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神の子への懺悔

作者: 名取能貫

 ピッツェリアの中は、午前十時前の柔らかな陽の光が外からうんと入ってきて真っ白な壁を照らしているおかげで、天井から下がっている照明の小ささに気づかないほど明るい。店舗そのものも間取りの狭さを感じさせないほど開放的で、簡素な安物のテーブルと椅子がかえって洒脱に見える。店内はどこもかしこも美味しそうなピッツァの匂いで充満している。腕の確かな職人のいるピザ専門店での少し遅めの朝食は、二十一世紀初頭の現代イタリアで最も素朴で贅沢な幸福の一つなのに違いない――アレッシア・ダスカニオは頼んだものが来るのを待ちながらそう感じ、思わずひとりでに笑っていた。

 目の前に座ってピザを待っていた息子アントニオが不思議そうな顔をしたので、彼女は彼アントニオへ笑顔を向けてごまかした。アントニオもあどけない顔に年頃の少年らしい熱々の笑顔を満面に浮かべて返した。近くにこんな良い店がある事に、今までどうして気が付かなかったのだろう? アレッシアは思った。

 髭を短く剃った店主が自ら皿を持って店の奥から出て来た。窯で見事に焼き上げられたばかりのピッツァ・アメリカーナは、モッツァレッラ・チーズの上に乗せられたフライドポテトとソーセージからそれはそれは良い匂いを漂わせていた。アントニオは鼻の穴を大きく広げてその芳香を胸いっぱいに吸い込みながら目を輝かせた。アレッシアの掛けているつるとフレームの細い眼鏡も、豊かな湯気でわずかに曇った。

「さあ、食べましょう」

 とアレッシアが言うより先に、アントニオはナイフとフォークでピッツァ・アメリカーナを切り分けて食べ始めた。彼女も一切れを手に取った。彼女は今日初めてジャガイモの乗ったピッツァを食べたのだが、これはこれで中々美味しいと感じた。息子と久しぶりにお出かけした日曜日だからかもしれない。もしも一人で食べるなら選ばなかっただろう種類のピッツァだった。

「どう?」

「最高だね、ママ」

 アントニオは満面の笑顔で笑った。それから彼はもう一切れをすぐ手に取って頬張りながら、最近学校であった事や友達の事についてをアレッシアに、思いつく先から全て聞かせてくれた。

 ピザで心身ともに満たされた後、二人は通りに出た。

「間に合うんでしょうね」これはアントニオの言葉で、アレッシアの口調を真似て言った。彼が母親から事あるごとに口を酸っぱくして刺され続けている釘なのだった。

「もちろんよ、トニーノ。ちゃんと時間を考えて出たんだもの。二十分前には着くはずだわ」

「僕はそんなの分かってるよ。僕はミサはちゃんと毎週行ってるもん」アントニオはむくれた。それから少し背伸びした風なのか遠い目をして、「お母さんとミサに行くの、久しぶりだなあ」

「お母さんも嬉しいわ、ようやく異動が決まったのよ。お母さんの部署が変わってお休みの日も水曜日と木曜日じゃなくなったから、これからはお休みの日はずうっとお母さんと一緒よ」

 アレッシアの声は自然とさらに弾んでいた。異動届を提出した時の事を思い出す。あの時の上司の顔といったら、終業時間より先に今の仕事を終わらせる事で頭がいっぱいだったのに違いないわ。こんなに返事に時間がかかるなんて。そもそもどうしてうちの会社は部署ごとに休みの日が違うのかしら。休日にも来客に対応しなきゃならない営業部や総務課ならともかく、どうして人事課まで水曜日・木曜日休みなの? 振替出勤を常用すると嫌な顔されるし! おかげで今までは、土曜日・日曜日に息子と一緒にいるために有給休暇を浪費しなくちゃいけなかった。でもこれからはそんな馬鹿な事をしなくて済む。ああ、財務課に異動が決まってよかった――そう思うたびに彼女は嘆息した。

「これからは教会にはお母さんと一緒に行きましょう。ちゃんと挨拶しなくちゃ。トニーノ、教会ではおとなしくしてるんでしょうね」

「うるさいなあ……気にしなくても良いよ」

 アントニオは鬱陶しげに言った。

 しばらく歩いているうちに、アスファルト舗装の通りの脇に石畳の道が折れているのが見えた。アントニオは退屈に歩き続けるのに飽きたとばかり駆け出して曲がっていった。アレッシアは慌てて追いかけた。火の玉のような元気の溢れる息子の青い健脚には中々追いつけなかった。

 折れた道の先は、色と石の大きさの違う石畳の広い通りに繋がっている。アレッシアは懐かしく感じた。アントニオ・ピサーニが生まれる前、彼女が夫パオロ・ピサーニと共に引っ越してきた頃には、ほとんど毎日のように目にしていたサルヴァトーレ・トッレグロッサ通り。特に日曜日は通らない週はほとんど無かった。このサルヴァトーレ・トッレグロッサ通りの先には、サン・ラッファエーレ教会へ伸びている道があるからだ。

 そしてもう片方は広場に繋がっている。この場所は実際には三本の道路が交差する六差路で、車がより円滑に曲がるために交差の中心を通らない短い数メートルほどのバイパスが隣へ差し渡された結果、上から見ると欠けた小さなクモの巣のように見える。

 その内の一角にある中洲のように孤立した中途半端な三角形の土地は、芝生の茂る公園として開かれていた。この通りには、イタリア北部の歴史ある町並みの一部として路面電車が今でも走り続けている。そうした事もあり、ここいら一帯では最も人通りの多い場所で、近頃では中州の芝生のあたりに時折キッチンカーか屋台が出る日があるようだ。

「ジェラートだ!」

 アントニオは指を指して叫んだ。今日は公園前にはジェラートの屋台が出ていた。

「こら、危ないわよ」

 アレッシアが制止するのも聞かずに、アントニオは道路を飛び出してジェラート屋台へ駆け出していった。そのまま彼はジェラート屋台の前にひとしきりかじりついた後、振り向いて、

