少しだけ年末の匂いを帯びている。
高速道路の入口まではおよそ七キロ。
ひとり旅だから、車内の沈黙は当然だ。
だが今回は——ひとりではない。
頭の奥にもうひとつの意識があり、
それが沈黙を緩やかに満たしている。
(沈黙が嫌いというわけじゃないけど……なんとなく、今日は避けたいな。)
ハンドルを握りながら、ふと前から気になっていたことを口にした。
ーー「そういえば、恐竜原人にも正月とかクリスマスみたいな行事はあるんですか?」
それは、もしまた彼らと繋がることがあったら聞こうと思っていた質問のひとつだった。
自論ノートの余白に書き留めていた「問いの種」が、いま芽を出した形だ。
(我々には、正月やクリスマスのような行事は存在しません。)
(宗教や神事といった“信仰”の概念を持たないため、祝う理由そのものがないのです。)
淡々とした声が、雪景色の中でも不思議と温かく響く。
(ですが、その考え方が逆に我々には興味深いのです。
人間は自己学習の過程で、自然と異なる文化や信仰を築き、互いに影響し合いながら生きていく。
それは我々の視点から見ても、極めて創造的な進化なのです。)
ーー「でも、そのせいで戦争や衝突が生まれてしまうこともありますよね。」
(たしかに、そうした側面はあります。
しかし、信仰がもたらす“創造”や“調和”の力は、破壊をはるかに上回るのです。
だから我々は、それを制御したり、干渉したりはしません。)
青年はその言葉を聞きながら、
ハンドルにかかる手の温もりが、
どこか人類と恐竜原人との距離を象徴しているように感じていた。
雪の照り返しがサングラス越しに光を跳ね返し、
フロントガラスの向こうで、白い世界が静かに続いていた。
正面に見えてくる青看板。
右折方向には、緑の枠で囲まれた高速道路の案内。
文字の上に積もった雪が朝の陽に照らされ、ほのかに蒸気のような光を帯びている。
バイパスを降りて、高速の入り口を目指す。
やがて開けた農道に出た。
除雪はまだ間に合っておらず、車道には深い轍が2本、頼りなく伸びているだけ。
田んぼと道路の境界は、もはや雪の高さで見分けるしかない。
それでも青年の車は怯まなかった。
古いとはいえ、四輪駆動の力強さを誇るSUVだ。
アクセルを踏み込むたび、タイヤが雪を蹴散らし、
ボンネットの先から白い粉雪が舞い上がる。
まるで道そのものを切り拓いていくような感覚だった。
やがてETC専用のスマートICに到着。
混雑もなく、スムーズにゲートを抜ける。
合流のためにアクセルをさらに踏み込み、エンジンが低く唸る。
古い相棒はまだまだ現役だと言わんばかりに、
雪道を蹴り、勢いよく本線へと滑り込んだ。
頼もしい愛車と、心の中にいる“原人”――。
そしてそのふたりをつなぐ自分。
3人と言うには語弊があるが、確かに“孤独ではない”旅が、今、始まった。
しばらく走り、交通の流れが落ち着いたところで、青年はハンドルを片手に朝食をとり始めた。
ここで役立つのが、しっとりタイプの海苔直巻きおにぎり。
セパレートのように手間をかけず、片手でそのまま食べられる――それが彼の“もうひとつのお気に入りポイント”だった。
緑茶のキャップを外し、ひと口すすって息を整える。
吹き出し口から流れる温風が、車内をじんわりと包み込む。
「まったく、旅の始まりにしては完璧だな。」
独り言のように呟きながらも、頭の中ではすでに原人と対話している感覚があった。
ーー「ところで、あなたたちはどんな食事をとるんですか?」
ーー「実はこの部分、自論でもずっと迷っているんですよ。恐竜って、肉食と草食がいて、それぞれ別の進化を辿ってるでしょう?
だから原人の中にも、もしかしたら両方の系統があるんじゃないかって思うんです。」
ーー「ただ、俺の仮説だと――肉食系の恐竜が進化した線が濃厚なんですけどね。やっぱり、肉食なんですか?」
車内に静かなロードノイズが流れる。
外は雪に包まれ、空は鈍く光っている。
けれど青年の意識の中では、何億年も前の地球が蘇るように、
恐竜たちの息づかいが微かに聞こえる気がしていた。
(あなたの仮説通り、我々は肉食に分類されます。)
原人の声は、どこか誇りを含んだように響いた。
(ですが、植物性のものも食していたと言われています。肉を主としながらも、環境に応じて適応したのです。)
青年はステアリングを握る手を緩めながら、その言葉を噛みしめる。
車窓には、雪化粧をまとった山並みが流れていく。
その奥深く――地表の下、何千メートルもの地下に、彼らが“存在”しているのだと思うと、
まるでこの世界の地図が裏返ったような感覚を覚えた。




