ーー始まりーー
子どもの頃に抱いた憧れは、誰の心にもひっそり残っているものです。
大人になった今、ふとした拍子にその記憶がよみがえり、ほんの少しだけ幼い自分に戻ってみたくなる——そんな瞬間があります。
この物語は、まさにその“ささやかな憧れ”をもう一度のぞき込むような、肩の力を抜いて読めるお話です。
深く考えず、コーヒーでも片手に、気楽にお楽しみいただければ幸いです。
地殻の奥深く――人類がまだその存在を想像すらしたことのない領域。
そこには煮えたぎるマグマの海が果てしなく広がり、赤黒い炎の奔流が永遠にうねり続けている。
そのさらに奥に、信じがたい真実が隠されていた。
かつて絶滅したとされる恐竜たちは、実際には滅びてはいなかったのだ。
彼らは幾億年の歳月を生き延び、地下に適応し、進化を遂げていた。
鱗に覆われた巨体は徐々に縮み、代わりに脳は膨張し、眼には知恵の光が宿った。
彼らは言葉を操り、記憶を伝え、道具を作り、やがて地下という異境で文明を築き上げる。
――その姿はもはや「恐竜」ではなく、「恐竜原人」と呼ぶべき新たな種族であった。
だが、永遠に続くかに思われたその地下文明も、やがて限界に気づく。
暗黒と熱の世界では、繁栄は可能でも未来はない。
彼らの心を縛り続けたのは、忘れ得ぬ記憶――かつて自分たちが支配していた、風が吹き、海がきらめき、太陽が照らす世界だった。
地上への帰還。
それは恐竜原人の文明が生み出した最大の夢であり、また最大の呪いでもあった。
しかし彼らは悟った。
自分たちはあまりに大きく、あまりに長く生きすぎた。
かつての地表で栄華を誇った時代のように、再び直接その地を制することはできないと。
そこで彼らは、新たなる存在を生み出すことを選ぶ。「人間」が鉄等の金属と電子回路で機械を作り、学習機能を与えAIを生み出したように――恐竜原人は細胞という素材を用い、高度な自己学習機能を備えた「人間」を造り出したのだ。
人間の使命は、ただ一つ。
地表を整え、再び恐竜原人が歩める世界へと変えること。
――それは表向きには知らされず、潜在意識の奥深くに刻み込まれた呪文のような役割だった。
農耕は、大地を耕し食糧を増やすだけでなく、土地を均し、文明の礎を築いた。
建築は、己のために都市を築いているように見えて、実際には地殻の呼吸を変え、大地を馴らしていった。
採掘は、大地の奥から資源を引きずり出し、地下と地表を繋ぐ無数の傷跡を残した。
産業革命は、熱と煙を空へと放ち、空気の組成を少しずつ変えていった。
その営みは人間自身の欲望によるものだと信じられてきた。
だが真実は違う。
すべては恐竜原人の意志に沿うよう、見えざる仕組みの中で導かれていたのだ。
そして今。
人類の活動は大気を厚く包み込み、氷を溶かし、地表の温度を引き上げている。
人類にとっては危機。
だが恐竜原人にとっては――待ち望んだ復活の兆しである。
かつて隕石の衝突と氷河期によって砕かれた夢が、再び甦ろうとしていた。
「温暖化」という名の現象こそ、人間という種に課せられた最後の使命。
恐竜原人が再び太陽の下に立つための、長き復活の序章だったのである。
2025年――。
世の中は相も変わらず騒がしかった。
新しいテクノロジーやサービスが次々と現れ、人々はそれを「便利になった」と口にする。
だがその表情に、心からの安らぎは少ない。
誰もがスマートフォンを握りしめ、画面越しの他人に苛立ち、羨み、あるいは叩き合う。
幸福を叫ぶ声の裏に、常に不安と焦燥が滲んでいた。
その中に、一人の青年がいた。
地方都市の片隅。
ベッドタウンとして整備された海沿いの住宅地の一角に、彼は一人で暮らしていた。
最寄り駅はあるが電車の本数は少なく、結局のところ移動の中心は車。
生活の足は、二十年以上前のSUV。
角ばったボディにくすんだ塗装。燃費も悪く、整備も手間がかかる。
周囲からは「維持費が無駄だ」と言われても、彼にとっては日々を支える相棒そのもの。