「ねえ、食べていい?」

 と尋ねた。彼は浮かれているのだろう。久しぶりの親子での日曜日なのだ。少しくらい甘くしてあげてもいいか――アレッシアは財布のひもを緩める事にした。

「ええ、良いわよ。何にする?」

「ピスタッキオが良い!」

「おお、これはこれは! 久しぶりの顔ですな、奥様(シニョーラ)!」

 ジェラート屋台の親父が大仰に仰け反りながら額を叩いたのを見て、アレッシアはようやく気付いた。彼は家の近くに住む人の良い中年親父ルイージ・バッソ氏ではないか。仕事が忙しくなる前は、彼のホームパーティーには何度も誘われたものだった。久しぶりに顔を合わせた彼の豊かな頬ひげはまだまだ少しだけながら、とうとう白いものが混じり始めていた。彼女はお代を渡しながら、

「ご無沙汰してます。あの後すぐに夫が単身赴任で海外へ行ってしまい、あたしも部署異動があって……」

「あなたがパーティーに来なくなってからというもの、みんな寂しがってましたよ! 土日じゃなくて水木が休みの部署だなんて信じられません! しかしそうだったのですか。パオロの奴、まだ海外に?」

「いえ、夫はもうポルトガルからは戻って来たのですが……現地で張り切った反動なのでしょうか、体調を崩して入院をしてしまい……」

なんてこった(マンマ・ミーア)、そうだったのか……話の面白い奴だったから、また来てくれたら嬉しかったんだが」

 彼は心底残念そうな顔を浮かべた。

「でもこの前やっと、平日じゃなくて休日に休日らしい事が出来る部署に移れる事になりましたので、あたしはホームパーティーに出られますよ」

「おお、それは嬉しいですな。俺の方でも――」

「おじさん、いい加減ジェラート出しておくれよ」

「ああ、ごめんよ」

 アントニオに言われて彼はすぐに人の良い笑顔に戻り、手慣れた手つきでピスタッキオ入りのジェラートをすくってアントニオへ手渡した。

 アントニオはジェラートを一口食べ、「美味しい!」とアレッシアの方を向いて言った。

「トニーノは本当にピスタッキオ入りジェラートが好きよね」

「そうか、そいつは良かった! アントニオ、今度のパーティーにはぜひお母さんと一緒に来てくれよ!」

「うん! 今日はこれから、ママとミサに行くんだ」

「そうか、良いねえ――ミサだって?」バッソ氏は腕時計に目をやった。「そうか、もうそんな時間か。屋台はもう一旦閉めちまおう。久しぶりにアレッシアさんも参列するミサだ」

 というや、彼は早々に〈昼休憩中パウザ・プランツォ〉の看板を屋台の前に掲げてしまった。そのまま一時的店じまいの用意を始めた。

 アントニオはすでに舌鼓を打ち打ち、残りのジェラートを平らげてしまっていた。気の逸るのか、公園前から駆け出し、

「お母さん、早く行こうよ!」

 通りへと元気良く飛び出していった。

 手を振る彼の小さな体の向こうに、持続音を立てて等速直線運動で近づいて来る大きな角ばったものが見えた。その次の瞬間、通りを走行してきた路面電車が広場に突っ込んで来て、不注意にも線路軌道上に立っていたアントニオが気付いた時はすでにけたたましく鐘の音を打ち鳴らしながら大急ぎで大幅に減速をするところで、車体は辛うじてアントニオの目の前数メートルで止まった。路面電車は警鈴をさらに短く鳴らして軌道上から退くよう催促した。そこで驚いていたアントニオの体はようやくぎくりと反応した。運転室の中で運転士が呆れて両手を広げた。

 アレッシアはあわや轢かれるところだった息子に慌てて駆け寄った。

「何やってるの!」

 彼女は彼の手を力任せに引っ張り、軌道上から広場まで無理やり引きずり戻した。

「危ないじゃないの! 轢かれたら死んじゃってたわよ!」

「ごめん、ママ……」

「もう九歳なんだから落ち着きなさい!」アレッシアはしゃがんで彼の両肩を掴んだ。「どうしてそんな事をするの。あなた今すぐそばに路面電車が走って来てたのが分からなかったの? 周りを見なさい。危ないわよ! いつまであなたは子供なの! いっつもいっつも――」

 自分でも止められないほど、アレッシアは小言に熱が入りすぎた。愛する息子が死にかけたというその事実だけで、感情が亢進しきってしまっていた。普段ならこうはならないのだが、今日だけは愛する息子アントニオと一緒にいられるようになった喜びの強さが、反動でそのまま怒りに反転してしまっていた。

「あなたはずっとそう。お母さんの言う事を全然守ってくれないじゃないの。この前の事だってそうよ、お母さんが帰って来た時――」

「も、もうその辺にしてあげましょうって」

 ルイージ・バッソが口では柔らかく言いながらアレッシアをアントニオから引き剥がした。バッソが横から止めにかかってくれたおかげで、その場は収まった。アレッシアも感情的になっていたのが落ち着きを取り戻し始めた。

「ご……ごめんね、トニーノ……お母さん、心配し過ぎてひどい事言っちゃったわ」

 頭の冷えたアレッシアは慌てて眉を八の字にしてアントニオに謝った。しかし彼は母親と目を合わせずに不貞腐れたように頬を膨らませて黙っていた。路面電車はすでに走り去っていた。

 二人は来た通り戻って反対方向へ進み、脇から分かれる細い坂道を上った。この坂を行くと都市部から郊外へと離れていき、その先にあるのは小さな丘の上に立つ教会である。

 道を上るごとに尖塔とその屋根上の十字架から順に少しずつ、その慎ましくかつ伝統的荘厳さのあるレンガ造りの佇まいが見え始め、坂を上り切った時には教会前の芝生の広場で人々が話をしているのが見えた。穏やかそうな神父、痩せた中年女性、医者と思しき白衣の老人、スーツを着た紳士風の若者の後姿。

 しかし道中で二人は進んでお互いに話しかけようとはしなかった。先ほどまでの祝祭的な雰囲気は冷え込み、微妙なものへと変わっていた。空は先ほどまで青かったはずが、牛乳を刷毛では刷いたように薄雲で白み、日差しは鮮やかさを失っている。



 オルガンが静かに奏でられ始め、讃美歌が始まった。聖歌隊の歌声に従って参列者も歌い始めた。アレッシアもそれに混ざった。その讃美歌が終わった後、再び聖書を読む言葉がサン・ラッファエーレ教会の聖堂に響き渡りだした。『歴代誌下』第二章である。

