ーー確証ーー
ーー落ち着け、落ち着け。
胸をせり上がる衝動をなんとか押さえつけようとする。
理性が必死に声を張り上げるが、その言葉は薄紙のように頼りなく、今にも破れそうだった。
それでも、行かなければならない。
あの場所へ。
青年はアクセルを少し踏み込み、車を前へ押し出した。
窓を開けると、初秋の陽射しを含んだ風が流れ込んでくる。まだ熱の残る空気は湿り気を帯び、肌にじっとりとまとわりついた。
(この温度なら、彼らは生きられるのか?)
子供の頃に夢中で描いた空想と、今目の前にある現実が、同じテーブルに置かれたカードのように並んでいる。意味を成すかどうかは分からない。ただ確かなのは、自分の脳がその両方を同時に処理しているということだけだった。
ディーゼル車の無愛想なエンジン音。マッドタイヤが路面を噛むロードノイズ。いつもなら心を落ち着かせる「作業用BGM」のように聞こえるそれらが、今日は一切耳に届かない。音はあるのに、存在しない。世界から切り離されているのは自分か、それとも街か。
街並みは、しかし、何一つ変わらなかった。
コンビニの看板、歩道橋の影、ガードレールに張り付いた古いステッカー。変化などありはしない。変わってしまったのは、ただ彼の内側だけだった。
正面には、いつものバイパス。やはり今日も渋滞だ。この渋滞を加味して出勤する人々はどれだけ早く家を出るのか。膠着状態のバイパス手前、信号機が黄色から赤へ、そして矢印へと移り変わる刹那、彼は迷わずにハンドルを切った。海岸線へ――。
緩やかなカーブを抜けた瞬間、視界がぱっと開ける。
朝の陽射しを浴びた海が、眩しいほどに青く広がっていた。
その穏やかな光景に、不釣り合いなほど荒れ狂う衝動が、青年の胸をさらに強く叩いた。
ーー心地よい潮風が吹き抜ける、あのテトラポットの定位置。
だが九月に入ったとはいえ、日中の陽射しはまだ容赦なく、表面は鉄板のように熱せられていた。
「……よし」
掌をそっと触れ、まだ座れると確かめてから腰を下ろす。
朝に一度会社へ出社したとはいえ、ほとんど滞在することなく早退してきた。時間はまだ午前の気配を残し、通勤を終えた街がひと息つき始めるころだ。テトラポットも、かろうじて青年を受け入れてくれる温度に留まっていた。
潮の匂い。波が割れては砕け、白く泡立つ音。
それらが胸のざわめきを落ち着かせるどころか、むしろ逆に、遠く隔たった現実の輪郭を鋭く際立たせる。
すぐさまポケットからスマートフォンを取り出し、SNSの画面を開いた。
やはり「地底人」というワードが一番のヒットを誇っている。
右下の岩陰に映っていた、あの影について――。
じりじりと日差しが肌を焦がす中、青年はスクロールを続けた。
だが画面に並ぶのは、冷やかし半分、笑い半分の書き込みばかり。
「地底人マジでいたw」
「作り物だったらウケる」
軽い冗談の羅列が延々と続き、誰ひとり確信に迫る者はいない。
もちろん、自分の論文だって突き詰めれば空想の延長に過ぎない。
だが――今の彼にとっては命を震わせるほどの現実だった。
だからこそ、軽いおもちゃのように語られる「地底人」の文字列が、かえって虚しく胸を抉った。
時間だけが無意味に流れていく。
額からこめかみへ汗が伝い落ち、視界の端で波がきらめいた。
潮風が頬を撫でても、その熱は癒えない。
「……ダメだ、暑い。」
水もないまま会社から直行してきたことを思い出し、青年は観念したように立ち上がった。
車へ戻る。
そして「一応、病院に寄ったことにしておく」――そう自分に言い聞かせながら、町医者の近くにあるコンビニを目指す。
