ーー決意ーー
湯気を立てる牛丼は、いつものはずなのに、勝利の余韻をまとった今は特別な一品に思える。照明の下でテカる牛肉と玉ねぎ、脇に置かれた漬物や紅生姜の赤が、妙に鮮やかに見えた。
同僚は迷わず箸を取り、紅生姜をたっぷり盛ってかき込む。対照的に、青年は箸を手にしたまま、一拍置いてから牛丼を前に引き寄せた。
――そんな感覚、だよな。
同じ空気を吸っているはずなのに、自分だけが「別の次元」に足を掛けているような。
ただし、自分だけに聞こえる“声”を除いては。
軽い調子を装いながら、青年は丼の向こうの同僚に問いかけた。
「でもさ、もし地底人が近くにいて、連れて行かれたらどうする?」
半分は冗談。だが、半分は本音。
すべてを語るわけにはいかない。ただの「もしも」として投げかける。
「それはやばいな(笑)」
同僚は大袈裟に笑い、牛丼をかき込みながら肩を揺らした。
「何されるか分からないけど、絶対勝てないし。されるがままじゃない?(笑)」
笑い声と共に店内に響く箸の音。
青年も同じように笑ってみせたが、その胸の奥では、まったく別の重みが渦を巻いていた。
ーーその通りだ。
「そうだよな(笑) まぁ、ありえないだろうけど。」
わざと牛丼を口いっぱいに頬張り、眉間に寄る皺を喉の詰まる苦しさのせいにして誤魔化す。舌に広がる濃いタレの甘じょっぱさは、いつもなら心を満たすはずだった。だが今夜に限っては、味覚を楽しむよりも、噛みしめることで心のざわめきを押し殺す役割を果たしていた。
青年の胸には、“もしも”では済まされない予感がじわじわと膨らんでいた。
しかしそれは、死や恐怖といった黒い影ではない。むしろ、まだ見ぬ未来へと手招きするような感覚――ただ自分だけが選ばれているのだという奇妙な確信だった。
同僚が同じ立場に立たされたら、どんな不安を抱くだろうか。
それを知りたくて軽口を投げたに過ぎない。答えは予想通りだった。だからこそ、ますます自分だけが「境界線」のこちら側に立たされていることを実感してしまう。
「明日も仕事だしな、早く食って帰ろう。出張の話、分かったらまた教えてくれよ。」
同僚の言葉に、青年は牛丼でふくらんだ口のまま二度うなずいた。湯気に霞む視界の向こうで、友人の何気ない笑顔が揺れている。普段ならごく当たり前の、ありふれた夕食の風景。それが今夜は、なぜか儚く、かけがえのないものに見えた。
ーー決心はついている。
帰ったら、あの声に応答する。
明日の朝、会社へ向かえるかどうかは分からない。もし普通に出勤できたのなら、そのときはただ「出張話はなかった」と伝えるだけだ。何も変わらない日常に戻ればいい。
食事中も、何度か声は届いていた。雑踏の喧噪や食器のぶつかる音に混じって、不意に脳裏に響く無機質な抑揚。だが青年は聞こえぬふりを貫き、現実にしがみつくように同僚との時間を味わった。
それが最後になるかもしれない食事を。
――そして、最後になるかもしれない日常を。
丼の底が見えると、もう迷いはなかった。
ーーあの声に応答する。
食事を終え、会計を済ませる。
膨らんだ財布からは一切現金を出さず、スマホを翳してバーコード決済で軽やかに支払いを済ませた。
ピッという短い電子音が響いた瞬間、どこかで「現実」と「非現実」の境界線を踏み越えたような気がした。
現金は、次に打つ時の軍資金――そう思えば、なんとなく気持ちが落ち着く。
だが次に打つ「時」が訪れる保証など、どこにもない。
行き先は分からない。異世界なのか、宇宙なのか、あるいは地底なのか。
それでも、心は不安よりも期待で満ちていた。
それでも、もし何も起こらなかった時の落胆を和らげるために、青年はあくまで日常を装った。
牛丼屋を出る足取りは普段と変わらず、財布をポケットへ戻す仕草すら、演技のように丁寧だった。
店を出ると、同僚が自販機で買った缶コーヒーを手に待っていた。
「ごちそうさま、また明日ね!」