「――〈彼はまたティルスの王フラムに使節を使わして、こう言わせた。『あなたは、父ダビデに協力を惜しまず、父の住まいとなる王宮の建築のためにレバノン杉を送ってくださいました。私はわが神なる主の御名のために神殿を建て、これを主のために聖別して、その御前に香草の香をたき、絶えずパンを供え、朝に夕に安息日と新月祭、我らの神なる主の祝祭日に、焼き尽くす献げ物をささげ〉――」

 この神父、ドン・ジュゼッペ・コッラディーニ司祭のいかにも穏やかそうな丸顔や優し気な垂れ目は、アレッシアの記憶と変わっていなかった。しいて言えば歳の流れが彼の顔のしわをより深く多くし、またウェーブがかった黒髪は量を減らしてはいないものの、いくらか白んで濃い灰色に変わっていた。

 アレッシアにとっては久しぶりのミサであった。一面白い壁や柱、温かな木の机や椅子、堂の中央に高々と掲げられた十字架に模られている磔刑のキリストの御身、コッラディーニ司祭や他の司祭達の、講壇の両脇に点されたロウソクに至るまで、教会の全てが感慨深かった。

 ただ、良い気持ちばかりではなかった。気になる事があった。アントニオは彼女の隣で四方八方の方を向いて見たり、ぼうっとしたりして、落ち着きなくしていた。コッラディーニ司祭が読み上げるのも、彼の耳にはあまりよく入っていないようだった。

「――〈従って、今、金、銀、青銅、鉄、シンクの織物、緋色の織物、青野織物を扱う熟練した者で、種々の彫刻にたけた者を〉――」

 アントニオとアレッシアの間には今、ぎくしゃくしたものが漂っていた。路面電車の一件が未だに尾を引いており、せっかくの家族のひと時の幸せさの裏返し。どこかの歯車が食い違ったまま分解・修理をする気を逸して針が振り子に合わせて動かなくなった古時計のようなぎこちない雰囲気が、二人の席の間にだけずっと漂っていた。静粛なるミサの間であったので、二人はこれ幸いとばかりにお互い黙って口を利かずにいた。しかしミサに入り込んでいるので私語を挟まないというわけではなかったので、アレッシアは息子の態度が気になって集中できなかったし、アントニオも母親に対する不貞腐れた感情ばかりをずっと意識している様子だった。コッラディーニ司祭の声だけは変わらず滔々と教会内に聞こえていた。

「――〈私の家臣をあなたの家臣と共に働かせ、大量の木材を準備させていただけないでしょうか。私は輝かしく威容を誇る神殿を立てようとしているのです〉――」

「『私の息子(﹅﹅)を働かせ、大量の宿題(﹅﹅)を準備させていただけないでしょうか』……」

 不意に、アントニオが隣の席にいて辛うじて聞こえるだろうというほどの小さな声で言った。コッラディーニ司祭の口調を真似ているが、明らかに母アレッシアを揶揄する調子だった。アレッシアは彼を黙殺した。すると彼はしばらく黙ってはいたものの、(もじ)りやすい文章が来るとまた、

「――〈『主はご自分の民を愛して、あなたをその王とされた』彼はまたこう言った。『天と地をお造りになったイスラエルの神なる主は讃えられますように。主はダビデ王に懸命で聡明な洞察力のある子をお与えになり、その子が主のために神殿を〉――」

「『主はお母さん(﹅﹅﹅﹅)に懸命で聡明な洞察力のある子を本当は(﹅﹅﹅)お与えになり』……」

「静かにしなさい……」

 さすがに今度はアレッシアは小声でアントニオをいさめた。今度は彼は不満げに首を回しながら、一応黙りはした。また、教会に聞こえるのは司祭の声だけになった。オルガンが鳴り、讃美歌があって、また聖書の別のところが読まれ始めた。

 ところが少しして、別の雑音が教会の外から混ざりだした。下卑た声でがなり立て、下品な声で笑い、とにかく何もかもに対して無神経で耳触りさのあるひどい調子で何かを話しているらしかった。内容は不明だった。どこかの移民の言葉らしい。どうも移民達は教会の前で周囲はおろか今自分達がいる場所も顧みず、馬鹿に大きな声を出してくっちゃべっているようなのだ。それが中まで聞こえてきていた。

 周りを考えない大声が教会の中まで漏れて来て、せっかくのコッラディーニ司祭の言葉を遮るせいで、アレッシアはミサに一層入り込めず、苛立ちが一層強まった。周りを見ると、周りの参列者達も全員感じている事は彼女と同じ様子で、時折眉をひそめて背後の扉の方を横目で見るのだった。見回していると、ルイージ・バッソも参列しているのが見えた。彼は誰よりも一番不満を露わにしており、腕組みの上で貧乏ゆすりまでして「うるせえんだよ……」と小声でつぶやいていた。コッラディーニ司祭はというと、神への贖罪の場は神の言葉によって守ろうというつもりのようで、聖書を読む声にわずかに力を込めていた。

「――〈ダンの娘を母とし、ティルスの男を父として生まれた彼は、〉――」

 それでも扉越しにくぐもって漏れ聞こえてくる移民達の馬鹿騒ぎは収まる事を知らなかった。

 と思われたのが、移民達の話し声が一瞬だけ深刻そうに止まる瞬間が訪れた。

 ミサの参列者達は思わず扉の方を見た。その直後にはまた扉の向こうから連中の声が聞こえてきた。その騒ぎの質は異様で深刻だった。

 アレッシアに聞き取れた範囲では、なにか戸惑うような言葉を数人が漏らした後、すぐに短い悲鳴のようなものが聞こえた。それから長い悲鳴が何人分も続いた。最後に残された一人がおそらく「助けてくれ」とでも言っているのか喚いている様子だった。それもすぐにまるで急速にその場から遠けられたかのように聞こえなくなった。その間ずっと、細長い物が先端で細かくぶつかり続けるような硬質で奇妙な音がずっと響き続けていた。

 教会中がその異質な物音を耳にし、何事かと背後の壁の向こうに意識を奪われている様子だった。若いアントニオには比較的はっきり聞こえていたらしく、彼は真後ろを向いて不安げな顔をしていた。しかしその事でミサを中断して駆けつけてやるには、扉越しだったせいであまりにも聞こえ方が小さく不明瞭だったため、何か大変な事が起きたとまでは誰も確信できなかった。そもそも連中がおかしな事でふざけて顔から上着までコーラまみれになっただけの悲鳴だったのかもしれなかったので、誰もそこまで本気にはせず、ようやく外は静かになり、これでゆっくりとミサに落ち着いて参加出来る事に内心胸を撫で下ろした者の方が多かった。

