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恐竜原人の創造  作者: SHIRATORI TOSHIHIDE


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ーー違和感ーー

ーー携帯電話のアラームが鳴る前から、指先はもう画面の上に待機していた。

予感のように、次の秒で必ず音が鳴ると分かっている。

そして案の定、耳障りな電子音が鳴り響く。即座に止める。

スヌーズが三度繰り返されるのも、すべて予定調和のように。――いつものことだ。


朝は決まってぬるめのシャワーを浴びる。

タオルで髪を拭きながら、鏡の中にいるのは、眠っていないはずなのにどこか普段と変わらぬ顔。

青白さはある。だが、それ以上に「何事もなかったかのような表情」を、彼は無意識に自分へ貼りつけていた。


食卓では、雑誌やSNSで見た“丁寧な暮らし”を真似る。

アボカド、沢庵、オクラを細かく刻み、茶碗の上に並べる。

空いたスペースには混ぜ合わせた納豆をそっと置き、中央には卵の黄身を落とす。

甘だし醤油にわさびを溶かし、円を描くように回しかける。

黄身の周りに色とりどりの具材が並び、ひとつの小さな宇宙のような朝食。

その完成を見届けると、ふっと息を吐いた。これもまた、いつものことだ。


始業の一時間前には家を出る。

会社までは車でわずか十分。だが、そのまま直行はしない。

少し遠回りして海岸線へ出るのが習わしだった。

いつもの駐車スペースに車を停め、テトラポットに身を横たえる。

夜明けの空はまだ柔らかな色合いで、潮の匂いが風に混じり、遠くの貨物船の汽笛がかすかに響く。

波の音は規則的で、体の奥を撫でるように繰り返される。


青年の一日は、こうして始まる。

入社以来、遅刻が一度もない理由がここにあった。

だが、この日はひとつだけ、違う。


――寝ていなかった。


テトラポットに横たわるうちに、夜の興奮は徐々にほどけていく。

黒い影を目にした衝撃も、子供の頃に書いた稚拙な論文を引っ張り出して読み耽った高揚も、机の上に並んだ空き缶の記憶も。

すべては潮風とともに遠のき、頭の奥からじわじわと抜け落ちていく。


残されたのは、海のリズムと体の重さだけ。

彼は目を閉じ、かすかに笑みを浮かべた。

世界があれほど騒いだ“瞬間”でさえ、こうして波の音に溶けていくのだと。



――珍しく、慌てた。

入社以来守り続けてきた無遅刻の記録が、今にも途絶えそうになったのだ。

テトラポットの上で、ほんの一瞬のつもりが、深いまどろみに落ちていた。


ハンドルを握る手にはまだ眠気が残っていた。信号待ちで思わず瞬きを長くしてしまうたび、胸がざわつく。

頭の中には、もはや余計な思考は残っていない。

ただ始業までに会社へ着けばいい。それだけだった。


そのためなら、少しの速度超過もやむを得ない。

「丁寧な暮らし」に憧れながらも、こうして矛盾を繰り返す――そんな自分に気づき、苦笑すら浮かんだ。

情けない。だが、それが自分の正体なのだと。


それでも無事に出社し、打刻を終えた時の安堵は小さな勝利のように胸に広がった。

無遅刻の記録は守られた。

いつもと変わらぬように上司や同僚に挨拶を返す。

笑顔も声の調子も、普段と変わらないつもりだった。


だが、寝不足の影響は隠せなかったらしい。

廊下ですれ違った上司が足を止め、こちらを振り返った。


「どうした、大丈夫か? 顔色が少し悪いよ。」


青年は一瞬、心臓を掴まれたような気分になった。

だがすぐに表情を整え、言葉を探す。


「ちょっと朝、ウトウトしてしまって……慌てただけです。」


――素直だった。

本音を語ったわけではない。けれど、物語の“あらすじ”だけを差し出したような答えだった。


上司は眉を寄せたまま、しかし強くは追及せず、

「気をつけてな。」

とだけ告げて、自分の持ち場へと歩いていった。


廊下に残された青年は、心に小さな波紋を感じていた。

自分では“いつも通り”を演じているつもりだったのに、わずかな変化を見抜かれてしまった。

驚き半分、感心半分。人の上に立つ者の観察力というものは、やはり侮れない。


青年はトイレに立ち寄り、鏡の中の顔を確かめた。

そこに映るのは、思ったほど悪くない表情。

むしろ“普通”を装うには十分すぎるほど、何事もない顔だった。


――なのに、見抜かれてしまった。


鏡の中の自分としばし目を合わせ、やがて小さく息を吐いた。

それから水で手を洗い直し、滴る雫を振り払うようにして自分の持ち場へと歩いていった。


感じるのは、やはり違和感だった。


青年自身、朝のテトラポットで昂ぶった感情を一度はリセットしてきたはずなのに、社内全体の空気もまた、昨夜の出来事を現実ではなかったかのように飲み込んでしまっている。