そう言いながら、缶コーヒーを差し出してくれる。
アルミ缶の冷たさを指に感じながら、青年は礼を言って受け取り、車へと乗り込んだ。
同僚の車が青年の前を横切るとき、クラクションを鳴らす素振りを見せた。
だが、押し出されたのは掠れたような短い音で、まるで別れを惜しむ気持ちを代弁するかのように情けなく響かなかった。
ライトに照らされながら去っていく背中を見送り、青年も静かにエンジンをかける。
車内に流れ込む夜の静けさは、喧噪と光に満ちたホールを遠い世界の出来事に思わせるほどだった。
ーー家に着いたのは、すでに午前零時を回っていた。
玄関の灯りは点けない。
携帯の心許ない灯りだけを頼りに、靴を脱ぎ、鍵を掛け、暗闇の中でベッドの下へ腰を下ろす。
窓の外からは、虫の声と遠い車の走行音が細く混じり合い、かえって部屋の暗さを強調していた。
背もたれに体を預け、手にした缶コーヒーをプシュッと開ける。
炭酸のように弾ける開栓音が、妙に大きく響いた。
冷たさが喉を通り、わずかな苦味が口に広がる。その苦味すら、これから訪れる「未知」を迎えるための儀式のように思えた。
準備など要らない。どうなるかなど、分かりようもないのだから。
ーーさぁ、始めよう。
指先が微かに震える。
(どうやって親指を当てるのが正解なんだろう……)
こめかみに添えては離し、何度か練習を繰り返す。
まるで子供の頃に秘密基地へ忍び込む前のような、滑稽なほどの緊張感が、自分を笑わせ、同時に背筋を冷やしていった。
(この姿はあまり人に見られたくないかもしれない。)
ふとそんな自意識が胸をかすめる。
暗い部屋の中、缶コーヒーを片手にベッドの下でこめかみに親指を当てている自分の姿を想像すると、どう考えても滑稽で、間抜けにしか見えないだろう。
だが今は人の目を気にする必要はない。ここには誰もいない。あるのは静けさと暗闇と、わずかな期待だけだ。
練習を切り上げ、青年は深呼吸を一度。肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、胸のざわめきを整える。
準備は整った。
ついに、本番の時が来た。
そっと、こめかみに親指を当てる。
他の指は握り込み、余計な震えを隠すように拳をつくった。
一拍置き、心の中で呟く。
(受け取りかんり……)
その瞬間、可笑しさが込み上げた。
「受け取り完了」などと真剣に唱える自分を思うと、滑稽で、どうしても笑ってしまう。
こめかみまで上がった右手を慌てて下ろし、腕で口元を覆う。
声にならない笑いを押し殺しながら、肩が小刻みに揺れる。
現実の“未知”すら、まだ心の奥では空想の域を出ていない。
その証拠に、受け入れるはずの儀式は、今も冗談めいて思えて仕方がなかった。
やがて笑いは収まり、呼吸も静かに戻る。
青年は缶コーヒーを一口含み、苦味と冷たさで心を鎮めた。
今度こそ――。
再び親指をこめかみに添える。
そして、落ち着いた心で応答した。
ーー(受け取り完了)
言葉は澱みなく心の中に響いた。
笑いは出なかった。
成功だ。
あとは反応を待つだけ。
どんなメッセージが返ってくるのか。あるいは、別の感覚――音や光や、形容しがたい何かが流れ込んでくるのか。
期待を胸に、耳を澄ませるように数分を過ごす。
……だが、何も起きなかった。
(なんだ? 本当に何も起きない。)
思考がぐるぐると回り始める。
(もしかして、メッセージが流れている時にしか応答できないのか?)
(次はいつ来る? もし朝まで何もなかったら……また寝不足のまま会社か?)
(いや、その前に……シャワーくらいは浴びておこう。)
自分でも滑稽だと分かっていながら、そんな予防線を張らずにはいられなかった。
何も起こらない現実はすんなりと受け入れながらも、心の奥にはまだ微かな期待の火が残っている。
青年は深く息を吐き、立ち上がった。




