ーー冗談と変化ーー
――
どれほどの時間が経っただろうか。
夢とも現実ともつかぬ意識の底から浮上してくるにつれ、まず感じ取ったのは肌に張りつく湿気だった。
青年の体はテトラポットの上で汗にまみれ、その汗はエアコンに冷やされて今ではひどく冷え、寒気すら感じる。
長時間のアイドリングで、本来の力を出し切れていないエアコンだというのに。
ちょうど正午を迎えたのか、太陽の熱は容赦なく車体を叩き、さらにエアコンを弱らせている。
窓から差し込む灼熱の光に、引きかけていた汗が再びじわりと滲んだ頃、青年はようやく目を覚ました。
目を開ける前に、彼はまず耳で正午を知った。
遠くの国道を走る車の音、近くで鳴き止まぬ蝉の声、アスファルトに焼かれる匂い――夏の名残を引きずる九月の昼は、全方位から容赦なく「現実」を告げていた。
やがて瞼を上げると、視界に飛び込むのは灼熱に白く揺らめく陽光と、ハンドルに反射して光るぎらついた銀色だった。
「あー……寝てしまった。」
声に出した瞬間、喉の奥が乾ききっていることに気づく。
その言葉には、恐竜原人の続報を見逃した悔恨は込められていなかった。
むしろ、わざわざ仕事を抜け出して得た“自由な時間”が、眠気に食いつぶされてしまったというやり場のない虚しさの方が勝っていた。
せっかく非日常に飛び込んだはずなのに、現実はいつもと変わらず容赦なく彼を追い詰めてくる。
彼の胸に残ったのは、テレビで流れていた「世紀の瞬間」よりも、自分の中で燃え上がった熱が一度冷え、そして空白を残してしまったことへの落胆だった。
首筋にじわりと溜まった汗をタオルで拭い、手元のペットボトルを傾けて最後の一滴まで飲み干す。
喉の奥に落ちていく水は、乾ききった身体に吸い込まれるようで、それでも渇望を完全には癒さなかった。
胸の奥に溜まった重苦しい空虚感は、何も満たしてはくれない。
――帰ろう。
ふとそう思った。
自分が今いるこの場所は、早退までして過ごすべきところではない。
その当然の事実にようやく気づき、青年は家路を選んだ。
倒した運転席のシートを起こし、ぼんやりとした意識のまま車を走らせる。
窓の外には、昼下がりの街が淡々と流れていく。スーパーの駐車場には買い物袋を下げた主婦たちが行き交い、工事現場ではヘルメットの作業員が汗を拭いながら声を張り上げている。
すべてが当たり前の風景で、そして何より現実的だった。
先ほどまで胸を焼いていた非日常の熱は、もはやこの世界の中には存在しないように思えた。
仕事終わりなら、つい吸い込まれてしまうはずの通り沿いのパチンコ屋にも、今日は寄る気にはなれなかった。
鮮やかなネオンすら、白昼の光の中では色あせて見え、心を揺さぶる力を持っていなかった。
家に着くと、靴を脱ぎ捨てるように上がり込み、そのままベッドに体を投げ出した。
天井を見上げるでもなく、手にしたスマートフォンを操作し、無意識にSNSを開く。
「地底人」
検索欄に打ち込むと、無数の書き込みが溢れ出す。
人々の関心は確かにそこに集まっている。だが、その大半は冗談めいた投稿や憶測にすぎず、現実味を欠いていた。
「コラ画像だろ」「新しい番宣じゃないか」――軽薄なコメントが画面を埋め尽くしていく。
笑い混じりのやり取りを眺めていると、あの瞬間に震え上がった自分の心の熱が、滑稽なものだったように思えてしまう。
青年自身もまた、熱に浮かされた昨晩とは違い、心の中の温度が急速に下がっているのを自覚する。
釈然としない冷め方ではあったが、ふざけた書き込みを眺めているくらいが、いまの自分には心地よかった。
「本当に見たのは、あれだったのか?」
その問いかけすらも、もはや深追いする気にはならなかった。
やがて画面を閉じ、ベッドの中に沈み込む。
開け放した窓からは午後の蝉の声が聞こえてくる。
