その五十
二千百八十四
最早在りもしない昔を描く事に何の意味があるでしょうか。そう、もう無いのです。しかし私にとってそれは『もう無い』のではなく、『嘗て本当に其処に在った』なのであり、更に謂うならば、『今も其処に在る』なのです。
人の切ない想いに、泣きそうになる様な願いを込めた営みに、もう無いという事はありません。それは消える事が無い、いや消えて無くなる事が出来ないのです。何故なら、それを追う人間がいつの時代にも必ず居るからです。
二千百八十五
完成度が高い。何事かがそういう言葉で評価される時がありますね。ところが私はそういう評価のされかたをするものに、もう殆ど興味が無いのです。いつの間にか興味をもてなくなっているのですね。
今や私の興味は、それが何を志向しているのか、だけです。それだけ知れば、もう私はその事が私にとって重要か否かが分かるのです。私にとって重要なのは、人が何を目指しているのかだけです。
二千百八十六
今日はどんな楽しい事をして遊ぼうかと保育園に走って行く子供もおれば、寝たきりにならない様にとふらふらした足取りで杖をついて散歩するお年寄りも居る。朝の光景です。
私は子供とも年寄りとも一緒に暮らしたい。屹度それが人間にとって一番良い暮らし方に違いない。良いかどうかは措くとしても、一番自然な暮らし方に違いない。そして人を生かす良いものは、自然な暮らしから生まれるのです。
二千百八十七
風邪をひいた事を隠して母に電話します。
「大丈夫ですか? 此方はいつもと変わりません」
私の声は変わっていない筈です。でも母は気付いていても気付かないふりをするでしょう。そして次、遠からず数日後に母の暮らす実家に戻った時には、甘酒などが用意してあるのです。だから斯ういう電話の時、私は自分から泣きそうになって仕舞い、擦れた声ではなくその所為で、母に真実を知られて仕舞うのです。これが魂に届く愛情というものです。それが私を生かしているのです。
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