ーー不安な心ーー
久しぶりに大勝ちの予感がした。
席に戻ると、代わりに打ってくれていた同僚はすでに隣の台へと移っていて、モニターの光が顔を青く照らしていた。彼は肩越しににやりと笑い、片手を挙げて軽く合図する。
青年は声を掛ける。
「なあ、あの狙い台、どうだった?」
同僚は振り向き、半ば自慢げに言った。
「あぁ、ちょっとは出たよ。連チャン終わってから見に来たらさ、いないのに当たってるから慌てて座ったってわけ!」
「ごめんごめん、仕事の電話があってさ。うちの部署から出張者を出したいみたいでね」
「マジ? どのくらいの?」
「期間はまだ分からないけど、明日には内容が分かるらしい」
「そうなんだ。……じゃあ、その連チャン終わったら飯に行こうよ」
「OK。ちょっと待ってて」
やり取りは軽やかで、どこにでもある夕方の雑談だった。周囲の音、筐体の断続的な歓声、交換音の小さなシャワー。そうした現実の雑音が青年を包み込み、いっとき非日常の考えをそぎ落としてくれる。
しかし胸の内は静かに重かった。
会話を繋ぐ唇の裏で、彼は別の計算をしている。友人の笑顔はいつも通りだが、彼が知っている「明日」はもう以前とは同じでないかもしれない。帰ってあの声に応えてしまえば、文字通り生活のルーティンは崩れる。出社、会議、報告――どれもが遠い日の話になる可能性がある。
だから本当のことは言えなかった。
友人に「宇宙的な呼びかけを受けた」と正直に話せるわけがない。ましてや「もし消えたら連絡して」とか「有給使うかも」と口にするのも滑稽だ。世間の尺度で測れば、彼の懸念は馬鹿げている。だが胸の奥のざわめきは現実で、言葉にすれば簡単に砕ける。
帰宅後、あの声に応じてしまえば、二度と戻れない出来事が待ち受けているかもしれない。
もちろん、何も起きない可能性だってある。だが、もし自分が忽然と姿を消すことになったら――。
だから、友人にはせめて「姿を消すかもしれない」という伏線だけを残しておいた。
理解されやすい、現実的な嘘を添えて。
閉店時間が近づくころ、好調だった台にも、ふと翳りが差した。
パチンコ好きなら誰しも分かる、あの妙な「終わりの気配」。
液晶の演出がどこか淡白になり、図柄の動きも熱を失っていく。ホール全体を包む電子音の喧噪の中で、青年には確かに感じ取れた。
――連チャンが、そろそろ途切れる。
そんな空気が、ひたりと背後に立っているようだった。
隣の同僚も、爆発的というほどではないが、移動してからも時折当たりを引き続けていた。チラリと視線を送ると、同僚は肩の力を抜きながら、まだ小さな波を楽しんでいる。だが青年の胸中には確信に近い予感があった。
連チャンしそうな気配は、大抵裏切られる。だが、終わる気配は、ほとんど外れない。
予想通り、最後のリーチが空しく外れ、液晶は無情な通常時へと戻る。派手な照明も役物のきらめきも、先ほどまでの昂揚を嘘のように吸い取り、ただ静かに回る図柄だけが残された。
時刻も遅い。この時間でこれだけ出れば十分だ。
青年はそれ以上ハンドルを回すことはなく、深呼吸を一つしてからおしぼりで台を丁寧に拭き上げた。指先に伝わるアクリル板の冷たさに、熱気に浮かされた身体がようやく地に降りる。最後にパネルを軽く撫でると、勝利への感謝と別れの念を込めて席を立った。
同僚もまた、区切りの良いところで遊技を終えていた。
二人そろって勝利を収めるなど、滅多にない。メダルを流し込み、重さのある箱を店員に預ける仕草はどちらもぎこちなく、しかし満足げだった。今日は珍しく、上出来な一日だった。
外に出ると、夜風が火照った頬を撫でる。ホールの喧噪を背にした瞬間、耳に戻ってくる静けさが心地よい。駐車場の照明は蛍光灯特有の白さで、虫が群れをなしてまとわりついている。その下で二人は並んで歩き、互いの車に乗り込んだ。
