その六
二百十七
夜、都会から家に帰る電車の車窓で高層ビル群の明るい夜景を見ました。甚だ美しく、都会育ちの私には懐かしくも麗しい景色でした。田舎から出て来た人には、忘れられない風景でしょう。しかし同時に思いました。この美しい夜景も、全くただそれだけに観るならば虚しく映るのだろう、と。つまりこの人工の光景を美しいと感じる為には、既に別のもので心が満たされてある事が条件であって、それに拠って自分の満足や一定の心の平和が成り立っていなければならないのではないかと感じるのです。幸福でない者が幸福を求めてそれに寄り掛かっても、それは何もくれないでしょう。そういうものではないのです。美しいけれども、見事ではあるけれども、そういう意味で矢張幻想、幻影。吾等は確たる幸福を創ろう。
三百五十九
自分の意志で生きる。この場合、他人が自分に何か意見を言ってそれを自分が是と判断して自分の意志として行うという意味ではありません。ゼロから『こうしたい』と自分が希望を立て、その実現の為に生きるという次元の話です。
この根源的なところが、徹底的に自分自身に由来していなければならないのです。此処が本当に自分から生まれたものであるから自分らしさが生まれ、自分で責任を負わねばならない正当な理由があり且つそれを負う事に自分で納得出来るのだと思います。
願を立てる事が自分のものでない場合、大過無く事が完了した安堵はあっても、達成を喜ぶ気持ちもその過程を含めてその事に拠って自分が成長し経験を積むという体験もあり得ません。
三百六十二
時間に追われない『自由』な暮らしが来た時に、人は今迄の自分の人生の意義を問われます。これは実に恐ろしい時間であると謂わねばなりません。相手は誰か他人ではなく、今迄の自分を全て知っている自分自身なのですから。他人を誤魔化す事は出来ても、自分を誤魔化す事は誰にも出来ません。面と向かって相対する事に堪えられなければ、自分で感覚全てを閉じて放心する以外に道は無いでしょう。
そういう恐るべき意味において、自分の心の平和は自分で創るものなのです。誰かがくれるものではありません。私は今、それを創っているのです。私が毎日戦っているのは、その為なのです。
三百六十四
自分の人生をゼロに戻したいという希望を、私はあまり感じません。そう言いたくなる人の気持ちも分からないではないですが、仮にゼロに戻したにしてもまた其処から生きるのが私自身なのですから、屹度今とあまり変わらない状況になると思います。
自分は自分です。それ以外のものにはなれませんし、なる事を本気で希望する気も起こりません。寧ろ今の自分の生存に確信を求める努力をするでしょう。
三百六十五
手紙を書けない人、書く事が非常に苦手な人を何人も知っています。普段は普通に会話してちゃんと人と意思疎通しているのに。そういう自覚の理由は実に簡単にして単純、立派な表現をしようと、人から見て恥ずかしくない表現をとろうとするからでしょう。何故手紙を書く事を会話と別の次元に考えるのでしょうか。その区別が、私からすると解せません。
表現の妙に感嘆する事も確かにあります。しかしそれが心を打つのではありません。心を打つのは真心です。表現が見つからないとて黙って仕舞っている事で人と繋がる機会を失っている場合、私はそれが世の中に多いと思います。
三百六十六
深夜、子の寝付きたる後縁側に出、外の雨を見る。
子の安息もとより嬉し、妻の安眠亦た言を俟たず。然れど独り吾を待つ母を想えば、吾が天国未だ遼遠、その遠き、猶天竺の如し。
吾が天国は、親しき者総ての笑顔にて成る。吾が天国を支える柱に唯一人の涕ある可からず。一度その犠牲あらんか、其処は断じて吾が天国に非ず。
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