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私を殺してください

「——どうか、私を殺してください。」


そのか細い声は、夜の森に吸い込まれるように消えた。


一歩ごとに靴は土に沈み、裾が濡れる。

大きな木の枝が複雑に絡み合っており、月明かりすら届かないこの鬱蒼とした森全体が、訪問者を迷わせようとしているかのようだった。


風が吹けば木々が軋み、どこかで鳥が啼き、闇の奥からは複数の何かがじっと見つめているような気配がする。


けれど、不思議と恐ろしさは感じなかった。


むしろ胸の奥が熱を帯びるように、高鳴っていた。

骨と皮だけのボロボロの体が、嘘のように動く。

それは、これから訪れるはずの「終わり」への期待のせいだろうか。

もし噂が真実なら、ここで全てが終わる。


“モルテの森には恐ろしい悪霊が出る。出会ってしまえば最後、一溜まりもない”


息を切らしながら進んでいると、突然、異様な静けさに包まれた。


足音が吸い込まれるように消えていく。

木々の擦れる音も虫の羽音も、動物の声も無い。

冷たい空気が頬を掠めた。


「あーあ、可哀想に。また誰かがこの森に入ってきた。」


闇の奥から男の声が響く。場違いなほど呑気で優しい声色に、ぞくりと寒気が背筋を走る。

けれど私は立ち止まらず、むしろ引き寄せられるように声の方へ歩みを進めた。


先程までの暗闇が、打って変わって月明かりで照らされる。

目を細め、恐る恐る”何か”の方向を見上げる。

噂では、悪霊のはずだった。

けれど、月明かりを背に浮かび上がったのは——美しい青年の影だった。




私の日々は、まるで奴隷だった。

リュシア・ルーヴェランとして、子爵家に生まれても、それは肩書だけだ。


私の部屋は屋根裏の冷たい物置だった。

妹は絹の寝間着に羽毛の布団、私は古びた麻袋。

明かりも暖炉もなく、割れた窓から吹く風、ねずみの走る音と雨漏りが唯一の子守唄だった。


学園にも行かせてもらえない。

骨の浮き出た貧相はな体は、ボロボロの布切れを何枚もつぎはぎした布でかろうじて隠している。


食事はいつも、家畜の餌にも劣る残滓だった。

美しい妹が、天使のような微笑みをむけ、食べ残したほとんど身のついていない骨付き肉を床に投げる。

「お姉様はこれで十分ですものね?」


その日は何食、抜かれていただろう。

咄嗟にその骨を手にした瞬間、継母の手が頬を張った。

「お行儀が悪いわ、リュシア」。

その勢いに飛ばされ、ほおを抑えうずくまる私を見て、妹と継母は顔を合わせてケタケタと笑い、

「ほんと、犬みたい」と囁いた。


私の顔は、痩けた頬に血色のないガサガサの肌で、まるで死人のようだ。

母親譲りの銀髪は、ゴワゴワと絡まり、白髪の老婆にも見える。


蝋燭の細い灯りの中、私は震える手でナイフを自らの首に向ける。

いつから、何度挑戦したかわからない。


はあ、はあ、と荒い息を吐き首元に当てるも、震えてナイフを落としてしまった。


硬い床に金属が当たる、冷たい音が部屋を支配する。


母親は教会に熱心な信徒だった。

母親から聞かされていた教えの中で色濃く覚えているものがある。

“この世の一番の罪は自ら命を断つことよ”