どこまでも続く夏の残滓のようなその鳴き声が、現実へと戻された自分をやけに無力に感じさせた。
その日がただ無為に過ぎ去っていくのを受け入れるほかなかった。
明日からはまた、何事もなかったかのように、いつもの生活へと戻っていくのだろう。
ーーこの頃からだ。
あの不可解な出来事から、もう二週間ほど経っただろうか。
世界は、まるで何事もなかったかのように日常を取り戻していた。
各地で同時多発的に起きた天変地異も、奇跡的に死者を一人も出さなかったことから、人々の記憶の奥へと早々に追いやられつつあった。
ーー地底人のことも、同じように。
あの生中継で、誰の目にも明らかに映し出された異形の存在。
人類の歴史を揺るがすに足る「証拠」であったはずの映像すら、今では一部のオカルト好きが集う掲示板で断片的に語られる程度にまで矮小化され、日常会話にのぼることはなくなっていた。
ニュース番組も数日後には話題を切り上げ、政治や芸能の話題が画面を埋め尽くす。
SNSのタイムラインからも、派手な炎上案件や流行りの動画にあっさりと上書きされていた。
青年は、あの日早退した翌朝、同僚との何気ない会話の中で映像の話を持ち出してみた。
「昨日の、あれ見ました? 地底人……」
期待半分、不安半分で言葉を投げかける。
返ってきたのは、軽い調子の相槌ばかりだった。
「本当に居たねー」
「地球なんてまだまだ分からないことが多いし、居てもおかしくないか」
その言葉に特別な重みはなく、昼休みの雑談の延長にすぎなかった。
誰かが冗談めかして「次は火星人でも出るんじゃない?」と笑いを取れば、もうその話題は十分に消費されたことになり、数秒のうちに別の話へと移り変わっていく。
弁当の中身や週末の予定、上司の愚痴。
人々は当たり前のように日常の会話へと流れていき、そこに踏みとどまろうとする者はいなかった。
ーーそれで済んでしまうのか。
胸の奥に置き去りにされた感覚が、じわりと広がる。
青年だけが、あの日の不可解な映像に引き留められているようだった。
まるで世界が自分ひとりを残して先へ進んでいくかのように。
青年が人々とは違うと感じていたのは、あの日以来、確かに始まっていたある感覚のせいだった。
世の中の大半と同じように、表面上は仕事をこなし、買い物をし、眠りにつく日常を繰り返す。
だが、その日常の合間――エレベーターを待っている数秒や、信号待ちの赤に立ち止まっている刹那に、不意に頭の奥で音が鳴り響くことがあった。
その音は一定ではない。
ある時は電子音のように短く鋭く「ピッ」と刻まれ、またある時は洞窟に反響する獣の遠吠えに似て、低く、重く、長く伸びていく。
耳で聞いているのではなかった。
外界を経由せず、直接脳の奥へと響き、頭蓋の内側を震わせるような感覚だった。
初めてその音を経験した瞬間、青年は本来なら恐怖を抱いて然るべきだと思った。
幻聴かもしれない。病気かもしれない。
そう思えば思うほど、足がすくみ、冷や汗に覆われてもおかしくない。
だが、不思議なことに――恐怖は訪れなかった。
脅かされるでもなく、拒絶されるでもなく、ただ「そこに在るもの」として響いてくる。
まるで、遠い昔から知っていた旋律を思い出すかのように、自然に受け入れてしまっていた。
ーーこれは何なのか。
疲労のせいか、錯覚の一種か。
そう理屈をつけようとしても、胸の奥底では別の確信が芽生え始めていた。
ーーあの日の出来事に、きっと繋がっている。
そして、この得体の知れない断片を、自分は決して手放したくない。
願望も混じっているのだろう。
自らが引き留めているに過ぎないのかもしれない。
それでも青年は、その感覚を拒もうとはしなかった。
むしろ、心のどこかで待ち望んでさえいた。
ーーこの異様な感覚が、やがて大きな意味を持つことを、青年はまだ知る由もなかった。




