その十四
八百二十八
私は精神科の医師ではありませんが、通常多くの人が感じている心労について、それを被らない、それに苦しめられない為に一番必要な事として、他人の眼や評価を気にしないという一事を挙げたいと思います。他人から如何に評価されるかが直ちに自分の生活の存続に致命的に影響する立場の人も多いでしょう。また、『そう思っている人』は多いでしょう。しかし生活のかたちは、自分の生きる指針に拠って変えて行くべきものです。必ずしも現状を死守する必要があるケースばかりではありません。犠牲を払ってでも、他人の眼を気にしない生き方を実現した方が幸福であると言いたくなる場合を、私は幾つか知っています。
本当に恐れるべきは他人からの評価ではなく、自分が自分の事を褒めてあげられない、そういう状態である事の方だと知るべきです。これは本当に、深刻な結果に至るものなのです。
八百二十九
終着駅というのは独特の雰囲気がありますね。レールが其処で終わっているというのは、単に鉄道がその先に行く事が出来ないというだけではなく、何か自分の進んで行く行程の限界という事を感じさせるのでしょう。それ以上先には行けない、行く必要が無い、だから此処で終わり。それは基本的に寂しさが横たわり、その上に不思議な感覚や落ち着いた気持ち、そして些かの疲労を感じる様な雰囲気だと思います。
その光景を自分の中に在る何かに例える。その例えるものをもっている人は幸いだと思います。
八百三十
人の隠された想い、殊にその悲しさに気が付く、それが見える人間である事が、私の思う人間の精神の成長には絶対に必要です。本当の意味に於いて成長とは、斯ういうものを知る事を謂うのだと思うのです。余の事は、畢竟何かの付属物、一つの属性に過ぎないではないでしょうか。
八百三十一
若しも一度でも、人と本当に繋がる事が出来たならば、人はその喜びを忘れる事はないものと私は想像します。そういう歓びは、時と共に段々と減衰し消費されて遂には消滅して仕舞うものではなく、日々自分の中にあって鼓動し、次のものを生み出して行きながら働くからです。その喜びを一度も体験していないと思うのであれば、私はそういう自覚の人に、まだ生きる事を勧めます。一度で可いので、それを知ってから、閉じるならば自分の命を閉じましょう、と。
八百三十二
自分には運が無いと思いますか。仮に、本当にそうだったとしましょう。しかしそれであっても、この後もそうだとは絶対に断定出来ません。それを断定出来る人は居ないからです。そしてそれを断定する時、人は例外無く冷静で静かにものを観る事が出来ていないのです。
でも、若しも本当に自分に運が無いというのであればそれでも可いではありませんか。人生を拓く動力は、運ではありません。圧倒的に、自分の情念の強さですから。
八百三十三
いつの頃からか、私の小さな頃から青年そして壮年に至る迄に父が私と一緒になって創ってくれた想い出を、私は非常に尊いと思う様になりました。父の生まれ故郷の京都に何度も連れて行ってくれた事、一緒に奈良に父の好きな書道の為の墨を買いに行った事、年に一回か精々二回だったけれど近所の安い鮨屋に連れて行ってくれた事、一緒に商店街に買い物に行った事、夏の朝に散歩に行った事など、今ではそれを宝石の様に尊い記憶として私は自分の心に残しています。これは失くす事も盗まれる事もありません。私が生きる限り私と共に在るのです。その事の有難い事、尊い事、私はいつしかそれに気が付きました。そして何か堪え難くつらいと感じる事があった時、これら父との想い出を想起して自分の心を励まし、支えにして来ました。本当に、騒ぎ立つ気持ちが鎮まるのです。親が子に、人間が人間に、示す事が出来る理性的で愛情に満ちた心情、思い遣りの現実が其処に込められているからでしょう。だから永遠にその生気生彩を失わないのでしょう。
斯くの如く、結局私は人から貰ったものに拠って支えられ、生きているのです。私が最後に頼るものは、自分が創り出したものではなく、私に一方的に与えられたものなのです。若しも私に一点の賞賛されるべきものがあるとすれば、それはその事を知っている事だけです。自分自身を支えている栄誉は、私にはありません。私はそれには、完璧に当て嵌まらないのです。
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