ーー不穏な言葉ーー
やはり狙いは間違っていなかった。
座ってわずか二千円を投じたところで、画面は爆ぜるように眩い光を放ち、警告音めいた電子音が連続する。派手に点滅するランプ、赤く塗り替わる文字、群衆の歓声を模した効果音――いわゆる「熱い」と呼ばれる演出が畳みかける。
「今日は行ける」
胸の奥で昂る気持ちを抑えきれない。心臓の鼓動が演出と一体になったかのように速くなり、視界は画面の隅々に釘付けとなった。だが、そんな時だった。
あの音が、再び響いた。
(ん?……なんて? いや、これ……言葉じゃないか?)
青年は眉をひそめる。異国の祈りのような調子で、耳で聞くのではなく、脳に直接刻まれる。昼間に感じたものよりも輪郭がはっきりしていた。
――だが今は大事な場面だ。
呼吸を整える暇もなく、彼は音を追い払うようにして液晶画面に視線を固定する。
次第に期待度は下がっていく。派手に盛り上がった映像は、やがて尻すぼみに終わり、無情にも「ハズレ」を告げた。
(まじかよ……今のを外すのか)
胸の奥に重い落胆が広がる。熱が一気に冷水を浴びせられたかのように引いていく。
(いや、絶対あの音のせいだ……タイミングが最悪すぎる)
心の中で責任を押し付けてみても、当然返事などあるはずもない。
まだ始まったばかりだ。気を取り直して追加投資に手を伸ばす。
――だが、その後の二万円はあっけなく飲み込まれた。
玉は虚しく落ち、演出は盛り上がらず、時間だけが削られていく。夕方からの短い勝負、連チャンがなくとも、せめて初当たりは早めに欲しい。だが、その願いは叶わず、焦燥ばかりが募っていく。
青年の表情は不機嫌に歪み、指先は無意識にハンドルを強く握りしめていた。防犯カメラのモニターには、きっと拗ねたような顔が映し出されているに違いない。
(狙いを間違えたか……台を変えた方がいいか?)
そう考え、データランプを仰ぎ見た瞬間だった。
――音が響いた。
(え……確実に言葉だ。英語……だと思う。けど、分からない)
今度は明瞭だった。確かに「意味を持った発話」としか思えない。耳の奥を突くように連なり、鼓膜を経由せずに脳髄に直撃する。
言葉と認識できるその音に耳を奪われていると、目の前の台が唐突に派手な演出を始めた。
一瞬、意識が遅れた。だが、パチンコを打つ者にとって優先されるのは常に台だ。
慌てて画面に目を戻すと、始まりの演出は強烈に熱い――はずだった。だが続く展開はやはり弱い。
(これはダメだな……)
そう見切った青年は、逆に頭の中の音へと意識を傾ける。
演出の終わりを待つこともなく席を立ち、ホールの自動ドアへと向かう。
その間も音は止まらない。英語から、韓国語のような響き、さらにロシア語らしき声色へと次々と変化していく。
分からない。意味は全く理解できない。
それでも確かに、これは「言葉」だった。
そして――自動ドアが開いた瞬間。
外気が冷たい夜風となって頬を打つのと同時に、頭の中に響く声は、ついに日本語へと変わった。
(……と、繋がるようになります。この音声はすべての人間に向けて発信しています。ですが、限られた人しか受け取ることが出来ません。もし、この音声をあなたが受け取ったならば、声に出さなくて結構です。右手親指をこめかみに当て“受け取り完了”と心の中でおっしゃってください。それが確認出来ますと、繋がるようになります。この音声は……)
無機質な声が、脳の奥に直接、滴り落ちるように繰り返される。
機械の自動アナウンスに似た、一定の抑揚。感情が一切排されたその響きに、青年の背筋はぞわりと総毛立った。
心臓が不規則に跳ねる。胸の奥からせり上がってくる焦燥に抗えず、彼は店外のベンチに崩れ落ちるように腰を下ろした。膝が笑い、指先がかすかに震えている。汗ばむ額に夕方の風が触れたが、火照りではなく、冷たい震えが体を支配していた。
これは――ただの「音」ではない。
今まで鳴り響いていた電子音や動物の鳴き声は、彼と意思を通わせるために探っていた“前段階”に過ぎなかったのではないか。言語が通じることを確認したからこそ、今は各国の言葉で呼びかけてきた。
(つまり……俺以外にも、この声を聞いている人間が存在するってことか?)