「――〈どんな彫刻も作り、ゆだねられればどんな計画でも立てる能力があり、〉――」

 また、教会内に落ち着きが取り戻されたように感じられた。少なくとも表面上はそうだった。しかしそれで不安を忘れたアントニオが再び母親への感情と揶揄を思い出してしまい、

「――〈そちらの熟練した者、かつての私の盟主、あなたの父ダビデの熟練した者に力添えをすることができます。お申し出のあった小麦、大麦、ぶどう酒、オリーブ油は私の家臣にお送りください。我々はあなたの必要とする〉――」

「僕は普段『おやつ買って』ってお申し出をしても送られてこないよね。お母さんはぶどう酒飲んでるのに」

「良い加減にしなさい」

「だって、ママはいっつもいっつもぐちぐちうるさいだけじゃんか!」

「ミサの途中で騒ぐんじゃありません!」

 アレッシアは思わず声を荒らげてしまった。騒ぎ出した二人に顔をしかめた教会中の参列者達が睨み、何人かは詰め寄ろうかともしていた。アレッシアとアントニオはすぐにそれに気が付いて、黙ってうつむいた。

 しかしドン・ジュゼッペ・コッラディーニ司祭は慈悲深く、親子を叩き出す事も詰る事もせず、聖堂が静かになるのを少し待ってから、何事も無かったかのように再びミサの続きに戻った。

「――〈ソロモンは、父ダビデが人口を調べたように、イスラエルの地にいる全ての寄留民の人口を調べたところ、〉――ええと……」

 ところがコッラディーニ司祭は急に、中途半端なところで聖書を読む言葉を途切れさせてしまった。彼は目線を怪訝そうに上げて聖堂の奥を見やった。ミサの進行が止まって不審がった参列者達も、その目線の先が気になって彼に倣った。アレッシアもそれに倣うと、教会の扉が無遠慮に開け放たれていた。

 扉の向こうに、アジア人の若い女が一人立っていた。ヨーロッパ人のアレッシアの目には子供にも大人にも見えた。気の抜けたように力無く立ち、腕も体もゆっくり揺らしながらのろのろと歩いて聖堂へ無遠慮に入ってきた。

 このアジア人の女子の着ているものは、かなり男物に近いスーツであった。彩度の低く黒よりの灰色に近い暗い茶色地の、スーツとしては非常に毛の長い起毛生地だった。それがで細長い女の腕や脚を包んでいるので、まるで毛深いタランチュラが二本足で歩いて現れたように見えた。

 ジャケットとスラックスは凝った珍品だが、それ以外はだらしなかった。ワイシャツは襟までよれよれで、糸のように細いネクタイは緩んでいる。ポケットチーフだけは律儀な直角二等辺三角形のワンピークにして差してはいるものの、それも前に倒れて折れ曲がってしまっていて失敗作の折紙のようだ。

 温暖なイタリアを歩くにはあまりにも暑苦しい恰好で、ミサの真っ最中に現れた女。教会の誰もがこの闖入者、ほとんど男装した少女を不審がった。

 コッラディーニ司祭は彼女と目を合わせるや、何を察知したのかは不明ながら、とにかくなんだかいやに緊張した面持ちになり、作り笑いを浮かべて平静を装った。

「何でしょうか、お嬢さん。ええと、あなたも神への贖罪のために――」

 コッラディーニ司祭は尋ねた。

 しかしスーツのアジア女は答えなかった。両腕が肩からだらしなく下がった、糸の切れたマリオネットのような格好のまま聖堂を歩き回っている。時折顔を上げ、首を伸ばして周囲を見回している。誰かを探しているみたいだわ。アレッシアは思った。知り合いを探してるなら、名前を呼ぶなりすればいいのに。

 眉をひそめて女の事を見ていると、不意にこちらの方を向いた。

 女は、アレッシアとアントニオの方を向いて目を見開き、固まった。

 まさか自分達に反応するとは。アレッシアは驚いた。しかしそれ以上にぞっとし、自分でも何故かは分からないが嫌な予感を覚えた。

 スーツの少女はゆらゆらと揺れながら、急に二人の席に近づいてきた。

「あのう、すみません」

 変に間延びした口調だ。それがアレッシアの背筋に障った。

「教会で蜘蛛を見ましたか?」

 彼女の言葉には抑揚はあれど強勢は無く、呪文か歌のような奇妙な訛りがあった。おそらくアジアのどこかの訛りであろうと彼女は思った。しかしつい先ほどまで扉の外で騒いでいた移民達の言葉の響きとは似ても似つかないような気がした。

「いえ、見ていないけれど……」

 アレッシアはどうして彼女がこのような事を尋ねて来るのか分からなかった。それも、わざわざ自分の方まで近寄ってきてまで。

 アジア女はアレッシアの顔をじっと見ていたが、すぐに興味を失ったように目線を下げた。アレッシアの隣で戸惑った顔を見せているアントニオに目線を合わせるようにしゃがむと、

「おいで……」

 女は起毛のスーツの腕を伸ばした。アントニオの手を引いて立たせようとした。 

 そのざらざらとした掠れた声に、アレッシアは言語化出来ない嫌なものを背筋で感じ取った。

「やめて!」

 とっさに彼女の手を手ひどく払い、二人の間に割り込むように中腰を浮かせた。

 その瞬間、視界を真っ黒なものが遮った。女がアレッシアの顔に手を被せ、眼鏡の上から目を覆ったのだ。眼鏡の細いフレームがとつるが音を立て、鼻当てが押しつぶされる。アレッシアは女の手をどけようとして彼女の起毛の袖を掴んだ。

 しかしその瞬間、急に頭が浮遊するような錯覚を覚え、直後に意識が遠のいた。

 どのぐらい経っただろう。

 次に感覚がはっきりとしだした時には、彼女は床の上に倒れ込んでいた。

 体中がだるい。頭はぼんやりし、鈍い痛みを覚えていた。まるで過労で就寝して眠りすぎた寝起きのようなひどい感覚だ。

 アレッシアはうめきながら目を開き、上体を起こした。

 聖堂は蜘蛛の巣まみれになっていた。壁は四隅や柱が白い蜘蛛の糸の塊で膨れ上がったようになっており、天井は蜘蛛の巣に覆われて真っ白で、そこから何本もの蜘蛛の糸が垂れさがり、屋根が溶け落ちて固まったかのように見える。

