獣人悪魔ナイトロス、咆哮す
――女が黒い霧と共に掻き消えた直後。
洞窟の奥から、地鳴りのような音が響いてきた。
「……まだ……控えていたのですか」
エルフィナは血に濡れた身体を震わせながら、視線を奥へと向けた。
ずしん、ずしん……。
二本の足で地を踏み鳴らす重い音。
やがて闇の中から姿を現したのは――。
サーベルタイガーのような巨大な頭部。
突き出した二本の長い牙が鈍い光を反射し、口からは唾液が滴り落ちる。
全身は筋肉に覆われ、二足で立ち上がるその体躯は、岩壁をも圧するほどの威圧感を放っていた。
「グゥオォォォォ……！！」
獰猛な咆哮が洞窟を震わせ、石壁から砂がぱらぱらと崩れ落ちる。
エルフィナは息を呑み、震える膝を必死に押さえつけて立ち向かった。
「……サーベルの獣……！」
その名を呼ぶ間もなく、獣人悪魔は大きな足を踏み出し、血に濡れた彼女へとにじり寄る。
理性のかけらもない、ただ本能のままに獲物を狩ろうとする捕食者の眼。
低く、荒い息と共に名が響いた。
「……ナイトロス……！」
それは名乗りというより、唸り声。
洞窟全体を揺るがすその音に、空気はさらに重く濁った。
エルフィナは血に濡れたドレスを翻し、必死に構えを取る。
「……まだ、試練があるというのですか……！」
奥底から迫るのは、理性を持たぬ圧倒的な暴力の化身――
獣人悪魔ナイトロス。
戦いの火蓋は、再び切って落とされようとしていた。
エルフィナは血に濡れた身体で、なおも毅然と立ち上がっていた。
目の前の怪物――サーベルタイガーの頭を持つ獣人悪魔ナイトロスから、決して視線を逸らさない。
「……シリア様！」
荒い息を吐きながら、彼女は檻の鍵を力強く握りしめ、投げ渡した。
「これを……受け取ってください！ 逃げてくださいまし！」
シリアは震える手で鍵を受け取り、瞳を大きく見開いた。
「エルフィナ様は！ そんな……もう、戦えるからだではありません！」
エルフィナは血に濡れた頬を上げ、必死に微笑んだ。
「大丈夫ですわ……まだまだ……わたくしには、力が残っています」
その言葉が強がりにすぎないことを、シリアは痛いほど理解していた。
エルフィナの身体は限界を超えている。それでも毅然と立ち続け、シリアを安心させるために笑みを浮かべる――。
シリアの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「エルフィナ様……どうしてそこまで……！」
「……早く！」
エルフィナは声を強め、今にも泣き出しそうな自分を必死に叱咤する。
「早く行ってくださいまし！ わたくしも……後を追いますから！」
「エルフィナ様……！」
シリアは鍵を強く握りしめ、涙に濡れた顔を伏せた。
エルフィナはさらに声を張り上げる。
「早く！ 早く行ってください！！」
その瞬間――。
「グオォォォォォッ！！」
獰猛な咆哮と共に、ナイトロスが巨体を揺らして突進してきた。
石床が砕け、地響きが洞窟全体を揺らす。
シリアは絶望に顔を歪めながらも、鍵を握りしめたまま後退る。
エルフィナは血まみれの体で、迫り来る影に向かい、再び構えを取った。
「……まだ……倒れるわけにはいきませんわ！！」
シリアは絶望に顔を歪めながらも、鍵を握りしめたまま後退った。
震える指先が檻の鉄格子を必死に探り、逃げ道を探そうとするが、視線は離れない――血に濡れた妹の背から。
エルフィナは全身を震わせながらも、なおも毅然と構えを崩さなかった。
「……まだ……まだ！倒れるわけには！」
次の瞬間。
ナイトロスの巨腕が唸りを上げ、振り下ろされる。
その瞬間――エルフィナには、すべてがゆっくりと見えていた。
迫る爪。立ち上がる砂煙。
その狭間で、彼女の胸に数々の想いが溢れ出す。
（……わたくしは、これで動けなくなるのでしょう。
アーシア様……あなたに会えて、本当に良かった。
ルイフェル様……わたくしは、恋のライバルになるまでには至りませんでしたけれど……どうかお二人で、幸せに。
ティナ＝カク……早く勇気を出して、ナリアさんに告白なさい。
メイ＝スケ……わたくしがいなくなっても、第一王女から第四王女まで……どうか支えてください。
みなさん……ありがとう。わたくしは……みなさんが大好きですわ）
――ズガァアアアーーンッ！！
轟音が洞窟に響き渡り、砂煙が爆ぜるように立ちこめた。
地鳴りのような振動に、檻の鉄格子さえガタガタと揺れる。
その刹那。
「エルフィナ様ぁぁぁぁぁーーー！！！」
シリアの悲痛な叫びが、洞窟全体を切り裂いた。
砂煙の中、何が起こったのか――まだ誰にも見えなかった。
つづく
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