その五
二百十一
常に人間の精神、その内面について思いを致す事を風雅乃至暇と判断する人もいます。生活が大変で忙しくないからそんな事を考え想っている事が出来るのだと。しかし命の遣り取りをする戦場に在って一輪の花を愛でる武士の気持ちも亦た嘘ではありません。これは何を意味するのでしょう。
簡単です。それを暇と見做す人の魂が、何ら他者を愛していないだけの話なのです。
二百十二
私が大学生の頃、聖書の中で最も好きな書は伝道の書でした。福音書よりも好きでした。あの虚無で生の意義を見出し得ない感じは当時の私の気持ちそのままでした。地上を生きる者よりも既に死した者を幸いとし、更に幸いな者として未だ地上に生まれざる者を挙げています。何という正直な告白でしょう。この告白が神に頼る者の口から出るのです。その深みは、味わうに値します。聖書にこの書有るは、深くその意義を想う可きです。
二百十三
身体の疲労をとる為の休息は、何もせず眠る事に拠って実現します。しかし心の休息は何もしない事に拠っては得られません。自身の価値観に忠実に行動する事に拠ってしか得られないのです。そして心の休息を長く得られないと、心は病んで仕舞うのです。
此処から、自分の人生の条件を導き出すべきです。
二百十四
最早一軒も店が開いていない、真暗な市場を歩きました。高い天井、昔の看板、澱んだ動かない空気。黴臭い人気の無さ、何より人間の生きる活動から切り離された死んだ感じ。此処も昔は、私の子供の頃には人で溢れていたのでしょう。四十数年後にはこの様に成ると、誰が想像する事が出来たでしょう。
此処にも変わって仕舞ったものがあるのです。私は何も出来ませんでした。でも、それを悼み、惜しみます。その気持ちを捧げようとしない私であるならば、私は私を赦せません。それは本当の私ではないからです。
二百十五
葡萄の種子を植えました。十年近く経って初めて実を作った、家の野良生えの葡萄の種です。生命を繋ぐ手伝いです。植えても私の人生は、それがために特に変わらないでしょう。それでも植えます。
芽を出せ。咲け。
二百十六
一つの嫌な事を忘れる為には、忙しくしているに限ります。次から次へと期限の来る暮らしは、一つの事を深く深く想い味わう事を許しません。知っていますね。しかしこれを続けていると、次第に好きで且つ大切な事さえも深くじっくり考える事、想う事が出来なくなるのです。
私が警戒するのはこれです。人は絶対にそれが出来なくなってはいけません。
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