「うっ、、」

私は胃酸を吐き、そのまま倒れ込み未だ枯れぬ涙を流しながら朝まで眠る。


そしてまた同じ日々を繰り返す。




転機が訪れたのは、15歳になって少しした頃。暖かい春の日差しが世界を照らす昼下がりだった。

だらだらと洗濯をするメイドが、複数人でこんなことを話していた。


「聞いた?あの、モルテの森の話。」


「知ってる!悪霊が出るんでしょう?」


「入ればたちまち、悪霊に惑わされ、永遠に森の中から出られないとかなんとか。」


「私は悪霊に殺されて一溜まりも無くなるって聞いたわ。」


「私は悪霊になるって聞いたけど。」


私は自然と耳を傾ける。


「適当な話ね。所詮噂。あんまりに非現実的な話ばかりしてると、魔女裁判にかけられるわよ。さあ、仕事仕事!」


メイドは魔女裁判なんて大袈裟ね〜などと軽口を叩きながら散っていく。


私は手を胸に当てた。

死人のような私でも鼓動は強く動いている。

薄紫の瞳が輝きを取り戻したように爛々と煌めいた。


「殺されるのは、大丈夫かしら、お母様」


私は次期に16なる。刻限が迫っている。

希望を見つけた私の体は、いつもでは考えられぬほどに動くことができた。


それこそ、真夜中に、屋根裏からこっそりと外へ出て、細い体でそのまま塀をすり抜け、モルテの森まで一直線に走るほどに。





夜の静寂が一層濃くその場を支配する。

月影を背に現れたその人影——20代半ばくらいの青年が、気だるげな声を上げる。


「もしかして、子供?」


絹糸のようにサラサラと揺れる黒髪は、夜よりも深い。

整った顔立ちは、どことなく甘く、僅かに垂れ目がちな、形の整った瞳は蜜のように濃い黄金だった。

口元は自然に口角が上がっていて、微笑みを向けられているような錯覚に陥る。

まるで砂糖菓子のように、人を惑わせるような…そんな美しさを宿していた。


そして私は気付く。

——地面に、足がついていない。


青年の姿は宙に浮き、月明かりに照らされながら、まるで空気に溶け込むように漂っている。


胸を焼くような高鳴りに突き動かされる。

「噂は、本当だったのね……。」

思っていた悪霊とは、すこし違うけれど。


その声に応えるように、ひゅうっと冷たい風が吹く。

男は私を一瞥し、肩をすくめる。


「それにしても、ここまで来れたなんて、運のいい子だ。」


そしてじろじろ眺めたかと思うと——


「ヒッ!!本当に人間!?やだやだやだ、お化け!?アンデッド!?怖っ!!」


死人じみた私の姿に本気で怯えているようだった。

そんな青年の異様な態度に言葉を失う。


「……幽霊仲間?」


恐る恐る顔を近づけてくるその姿に、力が抜け、その場に座り込む。

私はそのまま、手を胸の前に当てて祈るように話しかけた。


「私は生きています。悪霊様。」


青年は私の声を聞いた途端、ビクッと体を震わし、警戒した様子で距離を取った。


「えっ、僕に言ってる?」


驚いた表情でこちらを見つめる青年に、私は続ける。


「はい、あなたに、お願いしたいことがあるのです。」


怪訝そうに金の瞳を細め、じっと私の様子を伺っている。


「……君、僕が見えるんだ。」


私は静かに頷いた。


「どうか、私を殺してください。」


数秒の沈黙。

次に返ってきたのは、あまりにも肩透かしな言葉だった。


「……やだよ?」


あっけらかんとした声。

拒絶でもなく、怒りでもなく、ただ平然と。

私は思わず瞬きを繰り返した。


「……なぜですか。」


「いやいやいや、頼まれてはい分かりましたで人を殺す奴なんてなかなかいないって!」


「そんな、この森では、悪霊が人の命を奪うと!」


「なんだそれ。

まず、僕は悪霊じゃない、歴とした幽霊だ。そして、この森は迷いやすい上に獣も多い。それで死ぬものは山ほどいるだろうが、僕は人を殺したことはない。」


何も言わない私に幽霊だという青年は続けた。


「君は運がいいねえ。それに僕の姿や声を認識できるなんて!

初めてだからびっくりしたよ。

その運に免じて帰路を教えてあげるからお家に帰りな。」

そう言って、まるで遊んでいるかのように軽やかに手をひらひらと振る。


胸にあった希望が一瞬で崩れ落ちるのを感じる。

恐怖も、畏敬も、そこにはなく、ただ失望を感じていた。


冷たく硬い現実が、心臓を握りつぶすようにのしかかる。


「…そういうものなのですね」

初めてお話を書きました。

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