幽霊でも、僕は男だ
森の風が変わり始めていた。
木々の葉はゆっくりと色を失い、緑から黄色へ、そして赤へと移り変わる。
落ち葉がさらさらと舞い、足元を柔らかな絨毯のように覆っていく。
空気は次第に澄み渡り、夜になると肌を刺すような冷え込みが忍び寄ってきた。
「そろそろ、君も屋根のある暮らしをしないとね。」
そう軽やかに言って案内された先にあったのは、小さな木造の家だった。
丸太を組み上げて作られた質素な建物だが、丸太の壁は磨かれ、隙間には新しい木材がはめ込まれている。
屋根には雪を逃がすための傾斜がつけられ、窓枠には簡素ながらも木の格子がはめ込まれていた。
扉を開けると、木の香りを混じえた温かな香りが漂ってくる。
「……これは……」
思わず目を見開く。
「どう? なかなかの出来でしょ?」
宙に浮いたまま、彼は得意げに胸を張った。
「あなたが作ったのですか?」
「いいや、手入れしただけ。元々あった古い古屋をね。
流石にイチからは作れないよ〜。」
あはは、と楽しそうに笑う声聞きつつ、私は古屋の中に足を踏み入れた。
中は想像以上に綺麗に整えられていた。
木の床はしっかりと張り替えられ、小さな暖炉には火が灯っていた。
「なんて素敵…」
手を胸元に当て目を輝かせた私を見て、彼は笑った。
「幽霊屋敷へようこそ!気に入ってもらえて何より。」
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。
——自分の居場所が与えられるなど、思ってもみなかった。
幽霊屋敷——いや、幽霊小屋での暮らしが始まって、数日が経った。
幽霊は気まぐれなものなのか。
気がつけば宙に浮いて、どうでもいい話を延々と聞かせてきたり、
気がつけばどこかへ消えて、数時間戻ってこなかったり。
けれど、いつ消えても、また必ず戻ってくる。
そのことが、私の心を安心させた。
ある昼下がり。いくつかの薪を抱えながら小屋へ入ろうと片手でドアノブを掴む。
すると薪のバランスががずれて、どさっと全て落ちてしまった。
拾い直そうとした瞬間、ぬかるんだ地面に膝をつき、泥がはねて服に染み込んだ。
「……あ」
白い布に茶色の斑点が広がっていく。
残念、彼が見つけてくれた比較的綺麗な布だったのに。
立ち上がり汚れたままの服で薪を拾い集める。
「ただいま〜。って、え、なにその惨状!?」
ふと現れた宙に浮かんだ影に、大きな声で笑われてしまった。タイミングが悪い。
「……薪を拾おうとして、転びました。」
私は答えながら、集めた薪を置き、小屋に入る前に、泥が滴る服を脱ごうと、裾に手をかける。
「わ、わっ!?待った待った待った!!」
彼は突然大きな声でそう言ったかと思えば、真っ赤な顔をして慌てふためき背を向けた。
「汚れたままではダメなので、……」
「そ、そうだけど!少しは恥じらいを持とうよ!?」
何を今更。
私の裸なんて、何度か見たことがあるはず。
彼は振り返らずに声を張り上げる。
「君は君自身の成長を何もわかっていない!」
思わず私は手を止める。
「でも……あなたは幽霊ですし……」
「そう!だけど!幽霊でも、僕は“男”だ!!」
その瞬間、思考が止まった。
自分の体にゆっくりと触れる。
数か月前まで、骨と皮ばかりで、布切れで覆えばそれで十分だったはず。
けれど今は違う。食事を摂り、泉の水を飲み、森を歩いた日々が確かに体を変えていた。
胸元はわずかにふくらみ、骨張っていた体が肉付いている。手足にもかすかな丸みを感じた。
私……変わってきている……?
これまで考えもしなかったことに気づいた瞬間、顔が一気に熱を帯びた。
頬だけでなく、耳の先まで真っ赤になり、胸の鼓動が速まっていく。
背を向けたままの彼は、まだぶつぶつ言っていた。
「ほんと……そういうの無自覚にされると、幽霊だって困るんだから……」
私は、思わず声を上げた。
「……っ、あ、あの……! どこかへ行ってください……!」
太陽が沈む頃、木の実を煮た甘酸っぱい香りが立ちが部屋中を覆う。
彼は宙に浮いたまま、いつも通り軽やかに冗談を飛ばす。
けれど、私の耳にはその声が妙に近く、落ち着かない。
あの瞬間、彼が真剣に「男だ」と言った声が、胸の奥でまだ響いていた。
そんな様子に気づいたのか、気づいていないのか、じっと視線を向けてくる。
「…な……なにか?」
「いやぁ、ほんと綺麗になったなって。」
——かちり、と胸の奥で何かが引っかかった。
いつもの軽口のはずなのに、今日は妙に熱を帯びて響き、思わず頬に手を当てる。
彼は軽く肩をすくめ、笑顔で続ける。
「最初は死人みたいだったのにさ。今はちゃんと“女の子”って感じする。」
女の子。
ただそれだけの言葉が、どうしてこんなにも動揺させるのだろう。
「な、なんだか、変な気持ちです。」
「僕は…親のような気持ちだよ。」
そう言ってふざけたように泣き真似をしている彼の声と、暖炉の火の音がぱちぱちと弾ける。
しかし、私の耳には、ドクドクと大きくなる自分自身の鼓動しか聞こえなかった。




