その二十九
千四百四十九
梅雨は疾うに過ぎ去り、一夏の暑さが地の全部を熱して止まずに久しい晩夏の疲れた感じが私は好きです。空気が熱く渇いていて、最早湿気は微塵も無い。人は日陰を求めて歩き、何処となく呆然とした表情をして幽鬼の如く力の無い足取りで歩いている。いい加減、もう暑さに疲れているのだろう。夕方の蜩の声迄まだ一寸ある。
でもそういう時にこそ、何かが見える様な気がする。遠い子供の頃の想い出だろうか、それとも未来の茫々たる正体の分からない何かか。しかし私にはそれが悪く、怖いものであるとはどうしても思えない。それは厳しいのに、不思議な安堵を齎す。まるで私に、考える事を一切やめよと命じている様な気さえする。私はそういう不思議な空間を愛する。それに身を委ねたいと思う。
千四百五十
自分の価値観をはっきりと外に示して生きると、二つの良い事があります。一つは自分と同じ或いは似た価値観の人を呼び寄せ、その人を励ます事が出来るという事、もう一つは明瞭で強い拒絶に拠り自分を不本意な方向に導かないという事です。前者も大事な事ですが、後者の拒絶、拒否に拠る自分の運命の開拓という点は見落とされがちだと思います。
誰でも明白に嫌なだけの事についてははっきりと拒絶するでしょう。しかし漠然とした感覚で、
「自分はそういう道に進まぬが良いのではないだろうか」
と逡巡しながら思っている事については、流されて仕舞う事があるのです。それが自分の生活に一定の便宜を供給してくれるものである事が予期出来る場合、特に危ういです。勿論、其処で正しい判断を下す為には日頃から落ち着いてよく考えておく事が必要なのですが、自分をそのまま出す言動を普段から取っている事で、そういう本心では望まない道に流されて行く事が無い環境が整えられるのではないでしょうか。
若しも運命を変える事が出来る要因があるとするならば、人間が操作出来る部分があるのならば、自分が普段から自分を存分に露出させる事だと私は思うのです。
千四百五十一
起承転結。現実の物語にそれがあると思いますか、無いと思いますか。どうした事か、私にはいつもあるのです。何故でしょうか。理由は簡単です。私が、事柄にそういう意味を後から付与しているからです。付与せずには居られないからです。これが起承転結が『実際に存在する』理由です。それは極めて主観的なのです。謂わば私個人にだけ、それは在るのです。
自分にだけ在る、それで十分です。抑々(そもそも)の初めから、私を動かしているものは客観的な真実などではありませんから。
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