休日に出かける場所といえば、ショッピングモールかパチンコ店くらい。
都会のように煌びやかではないが、かといって「田舎らしい田舎」でもない、どこか中途半端に栄えた町。
彼はその街で、ただ淡々と暮らしていた。
彼の日々は、誰が見ても平凡だった。
朝は眠い目をこすりながら古びたSUVに乗り込み、渋滞のバイパスを避け少し遠回りした海岸線を抜けて職場へ。
会社では上司の顔色を窺いながら、無難に業務をこなす。決して出世欲が強いわけではなかったが、投げやりに手を抜くこともできない性分。
帰宅すれば、冷めかけた弁当を電子レンジに放り込み、ネットで映画を検索し眺めながら晩酌。
そんな繰り返し。
気分転換のつもりで打ち込むギャンブルは、いつも期待を裏切り、勝ちよりも負けが積もる。
勝っても負けても、結局は「日常」の範囲内。
むしろ彼にとって本当に恐ろしいのは、生活が壊れることではなく――このまま、何も起こらないまま、年齢だけを重ねていくことだった。
――そんな、どこにでもいる普通の青年。
だが彼には一つだけ、子供の頃から変わらず持ち続けている「熱」があった。
恐竜。
太古の覇者たちへの憧れと、誰にも語られぬ独自の持論。
そう――恐竜は絶滅などしていない。
彼らは地中深くに潜み、「恐竜原人」として進化し、やがて地球の支配者へと返り咲くのだ。
そして人間は、その恐竜原人によって造られた存在にすぎない。
地球を温め、彼らが再び歩むことのできる舞台を整えるための駒――。
彼自身も、その説を「荒唐無稽な妄想」だと理解していた。
恐竜好きが拗らせたフィクション。
飲み屋で語れば笑われ、ネットに書き込めば陰謀論者と揶揄される類のもの。
――少なくとも、これまではそう思っていた。
だがこの年。
彼の“妄想”は、妄想のままでは終わらなかった。
近年、地球は落ち着きを失っていた。
大雨は記録を塗り替え、夏の暑さは年々鋭さを増し、突如として牙を剥く地震や噴火は、人間の営みをあざ笑うかのように繰り返されていた。
ニュースのたびに流れる「異常気象」「未曾有の災害」という言葉は、もはや耳慣れた日常の一部となりつつあった。
人々はその変化を恐れ、あるいは諦め、時には「地球の怒り」や「地球からのSOS」といった曖昧な言葉で片づけた。
見えない大きな存在に責任を押しつけることでしか、彼らは安心を得られなかったのだ。
だが――ただ一人、彼だけは違った。
これらの変化は、怒りでも嘆きでもない。
もっと冷徹で、もっと必然的なもの。
彼の胸中では確信に近い思いが渦巻いていた。
――これは、「恐竜原人」による環境整備にすぎない。
人類にとっては災害でも、彼らにとっては復活のための準備。
熱は増し、大気は濃くなり、やがて地表は彼らにとって最適な舞台へと変わる。
そう考えることで、彼はかすかな喜びさえ覚えていた。
退屈で報われぬ日々の中で、自分だけが知る「真実」を抱えて生きる――それは密かな愉しみであり、彼をこの世界につなぎ止める唯一の希望でもあった。
彼は時折、仕事帰りの車の中で一人、カーナビのオーディオソースから流れる気象ニュースに耳を傾けた。
「観測史上初」「百年に一度」「未曾有の大雨」。
どの言葉も、彼にとっては不吉どころか約束の鐘のように響いた。
窓の外を叩きつける豪雨を見ながら、心の奥で感じていた。(その日は確実に近づいている)と。
同僚たちが「嫌な時代だ」と嘆くたび、彼だけは違う感情を抱いていた。
だが、喜びと同時に、胸の奥では常に重たい孤独も疼いていた。
恐竜原人の復活を本気で信じる者など、周囲には一人としていない。
職場で"普通"に働き、近所で「"普通"の青年」と見られている彼が、その“真実”を語れば、ただの狂人として笑われるだけだろう。
だからこそ、その秘密は彼一人のもの。
人知れず抱え込む熱は、誰にも触れられぬ分、ますます強く濃く、彼の中で燃え広がっていった。
そして――。
地球の変化は、もはや言葉ではなく“姿”を伴って、彼の前に現れようとしていた。




