その二十七
千四百四十一
最初から自然に具わっているもの。尊いですね。取って付けた様な安っぽい安直さや物事の権威を根本から奪い去る様な不自然さが無く、その人の人格そのものから湧き出だす純粋さがあります。しかし永い努力の末に具わる資質もあります。初め自分はそうではなかったのに或る時その事に気付いて、何度も出来ない出来ないを繰り返して、軈て出来る様になる。自分の成果と謂えるのは、こちらの方です。
しかし私は与えられたものをより尊しと見ます。最初から自分に具わっているものとは、与えられたものなのです。それは自分が知らないだけで、誰かが自分を愛して、自分が知らない間にそれをくれたのです。これは如何なる自分の努力も及ばないものです。其処には最初から愛が在るのです。これから自分の全てが始まる、それを可能にしてくれるものは自分の力で生み出せないと私は思うからです。自分で獲得するのは、また出来るでしょう。しかし愛され与えられたものは、一切代替がききません。それ自体がそのまま自分の命となるのです。
千四百四十二
土道、砂利の道を歩いていると、私は決まって自分の居る時代が遡り、随分昔を歩いている様な気がします。数十年前の人がその場所を歩いた感触、観た風景、それと今自分は同じものを味わっている、同じ世界に居ると。それは如何なる事なのでしょうか。私は何故そう思うのでしょうか。それは屹度私がいつも昔に住んでいるからでしょう。心が其処に在るからなのでしょう。
敢えて言いますが、そういう時、私は本当に幸福なのです。正に憂いを忘れて仕舞う、本当に忘れるのです。
千四百四十三
人の殆ど来ない道で喫茶店が開いている。昔はその辺りに家が沢山あったのだろうか。そして今は皆出て行って仕舞ったのだろうか。それとも斯んな人の来ない場所にわざと店を開いたのか。それが店主の計画だったのか。今、懐中に余分はあったか。万一多少高くても払えるだろうか。店主の年齢はどれ位か。出身はどの地方か。北海道だろうか。
そんな事を考えながら、私は知らない店に入ります。楽しくない訳がありません。さて、私が斯んな事を子供の様に楽しむ事が出来る根本的な理由とは、一体何でしょうか。私自身は、自分の一番大切なものが在ってそれが失われておらず、また自分がその事の為に具体的に努力をする事が出来ていて、更にその事を自分が知っている、自覚している事だと思うのです。それが崩れると、斯ういうささやかな私の愉しみは、皆影や霧の様に消え去って仕舞うのです。
千四百四十四
夕の休息は多くの人の愉しいと思うところでしょう。それを楽しみに一日を生きている人は多いと思います。私もその一人です。しかし朝の目覚めを楽しい嬉しいと思う事が出来る人は、これに比べてぐっと少なくなるのではないでしょうか。朝の目覚めを楽しいと思えるならば、その人の毎日はそれで健全だと謂いたくなります。
しかしよくよく考えるとそれさえも、人が在るべき生き方をしている事の徴であるとは謂えません。自分を全く育てない何かのゲームに酔っている時も、矢張朝の目覚め、一日の始まりは楽しいからです。私にもよく判らない上、斯様な事を言うのはあまり賢くないと思うのですが、自分の生き方の健全というものは、朝起きた時に誰かに或いは何かに感謝出来る、という事だけでしか分からないのではないかと思うのです。
ブログは毎日更新しています。
https://gaho.hatenadiary.com/




