ーー非現実ーー
瞬間、全身の血が逆流するような衝撃が青年を貫いた。
心臓は胸を破ろうとするほど荒々しく鼓動し、指先が痺れ、呼吸はうまく空気を取り込めない。喉は再び焼けるように渇き、額の汗が目尻をかすめて頬を伝った。
画面中央。岩陰の闇がゆっくりと膨らむように揺らめいた。
カメラが慌ててズームする。画質の粗い粒子がざらつきながらも、その中に「輪郭」が浮かび上がっていく。
人の形。肩、腕、そして頭。偶然の光や影では説明できない、明確な「立ち上がる姿」。
灰色の地肌に塗り込められたような火山岩の世界で、その影だけが異質に浮かび上がっていた。
影はふらりと前へ。二本の脚で、確かに歩いていた。
カメラがぶれる。再び捉えると、その姿は噴火口の縁に立ち、首を巡らせるように周囲を見回している。
ただの自然物ではありえない――「意志」をもった仕草だった。
青年の内側で叫びが炸裂した。
これだ。存在している。生きている。
全身を熱と冷気が同時に走り抜け、声にならない声が喉に詰まる。
だがその昂ぶりを冷笑するかのように、番組の声は落ち着き払っていた。
「ご覧いただけますでしょうか……岩陰から姿を現したように見えますね」
アナウンサーは、まるで天気予報を読み上げるかのように事務的に。
「はい、確かに……二足歩行のようにも確認できます」
編集長もまた、理屈だけを追う冷静な口調で言葉を重ねる。
モニター越しの世界は、淡々と進行していく。
だが車内の青年にとって、その瞬間は世界が裏返るほどの「発見」だった。
何故だ――。
何故、彼らはあんなにも冷静でいられるのか。
カーナビ越しに映るスタジオの面々は、珍しい虫を観察しているかのような気楽さで淡々と語り合っていた。編集長が冗談めかして「もし宇宙由来ならロマンがありますね」などと笑い、MCがそれに軽く合いの手を打つ。横並びの解説者たちも、頷きながら手元の資料を見下ろすだけで、誰ひとりとして硬直した顔をしてはいなかった。
だが、あれは確かに存在している。
灰色の噴火口に立ち上がった異形の人影。
常識の外にある生命体。
もしも敵意を帯びて動き出したなら、人間の命など瞬きの間に踏みにじられてしまうかもしれない。
青年の胸に熱が籠る。
彼にとってそれは恐怖ではなく、むしろ長い年月をかけて追い続けてきた“答え”の一端。
憧憬に近い畏敬と、全身を震わせる歓喜とが入り混じり、恐怖が入り込む余地など一片もなかった。
心臓が胸郭を破ろうとするかのように脈打ち、呼吸は荒く乾き、こめかみに汗が滲む。
――しかし、人々は違うはずだ。
未知に対して恐れを覚えるのが人間というものではないのか。
にもかかわらず、どうして。
どうして誰も取り乱さない?
青年はその温度差に置き去りにされる感覚を覚えた。
自分の鼓動と世間の無関心とが、まるで別の世界で鳴っているようにかけ離れている。
ふと胸の奥で、奇妙な実感が芽生えた。
――これは現実なのに、現実ではない。
まるで自分ひとりがスクリーンの中に引きずり込まれ、そこで必死に叫んでいるかのようだ。
他の誰もが「娯楽」として眺めている映画を、自分だけが真に受け、震えている。
そんな滑稽で孤独な立場に、自分が押し込められている。
車内の空気は熱を帯びているのに、画面越しの世界はどこまでも冷ややかだった。
「この岩場と比べると……身長は三メートル近くありそうですね。」
「色が黒っぽいのは、宇宙環境の寒さに適応しているからでしょう。太陽熱を吸収できるように進化しているのかもしれません。」
カーステレオのスピーカーから、編集長の軽薄な声が流れ出す。
その即席の推測を、MCたちは子供の自由研究に感心するかのように相槌を打ちながら受け入れていた。
中継先のアナウンサーもまた、熱の欠片もなく淡々と状況を読み上げていく。
画面の中では、人類史を揺るがすかもしれない「未知」が歩みを見せているというのに、その扱いは妙に平板で、あまりに事務的だった。
――世紀の瞬間が、簡単に片付けられていく。
番組は、予定していた台本通りの話題に早く戻りたがっているらしい。
まもなく締めの言葉が差し込まれ、この話題も軽々と過去のものにされてしまうだろう。
だが、異変はそれだけではなかった。
先ほどまで全身を駆け抜ける興奮に震えていた青年自身にも、変化が訪れる。
脳裏を埋め尽くしていた「恐竜原人」の幻影が、急速に色褪せていく。
頭の中が冷水を浴びせられたように、熱が急速に引いていくのだ。
――スーッと、冷やされていく。
胸を突き破りそうだった鼓動は徐々に弱まり、代わりに倦怠の鉛が体中へと流れ込んでくる。
熱狂が、砂時計の砂のようにさらさらと零れ落ちていく。
そしてその隙間を縫うように、昨晩の眠れぬ興奮の反動が容赦なく押し寄せた。
まるで強制的に冷却された脳が、そのまま眠気へと支配を委ねていくかのように。
青年はその流れを拒もうとはしなかった。
手の中のスマートフォンを投げ出すように助手席へ置き、SNSのざわめきを遮断する。
ふっと長い吐息を漏らし、運転席のシートを大きく倒す。
瞼の裏に、つい先ほどまで鮮明だった「人影」の輪郭が滲み、崩れていく。
眼前に広がっていた非日常の光景は、薄れゆく意識と共に遠ざかっていった。
残ったのは、真昼の車内に漂う乾いた暑さと、耳障りな蝉の声だけだった。
目を閉じ、意識が遠のいていく。
その瞬間まで、頭の中ではクエッションマークが連続していた。
「なぜ?」「どうして?」「本当に……?」
しかしそれらも、ひとつ、またひとつと消しゴムで消されていくように輪郭を失い、青年はその流れに抗うことなく身を委ねた。
車内はエアコンの風が一定のリズムで吹き付け、単調なモーター音が眠気をさらに助長する。
外の陽射しに焼かれる車体と、冷気に包まれた密閉空間の落差が、彼の身体からじわじわと力を奪っていった。
シートに沈み込んだ背中は、まるで深い水に引きずり込まれるように重たくなる。
瞼の裏にはまだ恐竜原人の輪郭がちらついていたが、それもすぐに靄に溶け、色も音も曖昧なまま薄れていく。
受け入れるように、眠りに落ちていく。
彼の呼吸が深く静かになる一方で、スピーカーからは番組MCの軽快な声が鳴り続けていた。
もはや画面の中の「世紀の瞬間」は片隅に追いやられ、話題は当たり障りのない次のコーナーへと移り変わっていた。