 長椅子には、ミサに参列していた他の参列者達は誰も座っていなかった。確かに向こうの席に座っていたはずのルイージ・バッソの姿も無かった。アレッシアだけが聖堂に一人取り残されていた。

 聖堂に一人、取り残されたまま我が目を疑って瞠目したまま硬直するアレッシアの顔を、燭台のロウソクの不安定な赤い灯が照らして反射を明滅させている。

 上から何か細かく低い音のトレモロが小さく響いたのを耳がわずかに捉えたように聞こえたので、アレッシアは天井の方を見上げた。天井には全面に蜘蛛の糸がかかっていた。左右の壁の上面全体にはめられていた窓ガラスの何枚か割れており、そこから暑い灰色の雲がかかって露骨に不吉な暗さになったひどい天気の空が覗いていた。一瞬だけ、窓枠の間から巨大な怪物蜘蛛の腹が見え、それはすぐに隠れて見えなくなった。



 アレッシアは唐突な事に理解が追いつかず、しばらくの間その場で茫然自失となっていた。

 はたと我に返った後、彼女は一体どうしたらいいだろうと考え始めた。すぐに妥当な行動を思い付いた。一旦聖堂の外に出よう。もしかしたら、他の参列者達はみんなすでに帰ってしまったのかもしれない。アレッシアは扉の方を振り返った。

 絶句した。聖堂から出るための唯一の扉にはより一層大量の蜘蛛の糸がへばり付けられ、扉の隙間も蝶番も粘着質な糸ですっかり固定されて、開かないようになっていた。

 すぐにアレッシアは鞄からスマートフォンを取り出した。外へ助けを呼ぶのだ。これは何かしら、呼ぶのは憲兵隊(カラビニエリ)? それとも蜘蛛の巣まみれって事は、()だから森林警備隊? 息子の捜索もしてほしいわけだから――アレッシアは適切な番号を叩いた。

 しかし二、三操作したが、

「『圏外』? 電話が出来ないわ」

 歴史が深い分壁の厚く作られた古い家屋も多く残っているという面もあって、都市部でも電波回線が安定しない事があるとはいえ、曲がりなりにもG7(先進七カ国)の一国であるイタリア共和国は、全国を電波が網羅している。特にサン・ラッファエーレ教会では、かつて信徒が急病で救急車を呼んだ事があったため、子羊達の尊い命の灯のために十分安定した回線を引いていたはずだった。それが突然電波が繋がらなくなったという事実は、すぐには信じられない事だった。

 アレッシアは思い切って、スマートフォンを手斧よろしく逆手に握りしめ、聖堂から出るための大扉を封じている糸の塊に向かって思いっきり振り下ろした。しかし彼女のスマートフォンは全く糸を引き裂くには至らず、むしろ扉に引っ付いて取れなくなってしまった。

「取れない」彼女は悪態をついた。「これじゃあ開けられない――っていうか、扉に触れないわ」

 出られない。お御堂に閉じ込められてしまった。

 おお神よ。一体どうして。アレッシアはこの窮状に、心の中で苦々しく叫んだ。

 なんとしても教会から出る方法を考えなくてはいけなかった。もちろんアントニオも連れてだ。今はこの聖堂から出るための大扉は開けられない。

 そもそも、まず開ける手段が彼女には無かった。一応、講壇の上の燭台の一本を手に取って、そのロウソクの小さな炎で蜘蛛の糸を溶かせないかどうか試してはみたものの、結局焼け石に水だった。大扉の蜘蛛の巣に火を当てている時、向こうから蜘蛛の足音が何度か聞こえた。仮にもしもこのまま出られたとしても、外へ一歩出た途端に蜘蛛の待ち伏せに遭って捕まっては意味が無いのだ。

 香部屋へ続く小さな木の扉に掛かった蜘蛛の糸は、大扉のものよりは細く、またそこまで丈夫そうな物でもなさそうだった。アレッシアは希望を込めてロウソクの小さな炎の先を糸に近づけてみると、糸は触れた先から瞬く間に切れていき、面白いように溶けていった。

 扉の向こうの香部屋も、聖堂ほどではなかったが、天井、壁、色々なところから色々なところへ蜘蛛の糸が伸びて絡まっていた。壁の一面のキャビネットから中の祭服がこぼれ、床の上にはロウソク消しが倒れ、香炉や筆記用具が落ちている。教区簿冊(きょうくぼさつ)も糸まみれになっていた。

 アレッシアは何の気なしに手に取ってぺらぺらと少しだけ中身を見た。この教会で執り行われた洗礼、堅信式、婚姻についてが記録されていた。葬儀・埋葬についても。この教会には小さいながらも墓地はある。当然教義通りの土葬が大原則だ。なのにどうして火葬のページがあるのか、アレッシアは不思議に思った。土葬のページと比べて、火葬ページ数は非常に少なかった。もっとも新しい記録では、チェーザレ・マッティアーノという男の死体が処理されたとあった。しかしその下には奇妙な文言が添えられていた。〈情報保護状態――懸念無し〉〈遺体処理状態――済〉〈割り当て個体――火葬のため無し〉。弔った故人に関する走り書きとしては、あまり似つかわしくない。ともあれアレッシアは教区簿冊を閉じた。

 床の真ん中に、きらきらと光るものがあった。最初は何か分からなかったので近づいてみると、それは安物のガスライターだった。備品か神殿関係者の私物なのかは不明だが、とにかくそれは今のアレッシアには僥倖だった。蜘蛛の糸を溶かしながら進むのにライターは最適だ。

 香部屋の奥にも扉があった。アレッシアが手を掛けるとそれは開いた。奥は短い渡り廊下になっていた。渡り廊下の窓ガラスから、外が見えた。外を見ると今にも雨が降りそうなほど黒い雲がかかっていて、昼にも関わらずかなり外が暗かった。

 渡り廊下の遠くに何か黒い陰が動いたような気がして、アレッシアは息を止めてその場で立ち止まった。それは人の姿をしていた。どうも具合の悪い病人のような歩き方をしていて、まるで腹も両足も炎症を起こしているかのようにぎこちなかった。黒いキャソックを着ていて、後ろ姿が見えただけだが、

