ーー大勝負ーー
ーー十月の始め頃。
つい先日までまとわりつくように纏いついてきた湿気は、すでに姿を消していた。
朝夕の風は肌を撫でるたびにわずかな冷たさを含み、半袖では心許なくなってきている。
街路樹の葉はほんのりと色づき始め、黄色や橙の斑点が緑の中に混じり、季節の変化を控えめに告げていた。
商店街には早くも焼き芋の屋台が出て、立ちのぼる甘い香りが通りを漂う。
コンビニの棚には冷たい飲み物の隣に肉まんが並び始め、誰もが自然と温かいものに手を伸ばすようになっていた。
夏の終わりに汗をかきながら食べていたアイスの記憶は遠ざかり、湯気の立つ汁物や熱いコーヒーが恋しくなる。
人々の服装も少しずつ変わり、ジャケットや薄手のコートを羽織る姿が目に付くようになる。
夕暮れが早まり、気づけば仕事を終えて外に出る頃には、オレンジから藍色へと沈みゆく空が広がっていた。
世界は、すべてが元通りになったかのように見えた。
ニュース番組は相変わらず経済や政治の話題を流し、人々は会社に通い、休日にはショッピングモールで笑い合う。
誰もあの話題には触れず、まるで天変地異など初めから存在しなかったかのように。
青年もまた、表向きは変わらぬ日常を送っていた。
出勤し、残業し、帰宅して冷えた弁当を胃に流し込む。
一見すれば、何も変わらぬ生活を律儀に繰り返すだけの一人の社会人。
ただ一つ、あの音を除いては。
それは突如として訪れる。
最初は多種類の単発の音だったが、近ごろはさらに形を変え、短い音の連なりが呪文めいて聞こえることもあった。
電子音の断片のようでいて、同時に人間の言葉に似た抑揚を帯びている。
何を意味するのかは分からない。だが、意味のあるものとしてこちらに届いている――そんな確信だけは強くなる一方だった。
頭の内側に直接響くため、周囲に悟られぬよう平然を装うのは意外と骨が折れる。
仕事中に鳴られるのは正直困る。会議の最中、同僚の言葉と音が重なり、ふと空白のような沈黙を作ってしまうこともあった。
だが、パチンコの大当たりを待つ退屈な時間なら、ちょうどいい気晴らしにすらなった。玉が滑る金属音と混じり合い、不思議なリズムを作ることもあった。
そして、海辺のテトラポットに腰掛けている時はなおさらだ。
波の音と溶け合うようにして響く「呪文」に、心の中で返事を返す余裕さえ芽生えていた。
何故か寂しい秋の朝焼けに、まるで見えない誰かと秘密の会話をしているかのように。
――自分も、あの日の出来事を他の人と同じように「過去の話」としてしまえば、きっとこの音も消えてしまうのだろう。
いつしか青年はそう結論づけ、妙な納得を抱くようになっていた。
この不可解な感覚を手放すのか、それとも抱き続けるのか。選ぶのは自分自身なのだと。
ーーとある夜のこと。
最近は連敗続きで控えていたパチンコ。
給料日前の財布には小銭しか残らず、帰り道の煌々としたネオンを横目に、ため息と共に家路につく日々が続いていた。
だが給料日を迎えたこの夜、青年は久々に勝負へ出ようと胸を弾ませていた。
ポケットの中で折りたたんだ札の重みを確かめる。その感触は、日常の中で唯一、自分がまだ選択権を握っていると実感できる瞬間でもあった
休憩時間になると、青年は同僚と並んで昼食をとりながら、今日の「狙い台」を定めていた。
弁当の味など頭に入らない。ただ画面に並ぶ数字の羅列と、過去の大当たり履歴が脳裏を占める。
空いていない可能性も想定し、候補は第三まで準備する。
焦りは禁物だ。
今日は、絶対に負けられない。
フォークを口に運びながらも、青年の視線はスマートフォンに釘付けだった。
仕事の合間も、休憩室のざわめきの中でも、彼はひたすら変動するデータを追い続ける。
数字の波を読み解き、打つべき一台を決定する――その過程は、まるで戦場で武器を選ぶ兵士のように真剣だった。
「大丈夫だ。同僚とも狙いは被っていない。」
胸の内でそう呟き、青年はひとつ息を整える。
そんな戦前の準備を進める最中――あの音が、頭の奥で響いた。
(ん?……なんか、聞き覚えのある調子だな。)
電子音にも、獣の咆哮にも似ない。
今日は、いつもより人の言葉に近い。そう感じた。
青年は心の中で、試すように応じてみる。
(今日は負けられないから、頼むよ。)
その瞬間、音はスッと引いていった。
まるで彼の言葉を理解し、返答を控えたかのように。
やがて退勤時間。
同僚と足早に駐車場へ向かい、ここで互いの最終候補を発表する。
――重複なし。
その確認が終わると、二人は無言でうなずき合い、同じ方向にハンドルを切った。
目的地はただ一つ、光と音の戦場だ。
店の駐車場に着いた瞬間、青年の胸は高鳴る。
外にいても耳に届く甲高いデジタル音と、玉の転がる乾いた響きが、遠い祭囃子のように脈打っていた。
自動ドアが開いた途端、冷房の冷気とともに、強めのフレグランスの香りが全身を包み込む。
きらびやかな照明に照らされるホールの内部は、日常とは隔絶された別世界だった。
到着するや否や、青年は一直線に台へ向かう。
空いている――安堵と昂揚が同時にこみあげ、膝がわずかに震えた。
すぐさま、半分ほど残ったペットボトルを置き、席を確保する。
呼吸を整えるように、缶の炭酸飲料を買い、一万円札をわざわざ千円に両替する。
それは験担ぎという以上に、彼の「儀式」だった。
勝負の前に必ず通る、この小さな手順を経てこそ、初めて台と向き合える。
「これで勝てる」
確信にも似た言葉が胸の内で鳴る。
青年は深く腰を下ろし、手をハンドルに添えた。
明日からの生活を賭けた戦いが、いま幕を開ける。




