神の導き、運命だ
街の女性は噂好きで、いつも様々な話が飛び交っている。
「ねえ、知ってる? モルテの森の噂。」
「知らない人なんていないわよ。」
「悪霊が集まるあの地に入ると、もう出られないって噂でしょう?」
「実は……もうすぐ燃やされるそうよ。あまりにも悪い噂が広がっているから……。」
「燃やすなんて!呪われなければいいけれど。」
—————
私は、薪をくべた暖炉の火を見つめながら、ぼんやりと膝を抱えていた。
外では風が木々をざわめかせ、小屋の壁に冬の冷気が打ちつけている。
最近、セオの姿がふいに消えることが多くなった。
隣でくだらない冗談を飛ばして笑わせてくれたかと思えば、気づけばどこにもいない。
そして数時間後、何事もなかったようにひょっこり現れる。
陽気さは変わらない。態度も同じ。
けれど、何かを隠しているのではないかと、胸の奥で小さな違和感が疼いていた。
……考えても仕方ない。
頭を振り、外套を手に取る。
雪が収まっている今のうちに、水を汲みに行こうと考えた。
泉まで行けば、冷たく澄んだ水を汲める。
それに——心を落ち着かせる清らかさも、あの泉にはあった。
桶を手に、小屋の扉を押し開ける。
冬の森の空気が一気に流れ込み、頬を切るように冷たさが刺した。
吐いた息が白く広がる中、積もった雪の上を進む。
「失敗したわ…急いで帰らなきゃ。」
泉に辿り着けたはいいものの、雪が強くなってきてしまった。
慌てて戻ろうとしたが、そのせいで、何かに足を取られ躓いて転けてしまう。
盛大に桶をひっくり返してしまい、もう水は諦めよう、と足元を見る。
岩に躓いたのだろうか、それにしては柔らかい….
「!!!」
足元に転がったそれをみて声にならない悲鳴をあげた。
「し…死体…?」
恐る恐る、雪を払うと、それは一人の青年だった。
確実に貴族だ。やけに豪華な服を着ているが、森を歩くには似つかわない格好だった。
雪に埋もれるように倒れており、その顔は死人のように青ざめている。
けれど、かすかに胸が上下していた。
どうしよう、助けなくたって、良い。
もしかすれば、私を探しているかも知れない。
そうでなくとも私の存在が外に知れ渡るようなことがあれば、あの家に逆戻り。
そして待ち構えているのは結婚という名の死刑宣告だ。
ごめんなさい。
そう思って歩き出そうとしたが、その決断とは裏腹に、足が雪に沈んだまま動かない。
見て見ぬふりをすれば楽だ。けれど胸の奥で、何かが強く私を引き留めていた。
……やっぱり、放っておけない。
気づけば、私は大雑把に雪を払って青年の体に手を伸ばしていた。
肩を支えると、その身体は驚くほど冷たく、重い。
「大丈夫ですか……!」
必死に声をかけると、青年はかすかに呻き声をあげ、薄く瞼を動かした。
まだ、生きている。
「眠らないで!」
私は唇を噛みしめ、渾身の力を出して青年を引き起こす。
雪の中で足を取られながら、息を切らしながら、一歩一歩進む。
腕が痺れ、背中に重みがのしかかるたびに心が折れそうになったが、それでも歩き続けた。
やっとの思いで小屋に辿り着き、どうにか青年を中へと引き入れ、暖炉の前へと横たわらせる。
暖炉の火が彼の姿を照らす。
美しい顔立ちだった。死にかけているというのに、絵画の中の英雄のような、力強さを感じる。雪に濡れた金の髪が光を反射し、青ざめた肌に残る微かな血色が、かろうじて命の色を映している。
火がぱちぱちと弾ける音の中で、倒れていた青年はゆっくりと瞼を開いた。
金色の睫毛が揺れ、その奥から青とも翠ともつかぬ澄んだ瞳が私を捉える。
「…ここは、どこだ……。
君は……誰だ…?」
青年は呼吸を整え、部屋を見渡し、暖炉の火を一度見てから、改めてを私を見た。
「……助けて……くれたのか?」
かすれた声に、静かに頷く。
「雪の中、倒れていたので…どこか辛いところはありませんか。」
「あ、ああ、大丈夫だ…。
……確か俺は、視察があって、森に近づいて、突然馬が暴れて。」
そう話しながら、青年は私を見つめる。
朦朧としているはずなのに、やけにその視線は真っ直ぐで、ただの感謝以上のものが宿っているような気がした。
「君の名を教えてくれ。」
突然の問いかけに、答えに詰まる。
名を名乗るべきか、隠すべきか。胸の奥がざわつき、言葉が出ない。
そんな私の答えを待つ前に、青年は続ける。
「私は――アデルハイト・フォン・ヴァレンシュタイン。」
その名は、だれもが耳にしたことのある名だった。
私の心臓がどくりと強く鳴る。
「なぜ……なぜ貴方のようなお方がこんな森に….。」
頭を下げて問い返すと、青年は苦笑を浮かべ、ゆっくりと首を振り、頭を上げさせる。
そして、私をじっくりと見つめた。
「運命、だ。……そうとしか言えない。
雪の森で倒れ、そして――君に助けられ、出会った。
私たちは、出会うべくして出会ったんだ。
神の導き……運命だ!」
「……運命?」
私は思わず顔を上げ、声を漏らした。
運命——この男は、何を言っているのだろうか。寒さで死にかけたことで、どこかおかしくなっているのかも知れない。
そう思い、薪を足そうと立ち上がる。
しかし青年は、そんな私の手を取り、歩みを止めさせた。
「君のように美しい娘に会ったのは初めてだ……私を助けてくれた女神よ、ぜひ、私と一緒に来てほしい。」
あまりにも唐突な言葉に、息を呑む。
炎の揺らめきが青年の熱を帯びた瞳を照らし、逃げ場のない視線に捕らわれる。
「それは…できません。」
青年は驚いたように目を見開いた。
けれど、次の瞬間には微笑を浮かべる。
「……それがこの国の王子の誘いだとしてもか?」




