ーー再度ーー
翌朝。
目覚まし時計に急かされることもなく、青年は自然とまぶたを開けた。
枕元のカーテン越しに差し込む光が、やけに明るい。
ゆっくりとカーテンを開けると、外は一面の雪原だった。
積もりに積もった白が朝日を照り返し、まるで世界全体が光を放っているように見える。
窓をほんの少し開けると、冷気が頬を撫で、凛とした冬の匂いが部屋に流れ込んだ。
しばらく布団の中で深く伸びをしてから、ようやく身体を起こす。
ここ数週間は、寝ても覚めても仕事と雪下ろしに追われ、「自分の時間」などというものを忘れていた。
今になってようやく、全身が鉛のように重く、芯の部分まで疲れが溜まっていることに気づく。
ゆっくりとキッチンに立ち、やかんで湯を沸かす。
静まり返った部屋に「コトコト……」という湯の音が響く。
それだけで、ようやく日常が戻ってきた気がした。
コーヒーを淹れ、立ちのぼる湯気を目で追いながらソファに腰を下ろす。
「……やっと、落ち着いたな。」
そう小さく呟き、マグを口に運ぶ。
熱い液体が喉を通り、冷え切っていた心の奥までじんわりと温めていく。
指先から少しずつ、硬くなっていた思考が溶け出していくようだった。
ーーその時だった。
コーヒーを置いた瞬間、頭の奥で“何か”が静かに弾けた。
言葉にできない違和感。音ではなく、振動のような……電子のさざ波のようなものが、意識の奥に染み込んでくる。
時間の流れが一瞬だけ止まったように感じた。
(……ります。前回と同じように”受け取り完了”をお願いします。……この音声はあなたに限定して発信しています。応答していただけますと、つながります。……前回と同じように……)
頭の内側から響く声。
それは機械的でありながら、どこか優しい響きを帯びていた。
まるで遠い夢の底から、あの“原人”が呼びかけてくるように。
コーヒーの湯気が、かすかに揺れた。
青年は唖然とするしかなかった。
マグカップを持つ手が、わずかに震えている。
頭の奥で響いたあの声――優しく、機械的で、確かに「原人」のものだった。
心のどこかではもう二度と聞くことはないと決めつけていた。
あの出来事は、人生の中でたった一度だけ許された“夢のような現実”だったはずだ。
「……まさか、また……?」
誰にともなくつぶやく。部屋の空気がわずかに重くなる。
窓の外では、朝日が雪を照らし返し、静寂が広がっていた。
けれど青年の鼓動だけが、静かにその静寂を破っていた。
ゆっくりとマグをテーブルに置き、深呼吸をひとつ。
(どういうことだ?……まだ帰っていない? それとも、地球の核の下から通信しているのか?)
疑問が次々と浮かぶが、答えは出ない。
それでも――あの時の対話で感じた「確かさ」が、再び彼を引き寄せていた。
前回、恐竜原人と出会った“あの空間”に行くのかもしれない。
そう思った瞬間、青年は立ち上がっていた。
念のため、身だしなみを整える。
髪を整え、シャツの襟を直し、クローゼットから一張羅を取り出す。
(どこへ行くのかも分からないのに、なぜかこうしてしまう……)
笑みともため息ともつかない息をこぼす。
最初こそ戸惑いがあったが、すぐに冷静さを取り戻した。
もう会社は休暇中。急な呼び出しがあっても誰にも迷惑はかからない。
前回のように、会話をする以外のことは想定出来ない。それなら時間もそうはかからないだろう。
(よし……行こう。)
迷いはなくそう心の中で呟き、青年は再び意識を“内側”に集中させた。
深呼吸を一回、こめかみに右手親指を当て
「……受け取り完了。」
静寂の部屋の中、あの時より落ち着いて次に待つ展開に期待を寄せていた。
次の展開は予想できていた。
あのときと同じように、急激な眠気に襲われる――そう思った青年は、すでに心の準備ができていた。
一度体験している分、今回は冷静だ。
「問題ない。来るなら来い」と心の中でつぶやき、ゆっくりとベッドに横になる。
まぶたを閉じると、外の世界が静かに遠ざかっていく。
雪の反射光がカーテン越しに揺らめき、薄明かりが部屋を淡く染めていた。
心拍がゆるやかに落ちていく――まるで深い水の底へ沈むように、意識が少しずつ薄れていく。
ーー……
……ところが。
「ん……?」
眠気が、すっと引いていった。
青年は眉をひそめ、重たいまぶたを開ける。
見慣れた天井。
白い蛍光灯の光が、いつも通りにそこにある。
夢の入り口を見失ったような感覚に、胸の奥がざわつく。
(……失敗した?)
心の中でつぶやく。
(そういえば、返答がなかったな。でも眠気は確かにきたし……なんだったんだ?)
納得がいかない。
まるでドアノブを回したのに、扉の向こうが存在しなかったような気味の悪さ。
「……まいったな。」
思わず口に出して笑う。
せっかく一張羅まで着たというのに、結果はこれか。
なんとも締まらない。
青年は上体を起こし、布団を整えると、もう一度慎重に“応答”の構えをとった。
その瞬間――
静寂を裂くように、あの無機質で穏やかな声が頭の中に響いた。
(突然の連絡になりまして、申し訳ありません。)
(今回は対話ではなく、この形による通信になります。よろしくお願いします。)
ーー「……通信?」
一瞬、脱力する。
せっかく用意したのに――
思わず小さくため息が漏れた。
勝手に“また会える”と思い込んでいたのは自分の方だ。
原人の言葉はいつも丁寧だが、感情の起伏が読めない。
その淡々とした響きが、かえって距離を感じさせた。
青年は立ち上がってため息混じりの深呼吸し、冷蔵庫を開ける。
冷気と共にふわりと漂う牛乳パックの匂い。
そこからアーモンドミルクを取り出し、コップに注ぐ。
(まあ、落ち着けってことだな。)
自分に言い聞かせるように一口飲んだ。
落胆と照れが混ざったような気分で、ソファに腰を下ろした。
しばらく沈黙が流れる。
青年は息を整え、頭の中で静かに響かせた。
ーー「……今回は、なんですか?」
アーモンドミルクの白が、ゆっくりとグラスの内側を伝っていた。
(期待させてしまい、申し訳ありません。)
通信開始の第一声が、穏やかでありながらどこか申し訳なさを帯びて響いた。
その丁寧すぎる物言いに、青年は思わず苦笑する。
気を使わせてしまったのは、どうやらこちらの方だったらしい。
(今回の地表調査はすでに完了したのですが、奇遇にも――あなたという“特別なプログラム”をお持ちの方と対話する機会を得ました。
そのため、もう少しだけそのプログラムについて調査を続けさせていただくことになりました。)
頭の奥に流れ込む声は、柔らかくも、どこか無機質な響きを持っている。
まるで金属の表面に薄く布を被せたような温度感。
その声を聞くうちに、青年の胸の奥で、忘れかけていた小さな灯がゆっくりとともった。