 ――コッラディーニ司祭だわ……。

 確かにそのように見えた。考えるよりも先に彼女の足が動き、彼の姿を追いかけて香部屋から渡り廊下へ出ていた。

 渡り廊下が繋がっていたのは、妙に庶民的な空間であった。一歩入ると目に入って来たのは、部屋の広さや形、間取りの並びといい、ごく普通の住宅のそれそのものであった。小ぶりながら品の良い照明は質素で、それが設置されている白い漆喰壁には素朴さがある。廊下には重厚な額に収められた、修養を連想させる品格ある筆致で模写された、カラヴァッジョの複製画が何枚もかかっている。この家庭じみた区画に足を踏み入れたアレッシアは、

 ――誰かの家……いや、ここは司祭館なんだわ。それが聖堂と繋がっているのね。

 思い当って合点がいった。よく考えてみれば当然の事で、教会の敷地内で生活するなどという事は、司祭館――神職の宿舎に相当する居住施設、そこで身過ぎをする教区ごとの神父の他には、せいぜい勝手に教会に入り込んだ路上生活者センツァカーサくらいしか無いのだ。

 司祭館には人影は見つからず、物音もしなかった。見る限りではここでの暮らしぶりや生活水準は、神に魂を捧げ清貧を是とする身分とはいえ居宅も家徒四壁かとしへきというわけではないようで、イタリアの一般家庭とそこまで大きくは変わらないようにアレッシアには思えた。居間にはソファ。食事室にはカトラリー。台所には(あか)の鍋。物置には箒。暖炉もあるが火は起こされていなかった。この()では薪と一緒に燃え差しとして新聞紙も使うようで、脇の木箱の中にも古新聞が少し溜めてあった。

 しかしここもひどい有様で、蜘蛛に荒らされており壁や梁やランプシェード、目につくところは全て蜘蛛の巣がかかっており、まるでいつだか前にアントニオと一緒に何かのアメリカ映画のDVDを見た時のハロウィーンの日の一シーンのようだった。

 しかし目の前のこれは全て飾りつけではない。本物なのだ。

 今のアレッシアには、つい先ほどの黒い濁流の惨劇の後ではどれだけ身構えても足りないような気がしてならなかった。殺人蜘蛛の這い回り隠れ忍んでいる今の教会を、これ以上丸腰では歩き回り続けられず、ライターを握り締める手が震えていた。

 床に落ちた物や割れた破片を避け、蜘蛛の巣をライターで溶かしながら爪先立ちで慎重に歩いていく。そのうちにアレッシアは無用に静かに行動するようになっていた。静寂の中、司祭館の中の物音が、わずかなものでも聞こえだした。どこか別の部屋の壁、上の階の床から、何かが小さく細かく連打する音が時折聞こえてくる。そしてその(さざ)れ打ちする音はしばしば、壁や天井を這って動いていた。その足音の主に聞きつけられまいとすると、一層アレッシアは物音を立てられなかった。

 軋む大きな音が突如響いた。耳を澄ませると今度は神経を使う必要も無いほど明瞭に人の足音だと分かった。部屋の外の様子をそっとうかがうと、廊下に相変わらず妙に不安定な様子のコッラディーニ司祭の姿が見えた。当人は今にも倒れそうなほど弱っているものの、足が勝手に動いて辛うじて歩いているという風で、よろよろと階段に足をかけていた。司祭はそのまま二階へ上がって行った。

 アレッシアは彼を追って二階の階段を上った。司祭はもたれかかるように扉を開けてある一室へと入っていった。

 アレッシアはドアノブに手を掛け、そっと扉を開けた。この時彼女は入室の挨拶をしながら入ろうかと思ったが、結局声が出なかった。

 部屋の中は暗く、ほこりっぽかった。本棚に一台だけあり、ラテン語の辞書が収められている。肘掛け椅子のそばの書き物机にはスタンドライト。教区司祭の私室だろう。突然オレンジ色の電球色がアレッシアの目に入った。書き物机の上のスタンドライトがひとりでに点いていた。

「あの……」

 弱々しい声がした。見ると、書き物机の陰に隠れるように縮こまって座り込んでいるのは、コッラディーニ司祭だった。隠れたままスタンドライトにこっそり手を伸ばして点けたらしいが、照らされているその手の肌の色は青ざめ、顔色も彩度を失っていた。彼が体力を著しく消耗し、命の灯も消えかかっているのは明らかだった。

「コッラディーニ司祭!」

 アレッシアは彼へ駆け寄り、目線を合わせてしゃがんだ。

 司祭はどれだけ自らの生命が脅かされていても、アレッシアの手を握って丁寧にあいさつをする事を忘れなかった。

「ダスカニオ夫人、おお、お久しぶりですね……あなたがまた、教会に顔を出して下さって、私は嬉しく思いますよ。アントニオ君もよく教会に来てくれて、あなたの事を話していましたよ……」

 司祭は顔に人の好さそうな笑顔を浮かべてはいるものの、近くで見る彼の顔は肉体的・精神的に追い詰められている者特有の、手の色とは正反対の深刻な赤らみや脂汗に支配されており、息も浅く少し激しかった。アレッシアは尋ねた。

「一体何があったんですか?」

「私はもう駄目です、いけません。自分の事は自分で分かります。私よりも、あなたが無事でいる方がずっと良い……」

 司祭は青息吐息で答えた。アレッシアは首を横に振った。

「そんな事を言わないで下さい。一体何があったんですか?」

「どうか、ここから逃げてください、ダスカニオ夫人」

 彼は頑なにそう訴え、彼女の質問には答えなかった。

「そうしたいのですが、出入り口が閉じられていて聖堂から出られないのです。見たところ窓ガラスも空きませんし」

 司祭は突然目を見開き、彼女の手を強く握り締めた。その異様さと握りつぶされた手の痛みでアレッシアは顔を歪めた。

「窓から外に出てはいけません! おお、なんという事でしょう……どうにかして、玄関から外に出るのです。それ以外のところから出てはいけません。人通りの多いところへ脱出するのです。人目に付かないところから逃げようとしたら、かえって思う壺です」

 彼は窓の外の方を見やって指を指しながら言った。アレッシアは目の色が少し変わった。その様子は明らかに、張り巡らされた蜘蛛の巣を今日見ているうちに気付いたというよりは、あらかじめ知識として具体的によく知っていたという風な口ぶりだったからだ。