ニュース番組が執拗に繰り返した「自然現象」という説明は、効き目の強い睡眠薬のように人々の思考を沈め、社員の会話からはすっかり話題が消えていた。

結局すべては地殻変動の一端として片づけられ、あの異様な人影も「ただの見間違い」と処理されてしまった。


――それなら、それでいい。


頭ではそう言い聞かせる。

自分ひとりが浮き上がることを恐れ、無難に波に身を任せる。社会に出てから何度も繰り返してきた処世術だった。


だが、胸の奥底ではどうしても燻るものが残る。

それは昨日今日に芽生えた感情ではない。

少年時代から、百科事典の恐竜図鑑に釘づけになり、ノートに「もし彼らが生き残っていたら」と拙い字で書き連ねた、あの頃から続くものだ。


昨日の中継映像を目にした瞬間、抑えていた想いは爆発寸前まで高まりかけた。

画面の向こうに立ち現れた“何か”は、子供の頃に夢想した姿と重なり合い、指先が震えるほどの昂ぶりを覚えたのだ。


けれどテレビは鎮静剤のように、同じ映像を繰り返し流し、人々は「非日常」を「日常」の枠へと押し戻していく。

あれほど心を揺さぶった光景も、繰り返し再生されるたびにただの映像記録へと変質し、現実味を失っていった。

それは青年自身をもとの場所へと引き戻し、興奮の残滓を静かに押し流していった。


今朝のテトラポットで、潮風に晒されながらまどろんでいたとき、彼は確かに同じ場所へ戻されたのだ。

恐竜原人――あの空想の存在は、机の引き出しの奥に眠る稚拙な論文とともに、再び誰にも言わぬ少年期の憧れへと押し込められた。


だが、完全に消え去ったわけではない。

心の片隅にはまだ微かな熱が残っている。

それは、いつかまた何かが起こったとき、再び燃え上がる火種のように。


 始業時間の十分前。

通路を歩き、持ち場へ向かう途中、ふと視界の端をかすめるものがあった。

ガラス越しに覗いた喫煙室の奥、据え付けられたテレビ。


青年はもうタバコをやめて久しい。

むしろ未練が蘇るのを恐れて、意識してその場所を避けていた。

けれど、その瞬間ばかりは足が止まった。

画面に映っていたのは――昨日、世界をざわつかせたあの噴火口だった。


朝の光に照らされ、報道ヘリが再び接近し、中継が始まったばかりのようだった。

始業時間は刻一刻と迫っている。

それでも青年は、喫煙室に集まった数人の同僚たちに混じり、煙草の匂いに顔をしかめながらも、画面へと歩み寄った。


同僚たちは誰も言葉を交わさない。

火をつけたばかりの一本を急ぐように吸い込み、白い煙を吐き出す。

煙が天井の換気口へゆらめきながら吸い込まれていくあいだ、全員の視線はただ一点、テレビ画面に縫いとめられていた。


青年は煙の霞の向こうで目を凝らした。

報道ヘリのカメラが、噴火口の縁に沿ってじわりと寄っていく。

昨日、人影を思わせるものが映った場所だ。


だが――そこには何もなかった。

ただ灰色の岩肌が、朝の光を反射して冷ややかに横たわっているだけだった。


「やはり見間違いだったのか……」

そんな声が青年の胸に浮かぶ。


カメラはズームを保ったまま、火口の縁をなぞるようにゆっくりと移動していく。

しかし、周囲に人影と紛れるような突起は見当たらない。

火口を囲む岩壁は、不自然な歪みもなく、均一な高さで空へ向かってそり立っている。


〈ご覧ください。昨日“人影ではないか”と報じられた周辺ですが――現地では、確認できるものは何もありません〉


実況の声が、ヘリの轟音にかき消されまいと必死に張り上げられる。

だがその声は、皮肉にも「何もない」ことを強調し、聞く者の耳に虚しさを沁み込ませていった。


青年は画面を凝視しながらも、心の奥で小さな違和感を募らせていた。

「――本当に、なかったのか?」


一瞬の錯覚であったなら、どうして昨日、あれほど生々しい輪郭を見てしまったのか。

なぜ心臓があれほど高鳴り、全身の血が騒ぎ立ったのか。


白い煙が視界を横切る。

同僚たちの吐き出す息にまぎれて、テレビの映像さえ霞んでいく。


そのとき青年は、画面の中で繰り広げられる呆気ない幕引きより――むしろタバコを終え、立ち上がって退室していく同僚たちの“画面への無関心な空気”に、強い違和感を覚えた。


彼らにとっては、ニュース映像も一本の煙草と同じようなものなのだろう。火をつけ、数分で燃え尽き、灰皿に押しつけて終わり。昨日のあの黒い影も、彼らの中ではすでに灰と化し、ただの「燃えカス」として片づけられている。


青年は、まだ消えきらない煙の向こうでひとり立ち尽くした。

報道ヘリの中継は続いている。灰色の火口はただ沈黙し、何事もなかったかのように朝の光を返している。

――けれど、本当に何もなかったのか。


胸の内で膨らむ問いは、誰の口からも発せられないまま、煙と一緒に換気口へ吸い込まれていく。

足早に持ち場へ戻る背中を追うこともできず、青年は自分だけが取り残されたような心地で画面を見つめ続けた。


テレビの中の火口と、テレビを背に立ち去る同僚たち。

その両方のあいだに漂う「温度差」が、どうしても拭いきれなかった。

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