「腹減ったな」
「牛丼でいいか」
会話は簡潔だが、どちらも勝ちの余韻に浸っているせいか声は弾んでいた。
青年はハンドルを握りながら、財布の中の厚みを指先でそっと確かめた。紙幣の存在感が、まだ信じられないようにじんわりと伝わってくる。
――これは、店からの餞別みたいなものかもしれない。
そう思うと、不思議と寂しさが胸に広がった。
明日からは、もうここに来られないのだろう。そう直感しながら、青年は駐車場を後にした。
牛丼チェーン店までの道のり。ほんのわずかな距離ではあるが、パチンコ屋の空調で火照った体を冷ますように、窓を少し開ける。夜気を含んだ寂しい風が流れ込み、額に残った汗をなぞっていった。
先ほどまでの光と音の奔流から解放され、途端に静けさが押し寄せる。ネオンの瞬きも、耳にこびりついた電子音も、フロントガラス越しには急速に遠ざかり、車内は不自然なほどに静まり返っていた。だが完全には抜けきらず、リーチ音や玉の弾む軽い衝撃が、まだ鼓膜の奥で残響のようにくすぶり続けている。
財布の中の増えた紙幣の重みを思い出すと、自然と口元が緩む。今日に限っては、運命がこちらに微笑んだのだろう。
けれど、次の瞬間、その幸福感を押しのけるように、あの“音声”が頭の中へ蘇った。
(……と、繋がるようになります。この音声はすべての人間に――)
冷たい機械音の抑揚が、窓から差し込む夜風に混じって甦る。実際にはどこからも流れていないのに、エンジン音に紛れるように確かに聞こえる気がした。
青年はハンドルを握り直し、無意識に唇を噛む。
財布の厚みは現実そのものだ。だが、耳奥で再生される声は、確実に日常の外からやって来ている――。
フロントガラス越しに見える街は、昼間の熱気をすっかり失い、街灯の下に長い影を落としていた。コンビニの明かり、赤く瞬く信号、疎らに走る車。いつもと変わらない景色のはずなのに、ひとつひとつが妙に鮮明に目に焼き付く。
やがて牛丼チェーンの看板が視界に飛び込み、青年はウインカーを上げた。
――まだ、この時間は続いている。
そう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと駐車スペースへと車を滑り込ませた。
店内のボックス席に腰を下ろすと、青年は笑みを浮かべて言った。
「今日はどれでも好きなの頼んで!」
「アザース」
同僚も気楽な調子で応じる。
湯呑を手に取ると、渋みの効いた熱いお茶が口いっぱいに広がった。乾いた喉を潤す感覚が心地よく、二人は思わず小さな溜息を漏らす。
運ばれた湯呑を卓上に戻し、二人は揃って盛大に注文を始めた。厨房へ通された声を聞き流すように、無表情な店員が淡々と注文を復唱する。
この牛丼チェーンはパチンコ店の近くにあるせいか、客の喜怒哀楽にはもう慣れ切っているのだろう。勝者の浮かれ顔も、敗者の沈んだ背中も、ただの「風景」の一部に過ぎなかった。
青年は湯呑を指で転がしながら、何気ない調子で切り出す。
「そういえば、あの地底人のこと覚えてる?」
「あぁ、あったね、そんなこと。」
「なんで誰も興味持たないんだろうな。」
「実際、怖がる人もいなかったじゃん?」
「うーん……たしかにそうだね。」
同僚はしばし視線を落とし、言葉を探すように続けた。
「なんとなくだけどさ、あの映像見ても怖さは感じなかったんだよね。不思議と。むしろ身内というか……別の国の人みたいな。最初は驚いたけど、攻撃してくる感じは全然なかった。」
その感覚は、自分も同じだった――。
青年は心の中で頷いた。
「たしかに、そんな感じだったかもな。」
「何なんだろうね、この感覚。」
「まぁ、目の前にいたわけじゃないし。映画みたいなもんだよ。」
同僚は肩をすくめた。ちょうどそのとき、料理が運ばれてきた。