「何かが我々を見張っているんですか? この、教会が蜘蛛の巣まみれになっているのと関係が?」

 アレッシアは思ったままの事を尋ねた。すると司祭は途端に目を充血させ、怯えに様々な感情の混ざった表情で丸顔に豊かな頬の肉を憐れに引きつらせて悲痛に叫んだ。

「あれは悪魔です。そうです、悪魔のようなものですとも!」

「悪魔? 一体何の話でしょう? あたしが倒れている間に、一体何があったんです?」

 すると今度は死期を悟ったように急に落ち着きはらい、

「よろしい、ダスカニオ夫人。このジュゼッペ・コッラディーニ、神より賜ったこの命の最後の一滴を、私の知りうる限りの全て、今日までこの教会であった事の最初から最後までをあなたに余すところなくご説明するのに費やしましょう。私は自分の命の事は自分が一番分かっていると思っております。もう私の未来は残されておりません、破滅を待つのみです。ええ、分かっているのです。あの恐ろしい蜘蛛共――この教会中を這い回り、聖堂から司祭館から、何から何まで全てを蜘蛛の糸まみれにして、石造りの蜘蛛の巣に作り替えてしまった悪魔共が、私を破滅へ導いているのです。そして私はもう、その最後の一押しを待つばかり。願わくば、この教会で今日神の言葉を共に反芻していらっしゃった私以外の全員がその毒牙、いえ鋏角に掛かる巻き添えを被らない事を祈るばかりです。

 あなたが彼女に眠らされた後――あのアジア人の少女の事です、いささか男物らしすぎるスーツを着た――あの後、彼女は私にもあの事を尋ねました。あなたが尋ねられたのと同じく『教会の中で蜘蛛を見ましたか?』と。私はあくまでもミサという聖なる集まりの進行を務めるものとしての態度を崩す事は出来ず、『お嬢さんは、先ほど外でおしゃべりをしていた方ですか? あまり教会の入り口のそばに立たれますと、信者の迷惑になります』というような事を言いました。ほら、ミサの途中で外から移民達のひどい馬鹿笑いが漏れて聞こえて来たのをお覚えでしょう。私は彼女があれらの一員ではないと本当は分かっていました――訛りが全然違いましたから。ですがわざとあれに触れて人違いで注意して、ちょっと彼女にはミサが終わるまで外へ出ていてもらおうと私は考えたのです。しかしそんな迂遠な考えもあえなくかわされまして、それどころか彼女は、蜘蛛が出てきていないかどうか強く確かめてきました。見ていないと答えると――彼女はその時私を見ていませんでした。露骨にうんざりした顔を浮かべて、私の足元辺りを指さしていました。と言っても私の前にはあのニスの良く効いた飴色の木材で出来た講壇がありましたから、私は白いテーブルクロスに手をついて身を乗り出し、首を飴細工のように前へ伸ばしてどうにか講壇の裾をのぞき見ました。

 その木目に紛れるように細いものと丸いものの輪郭が確かに動いていました。紛れもなく甲殻の黒々とした、体長三センチメートル以上はあるであろう、街中で見るには大きな蜘蛛が、講壇に逆さまに張り付いて肢を伸ばし、床に降りようとしているところでした。蜘蛛は一匹だけではありませんでした。そのそばにも別の小さな蜘蛛がいました。最前列の参列者がそれに気が付いて口を押えて小さな悲鳴を上げました。

 その直後、私の着ているキャソックが何か小さなものにつつかれるような感覚を覚え、私は上体を講壇の後ろに引っ張り上げ戻し、今度は自分の脚を見返しました。思わずたたらを踏みました。私のキャソックに、蜘蛛が這い上ってきているのです! 何匹も何匹も這い上ってきていました。まるでビーフジャーキーめがけて一目散の犬のように、私の体めがけて五匹六匹、十匹十一匹の蜘蛛が、まず初めに右足から膝あたりの高さまで駆け上って来ました。すぐに左足も蜘蛛によじ登られて、二十匹以上か、もう私には何匹の蜘蛛に取り付かれたか分かりませんでした。ある種の薬物の禁断症状で見る幻覚がこのような悍ましい光景だ、と何かで読みましたが、現実の方が恐ろしいものです。大人げないとお笑いになるかもしれませんが、私は思わず身をよじって絶叫しました。その時私は崩して転倒してしまいました。床はすでにお互い重なり合いながら無暗に肢を動かして這い回る蜘蛛の群れの水たまりが出来ておりました。体勢を崩した私の体はその中へ転落しました。倒れた私の体中にすぐにあの蜘蛛共が足先をかけてよじ登り、すぐに踏破して私を地面代わりにしだしました。何匹かは私の……私の両脚を噛みました。ええ、そのまま蜘蛛の群れの中に飲まれたのです。

 私が倒れた後の事は、申し訳ありません、良く見る事が出来ませんでした。顔中を蜘蛛の肢に鷲掴みにされて、目をろくに開けていられなかったのです。講壇の後ろで倒れたせいで、信徒席の方も良く見えませんでした。しかしいくらかの事はしかとこの目で見ていました。信徒席の皆様が絶叫し、恐怖に震えて立ち上がった時、蜘蛛の大量の群れの波が床はおろか講壇の上まで何匹も登ってきて、立ててあったマイクの先にまで到達し、講壇上のロウソクのそばを除いたほとんどを支配してしまっていました。その後ろの壁も下から上へ黒い物で少しずつ塗りつぶされ、ついに広い壁の下半分を染め上げてしまいました。

 どこかから湧き出るように現れた無数の蜘蛛達は、たちまちその水域を広げて源泉と思しき講壇の周りを黒々とした甲殻の波の中へ水没させ、なおも長い肢の波を成して床の上に広がり始めました。蜘蛛共は不快を極める濁流となって今度は信徒席へとその漆黒の支配領域を広げ始めたので、聖堂の前側に着いていた人達はたちまち飛び上がるように席を立ち、何人もが叫びながら主廊に飛び出そうとし、あるいは席の低い背もたれを乗り越えて、我先にとばかり聖堂の後方へ避難し始めました。ところが聖堂の後ろには、例のあのスーツのアジア人女性が出口を塞ぐように立っていましたから、誰も逃げ出すに逃げ出せないように感じて立ち尽くしていました。

