その七
三百六十七
昔の時代の写真を見ると、まず家が非常に粗末です。雨や雪、風が幾らでも入って来る様な板張の壁がもう下部から腐って割れてきています。道も土道だから泥が板壁に付いて如何にも貧相です。次に人の服装が非常に地味で貧しいです。白黒写真なのでもう一つ判然としませんが、今と違って生地を裁って人力で仕立の作業を必要とするので、費用も手間もかかり、一度作ったら本当に襤褸になる迄着たのでしょう。
しかし人の表情はとても良いのです。珍しく写真に撮られるから笑顔になっている事もあるのでしょうが、屹度普段から生活に笑顔があるからこういう自然な笑顔が出て来るのだと思います。
あまりにもよく言われる言葉ですが、物質的に貧しく、精神的に豊かなのです。これに憧れるなと言う方が無理でしょう。
三百六十八
自分が一切具体的な犠牲を払わない範囲でしか、人との交流をもたない人が居ます。それは初めから人との交流に何も期待しておらず、実は何も得ていないのです。そういうものとして、正しく理解しましょう。
自分が犠牲を払う事と、人から自分にとって大切なものを貰う事とは同義です。同じ事なのです。自分が尽くしたから相手がくれる、という意味ではなく、納得して犠牲を払う事自体が即ち貰う事なのです。
三百六十九
本当に自分の魂に届くものに接すると、鳥肌が立つ。
「ああ、来た。見付けた」
身体が震えて来る。探して見付からない、それを探す事が虚しく思えた時も何度もあった。そんな長い長い渇望と彷徨の後に、終に出逢う。
自分の切ない希求の歴史の上にこそ、この体験があるのです。それを、その為に必要な努力を、どうして自分から捨てて仕舞う事が出来ましょうか。そんな事は誰が何と言おうと、愚かです。
三百七十
何を念頭に置いて生きているか。私は其処で自分が愚かか愚かでないかを判定します。急いでいるからといってそれは揺るがず、生活の便利に直結しているからといってそれは狂わず、自分の今の暮らしが続くか続かないかの深刻な選択であるからといって例外を許さず、たまに信じられない幸運に恵まれたからといって急に楽天的にならず、静かに落ち着いて、しかし切実に信じるその目標を見据えている。
そういうものをいつも自分の額の前三寸の宙空に感じて、生きていたいのです。その時私は何を見ても、何に接しても、後悔や恥ずかしさを感じないでしょう。
三百七十一
お金など遣わなくとも、家事をし、母のあんまをし、雨の中買い物に行き、頼まれた男手の要る仕事をすれば、それで十分に喜んでもらえる。少し時間が空けば、自分の荷物の整理をして要らないものを処分するもよし、知人に郵便を書くもよし、久々に食べたかったインスタントラーメンを食べるのもよし、時刻表を見て今生き残っている路線の運行本数を確認するのもよし。
私の幸福とは、大概こういうものだ。何処にも生活を荒らす様な要素は無い。私にとって幸福とは、必ず滋味が豊かに湛えられてある。酔わせるものではなく、私を癒し、育てるものが静かに流れている。しかしその背後に、見えない大きなものがある。これら個別の良いものは、全て其処から生まれているのだ。これが、私の生きられる理由だ。だから私は生きる事が出来るのだ。
三百七十二
よく『分かってもらう為の努力が大切、それをしましょう』という言葉を聞きます。人の理解同意を得る為に自分の意見を変えろという意味で用いられます。
この言葉の最も素直な部分の意味、即ち故意に人に分かりにくい様な手法を用いないという事は納得出来るのですが、それを超えると私はどうしてもそれがおかしく奇異に感じるのです。人の同意を得る為に、自分の意見の根幹を変えて仕舞っては、抑々(そもそも)それをやる意味が無くなって仕舞うではありませんか。
人にとって大切な努力とは、後悔する事がない様に自分を尽くす努力です。此方の方がずっと基本で、重要で、人が念頭に置き払うべき努力の大半を占めるものであると思います。というのも、これがぐらついたり或いは無くなると、自分のしている事の意味そのものが消失するからです。理解を得んとの配慮が、発意当初の趣旨を超えて重んじられる理由はあり得ません。あるとしたらそれは、既に当初の目的の達成を棄てて仕舞っている場合です。いや、若しかしたら最初から『分かってもらう』事が一番の目的だったのかも知れません。
私にはこういう、人が真面目に、時には私に好意さえもって言ってくれる言葉の中に、納得出来ないのみならずとても気味の悪いものを感じる事がよくあります。それが私の悪い夢になっているのだとしたら、私の見る悪い夢は、十分に合理的だという事になりますね。
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