その三
二十五
『成長』とは何だろう。『苦しんだ事がある』以外のなにものでもないのではないかな。こんな事になってしまって、この先自分に未来なんかどう考えてもあり得ない、そう絶望してもなお生きた結果、自分の新しい追うに足る目標を見出し、再び希望をもって歩くようになった、その経験を幾つ重ねたかではないだろうかね。
二十六
子供の頃、父と二人で自転車に乗って走った道に喫茶店があり、子供の頃の私にはそれが何の為の店なのか判りませんでした。その店は今もあり、最近よく入る様になりました。懐かしい風景を今度は店の中から見ていますが、とても不思議な感じがします。懐かしい道を、父と子供の頃の私が走って来る様です。
今迄に私は何をしたでしょうか。残っているのは『何をしたか』ではなく、『どう生きたか』だけだと思います。
二十七
一歩一歩進みましょう。一歩は小さいけれど、その積み重ねが遠い目標に手を届かせます。大事なことを達成する経路は、全て各駅停車。特急はありません。あればそれは必ず誇大広告です。もどかしい、遅々として進まない道のりを、判断の正確さを失う焦りや、そもそもの意義を疑いたくなる不信と戦いながら、天竺の様に遠い目標を見据えて少しずつ接近して行く。次第に旅の過程そのものに意義を感じられる様になるまでに訓練されながら。
吾等夫婦は世の人々と違って、堂々と故意に、愚鈍でしかしそういう祝福のある道を進みましょう。
百九十九
休暇は過ぎて行きます。しかし想い出は消えません。そして吾等が積んだ時間も無くなりはしません。却って形あるものと違って壊れも無くなりもせず、ずっと失われないのです。自分の人生の或る時自分は間違い無く其処に居たのです。過ぎ去った時間も、切なる自分の願いと共に自分が在ったならば人生の道標として自分の歴史を証して、その後の自分を支えるのです。
二百
自分が今働いている職場や生活の圏内が世界の縮図と思うべきではありません。それは間違いです。自分が今生きている空間がそのまま世界の基本的な要素を具えていると見做してはなりません。世界は自分をあたたかく迎えてくれるか、違います。道具としてしか扱ってくれない事の方が多いでしょう。では、世界はそんな下らない人間で満ちているのか、違います。真に尊敬すべき倣うべき人は沢山生きて働いています。自分の見える範囲で獲得した材料で何らかの判断を下すには、材料が余りにも乏しく悲観するにも楽観するにも全く足らないからです。狭い狭いところだけ観て、世界を判断する事の無き様に。私が一度、そして永く陥った過ちです。
二百一
私が大学生の時、新潟の頚城鉄道跡を訪ねた帰り、直江津の駅から港の方角に向かって歩いた事があります。港町だけあって旅館なのでしょうか、三階建ての木造の大きな宿屋が連続している光景を見ました。皆一様に、異様に古く、腐食防止の為でしょうか真黒の板張で、正に私の夢の中の様な感じでした。
そんな所に行きたいです。人の生きた、生活のあった、長い歴史をもっている、そしてその前で私が存分にその土地の人間の願いや憧れや失望や涙を感じられる、今は淋しい場所に。
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