青年は顔を上げ、辺りを見渡した。
通りには生活の音が溢れている。スーパーの袋を揺らす主婦、スマホを手に笑い合う学生、ネクタイを緩めて足早に駅へ向かう会社員。
その誰もが、日常を当然のものとして過ごしていた。
声に眉をひそめる者も、耳を押さえる者もいない。誰一人、自分と同じ体験をしているようには見えなかった。
(……やっぱり、俺だけなのか?)
脳裏に冷たい孤独が広がる。
あの日、唐突に始まった不可解な「音」。
ずっと錯覚だと自分に言い聞かせ、誰かに話せば笑い飛ばされる未来が見えたから、心の奥に押し込めてきた。
だが今、はっきりとした言語が届いてしまった以上、それはもう曖昧な幻覚ではない。
「選ばれてしまったのかもしれない」――その言葉が、喉の奥に重く沈んだ。
不安と同時に、胸の奥でふくらみ始めるものがあった。
それは恐怖に似ていたが、否、それ以上に熱を帯びた期待。
自分の平凡な日常が、音を立ててひび割れ、別の何かに繋がろうとしている――。
青年は両手を握り込み、息を深く吐いた。
日暮れの街のざわめきの中、彼の鼓動だけが異様に大きく耳に響いていた。
不安――。
だがそれは、未知の生物と繋がる可能性や、自らの命が危険に晒されることに対する恐怖ではなかった。
青年の心に、応答しないという選択肢は初めから存在していない。
現代の技術では説明できない方法で語りかけてくる存在。恐竜原人かどうかはともかく、間違いなく“未知のもの”だ。その誘いに応じることは、抗いがたい必然のように思えた。
では、彼を躊躇させている“不安”とは何なのか。
それはただ、日常のことだった。仕事、生活――現実の延長にある煩わしさだ。
もし呼びかけに応えた瞬間、どこかへ連れていかれてしまったらどうなるのか。
欠勤? 有給休暇を申請する暇なんてあるのだろうか。
上司にはなんと説明する? 「すみません、ちょっと宇宙人に呼ばれまして」とでも言うのか。
会社を辞めるなんて、到底できない。
(一日アブダクションされて、チップの一枚でも埋め込まれるだけなら……朝、電話一本で済むんだよな)
自分でも呆れるほど、現実的な心配ばかりが頭に浮かぶ。
非日常に対して身構えるよりも、翌日の出勤を想像して胃が重くなる。なんとも情けないが、それが現実に生きる人間というものだった。
結局、今は応答はせずに帰ることにしよう。
パチンコはもういい。
帰ってシャワーを浴び、冷蔵庫にあった残り物で簡単に夕食を済ませて、それから布団の中であらためて試してみればいい。
もしかしたら、深夜の静けさの中なら、もっとはっきりと“彼ら”の声が聞こえるかもしれない。
青年はそう結論づけ、ベンチからゆっくりと腰を上げた。
足取りはまだ覚束なかったが、気持ちは少し落ち着きを取り戻していた。
自分の遊戯台へと戻っていく。
――だが、その台には友人が座っていた。
煌々とした役物の光に照らされ、彼は満面の笑みでこちらを振り返る。
「どこ行ってたんだよ! さっきのリーチで当たったって!」
「代わりに打っててやったんだから、お礼頼むよ」
青年は思わず立ち尽くした。
頭の中で渦巻いていた不安や使命感は、一瞬で吹き飛ぶ。
――人生は本当に、本当に何が起こるか分からない。
さっきまで決死の覚悟で“未知”と対峙していたのが嘘のように、彼は拍子抜けした笑みを浮かべる。
そして、ごく自然に、決意はあっさりと撤回された。
やはり今日は、パチンコに興じることにしたのだった。




