その五十一
二千百八十八
私は人の多い賑やかな場所も、あまり人を目にしない淋しい場所も、そして絶えて人影の無い風の音だけの場所も、それぞれに好きです。何故そうなのかと考えてみると、或る解答に辿り着きました。私はその何れの場所に於いても、想う事があるのです。恐らくそれがどの場所も好きな理由だと思うのです。そしてその想う事というのは、皆、私を慰めるものばかりなのです。
そういうものが、私の知らない間に私の心に貯まっていたのですね。私が自分を幸運だというのは、斯ういう根拠に基いているのです。
二千百八十九
細分化ししかも果てしない領域に向かって広がっている学術の諸方面に向かって挑む気持ちになれないというのであれば、その意図を完全に放擲して直接に人間を見詰める営みに向かってみませんか。人の生きる活動に直接に触れる、いつの時代もそれが一番人を人間らしく生きさせるのです。
混沌の時代なればこそ、根底に必要なのは学問ではなく心の繋がりなのではありませんか。
二千百九十
周囲のあまりにも多くのものが自分の目に不自然に見えると思う事があれば、それは自分が何処かおかしくなったのではなく、寧ろ自分の目が見える様になって来たからだと思う方が妥当な気がします。私の経験ではそうだったからです。それを私は最初自分が悪いのかと思って、随分苦しみました。
そしてその後で来るのです。周囲の奇異さおかしさが見えて、尚且つ自分がおかしいのではないと分かって、その後でようやく自分に足りないものが見えて来るのです。違うでしょうか。私は自分の経験をそう総括しています。自分が見える様になる事が、矢張最後になるのです。一番、難しいのですね。
二千百九十一
自分が何も生み出さないという事を前提にすると、生きる事はただ堪えるだけの苦痛だと想像します。しかし自分が何かを生み出して生きる事を前提にすると、生きる事には結構喜びがある様に思います。私の場合はそうです。何かを生み出しましょう。それに喜びが有る無い以前に、それが普通に生きるという事だと思いますし。
ブログは毎日更新しています。
https://gaho.hatenadiary.com/