どこで誰が見ているか分からない。演技を続けなければならない。
車を走らせる。
フロントガラス越しの陽射しが、容赦なく腕を焼き付ける。
九月に入ってもまだ夏の気配は去りきらず、蝉の声がかすかに残っていた。
信号待ちで停車し、喉の渇きを癒そうと無意識に自販機やコンビニの看板を探す。
そのとき――ふとチェックしたSNSに新しい書き込みが現れた。
――「テレビ中継、再開したぞ。」
青年の指先が、わずかに震えた。
渇きの感覚すら吹き飛ぶほどに、血が一気に熱を帯びる。
町医者の近くにあるコンビニまでは到底もたなかった。
再び流れ始めた中継の知らせは、喉を焼きつづける渇きには勝てず、どちらにしても余裕など残されていなかった。青年は通り沿いにぽつりと現れたコンビニの駐車場へとハンドルを切った。
エンジンを切るよりも早くドアを開け、半ば駆け込むように店内へ。
無機質な冷房の風が額の汗を瞬時に冷やし、照明の白さが目に刺さる。冷蔵ケースの前に立つと、ガラス越しに並ぶ水のボトルが、今だけは救いの灯にさえ思えた。一本を掴み取ると、そのままレジへ。差し出す手は震えていて、硬貨が落ちる乾いた音さえ耳障りに響いた。
車に戻ると同時にキャップをひねり、乱暴に喉へと流し込む。冷水がひび割れた大地を潤すように、乾ききった粘膜へ染み渡っていく。肺の奥まで清涼が届く錯覚に、一瞬だけ身体が蘇った気がした。だが、その刹那の安堵の裏で、胸のざわめきはなお荒れ狂ったまま鎮まらない。
落ち着け――。
そう言い聞かせるように呼吸を整え、青年はカーナビに手を伸ばす。
テレビモードに切り替えると、画面の中でざらつく映像が次々と切り替わり、やがて昨日と同じ局へと指が止まった。
画面の隅。ワイプに映るのは、例の編集長の顔だった。
彼こそが「地底人」という名を軽々しく世間へ投げつけた張本人。あの嘲笑まじりの口調が、今も耳に焼きついて離れない。だが、今は彼の表情にも緊張の影が差している。
映像は現在の噴火口を映し出していた。
カメラが寄る右下の地点――昨日、そして先ほど確かに人影めいたものを見た場所。
だが今、そこには何もいない。
岩肌は無惨に乾ききり、灰色の斜面が広がるばかりで、影を作る突起すら見当たらない。
「……いない。」
思わず声に出すと同時に、青年の胸の奥に確信が芽生えた。
見間違いではなかった。幻でも錯覚でもない。あの瞬間、確かに存在はそこにいた。
そして今はもう姿を消している――それは即ち、生きている証だ。
車内でひとり、昂ぶる鼓動を抱えながら結論に辿り着いたその時。
画面のワイプに映る編集長が、まるで心をなぞるように口を開いた。
「……いない。」
同じ言葉。同じタイミング。
偶然にしては、あまりにも出来すぎていた。
しかし、証拠を映像で捉えられなければ、どんな確信もただの妄想に過ぎない。
噴火口を延々と映し出す中継は、無駄な時間の浪費に見え、青年の早退もまた滑稽な茶番と化してしまうだろう。
ワイプに映る編集長は、そんな焦りを他人事のように無視して、陶酔した面持ちで語っていた。
「……地底人が、実は宇宙から来た存在である可能性も、否定できないのです」
酔いしれた声色は舞台役者のように芝居がかり、根拠のない言葉が空気を薄め、現場の熱気を安っぽい神話のように矮小化していく。
そのときだった。
「――あっ! あれでしょうか?」
番組MCの鋭い声が、真空に針を刺すように響いた。
青年はちょうどスマホでSNSの書き込みを追っていたが、その声に反射的に顔を上げ、カーナビのモニターへ視線を戻した。
ーーいた。
ーーついに映り込んだ。




