その十三
六百九十五
山陰本線。この名前だけでも淋しい。また幾らかでもその光景を知っている分だけ、余計に淋しい。地に足の着いていない、馬鹿馬鹿しくも無意味に浮かれている全く下らないもの、人間の生活に本当には必要で無いものが存在する事を許さない。その淋しさと厳しさが、私は迚も好きです。
私はいつも心静かに、半分眼を開けて、山陰本線に乗りたいです。
六百九十七
私は永い間、貧しく正直に生きた人を何人か知っています。私が手本としたい人は、斯ういう人ばかりです。その境遇が可哀想で同情されるべきものであるのに、それでも他人に対して本質的に善意をもつのです。羨み妬む事をしません。そういう人達が一人、また一人、この世を去って行きます。私は例えようも無く淋しい気がします。そういう人を新しく見付けたいものです。本当に。
六百九十九
私はあまり遠い未来の様を思い浮かべる事が出来ません。絵に出来ない何か漠とした光の様に想像するだけです。しかし、自分の身近にあり、自分がしなければならない事は、具体的に、明瞭に思い浮かべる事が出来ます。遥か遠くに在る大きな目当ては、私が毎日を自分の信念に従って生きて進んで行く間に、霧の中の道を行く様に、次第に見えて来るのだと思います。それで良いのです。
八百二十五
自分が必要とされる。一般的にいえば、これは喜びですね。少なくとも誰からも必要とされないより遥かに良い事です。しかしそのうち自分の何を必要とされているのかが分かって来るでしょう。自分の何らかの能力が必要とされる場合であっても、それでもそれは良い事ですね。仕事ならそれがその職場に於ける、自分のやり甲斐になりますから。しかしそれだと他人で代替が利きます。また何らかの事情で自分がその能力を失えば、最早役には立てません。捨てられます。これに対して自分の人格そのものを必要とされている場合は、代わりの人という訳には行きません。自分でないといけないのです。それが本当の意味での自分の存在意義であり、変わる事の無い自分の意味なのです。自分が居るだけで、他人に喜んでもらえる。私はこれを、『人間らしい関係を創る』という言葉で表現します。私の求めるものは、それです。家族でも、友人でも。それでなければ、要りません。
八百二十六
日常を離れる事、それが旅の基礎だと思っています。自分の一日の時刻表ががらりと変わり、日頃目にしないものを見、耳にしない話を聴く。肌で感じる風もその匂いも、いつもと違う。それでこそ旅でしょう。それは『気分転換』ではありません。自分がこの先生きる為に必要で欠くべからざるものを獲得しに出掛けているのです。その旅で見付けられなければ、軈てやって来る大切で重大なものを気付かずに見過ごして仕舞う、そんなものを見付けに行くのです。私にとって旅は、いつもの、日常の自分よりももっと真剣で真面目にならなければならない時間なのです。
八百二十七
最も赦せないものは、他者に深刻な迷惑や酷い損害を与えながら自分一個の利益を追い求めて恬としている人間でしょう。そしてそういう人間が、何ら罰されないという事でしょうね。私が最も自分の心を乱したのは、そういうものでした。
しかしこれは私の誤解でした。これは私が若い時私の眼が見えていなかった事の最たるものでした。『何ら罰されない』、違います。罰はその瞬間、即座に下っています。それも非常に大きく、深刻で取り返しのつかない罰が。それが人生の後半で全部、自分の身に返って来るのです。誰がそれに堪えられるでしょうか。それに堪えて平然としていられるでしょうか。無理です。その時に戦う相手は自分自身であり、おまけに自分自身が為して最早動かない事実となって仕舞って久しい出来事なのですから、絶対に勝てません。苦しむだけなのです。自分を支えるものを創る、そういう行いをしないと、苦しむのは本当に自分自身です。
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