 私が目線を上へ移したのはその時です。聖堂の前の壁に掛けてあった十字架のキリスト像の木造の爪先に蜘蛛の鉤爪が到達し、そのまま蜘蛛数匹がその引き伸ばした人の指のような長い不気味な肢を像の彫られた膝、胸板、鼻筋に次々引っ掛けて、キリスト像は蜘蛛の群れの中に飲み込まれていきました。この時私はすでに余りの事に声も無かったのですが、再び喉が裂けんばかり叫び出したくなりました。しかし結局その口も私の顔の上を歩く蜘蛛のせいで開きませんでした。黒い群れの波はもはや聖堂の最前面を覆い尽くし、すでにとうとう天井までもがタールで塗ったように黒く染まり始めていまして、聖堂前端の床一面にびっしりと密集して蠢き続ける無数の蜘蛛の体の上に、さらに大量の蜘蛛が重なって乗り上がり、黒い湖面が沸騰したように群れが激しく流動していました。

 それからの事は、私にもほとんど分かりません。私の体はとっくのとうに蜘蛛の群れの足場にされて久しく、蜘蛛の無数の体に押しつぶされそうになっていて、顔全体だってほとんど覆い尽くされていましたから、ほとんど何も見えなかったのです。辛うじて見えたのは、ただ、それと同期して、個体の見分けもつかないほど集まって、壁や床が漆黒になっていた範囲が、途端に白み始めました。きっとどいつもこいつも腹から糸を噴き出したのです。数えきれないほどの蜘蛛が硬質な肢を床や壁や天板に突き立てて歩き回るがさごそという音が教会全体で響き渡るようになった時、天井からいくつもの何か大きな物が、ゆっくりと吊り下がって来た事だけは覚えています。そうです。おそらくあなた以外の参列者の方々は、全員あの蜘蛛に連れ去られてしまったのでしょう。あなただけは、近くに例のアジア人が立っていたので、彼女の獲物だと思われたので無事だったのではないでしょうか。私には分かりません。ええ、息子さんもきっと同様です。絵理(えり)さんはあなたを毒で眠らせた後、息子さんを連れて行ったのです。

 絵理さんというのは――はい、あの男物のスーツのアジア人の少女の事です。隠岐(おき)絵理といって、日本人です。ええ、最期の懺悔をしましょう、私は彼女の事をよく知っていました。以前から彼女の事は話だけですが知っておりましたし、電子メールで何度か直接指示を受けた事もあります。ただ、直接会った事は無く、今日が初めてでした。確かに『一目で分かる、蜘蛛らしい格好』かもしれませんが……彼女ですか? 彼女は、あの恐ろしい蜘蛛を育てている――何と申しましょう、当人も歯切れが悪いのですが、まあ、連中の関係者である事は間違いないでしょう。連中がどうしてあんな身の毛もよだつような、神様のお造りになったものの形と動きからかけ離れた怪物を育て増やしているかは分かりません。彼らは決してその事だけは私に明かしませんでした。何より私が聞きたくありません。あの組織は頭領あたまも幹部もイタリア生まれイタリア育ちのイタリア人達らしいのですが、本拠地は外国にあるらしく、彼らはそこで何か恐ろしい事を決めた後、イタリアのどこか、不気味なほど寂れたどこぞの廃村に片足を突っ込みそうな僻地に建っているとかいう恐ろしい研究所のようなところが動き出し、品種改良やその他想像するだけでも吐き気のするような手段であの蜘蛛共を思い通りに作り替え、それを繁殖させているとの事です。あの絵理という女性が組織でどういう立場なのかは分かりません。

 私は何も知らされませんでした。彼らにとって私は、何本も外へ伸びる細い蜘蛛の糸の一本でしかなかったのでしょう。私が彼らから委託されたのは、最初はとても些細な事で、蜘蛛を育てるための餌となる小虫を捕まえるか買うかして送る事でした。しかしすぐに別の事を指示されました。ある日、妙な目をした男が教会を訪れました。どんな用かと思って会ってみると男は段ボール箱を持っており、郵便では遅くて不確実だというので送られてきた運び屋でした。男は誰にも見られない場所で箱を開けろと強く言いました。開けてみると――申し訳ありません、その、口にすれば私の口が汚れてしまうような恐ろしい物がその中身でした、とだけ申し上げておきましょう。ご想像にお任せいたします。彼らからの指示は、それの処分でした。宗教施設なら普段の仕事と同じようにそれを処理できるはずだ、という事だったのです。中身は元々例の研究所におり、それが実験の過程で使い物にならなくなったから送られてきたそうでした。私は断れませんでした。死んだ実験体の後処理さえすれば、教会に多額の寄付が約束されるのです。教会とて組織ですから、献金無しには回りません。一度教会運営の足しにしてしまった以上、私はその蜘蛛の巣から抜け出せなかったのです。この前もマッティアーノという方が――ああ、いけません。ヴェントゥーリ副教区司祭には本当に申し訳ない事を……。

 彼らがそこまでして育て増やしていた蜘蛛がどのようなものか、アレッシアさんは知っていなくてはなりません。あれは悪魔です! あの蜘蛛は悪魔のようなものなのです。

 悪魔が人を惑わせるように、蜘蛛は獲物を絡めて捕らえます。悪魔は人に憑りつきます。そして人を善き方から離れるように動きを操り、最終的にはその顔かたちや体つきまでを醜く変えてしまいます……本来ならば我々聖職者がそれを払わなくてはなりません。人々の魂が悪魔に魅入られないための教会です。しかしその蜘蛛は今この教会を足場として頼り――申し訳ありません、少し落ち着かなければなりません。はあ、はあ……。

 自然界の自然な蜘蛛達は、枝葉の間に網を張り、あるいはそうせずに餌を探して徘徊する種もいるでしょうが、とにかく大体は他の虫を捕えて食べます。しかし今この教会へ出てきた蜘蛛共は、虫ごときでは腹が満たされる事はありません。特に大きなものになればなるほど、より大きな獲物を貪ります。犬猫のような大きな生き物、あるいはそれ以上の動物――我々人間ですよ。あれは人間を自らの物として見ているのです。

 しかしあの蜘蛛共がどのように餌を手に入れるかを知って恐れて欲しいわけではありません。そこではありません。彼らがどこに巣穴を作るかなのです。今どき土が剥き出しの場所などなかなかありませんし、巨体が何百匹も住める巣穴を作れるような広さの場所などまず確保できません。それに家の中では、床は固くて巣穴は掘れません。より柔らかい塊になら、恐ろしくも彼らは牙を突き立てますが――さすがに彼らも石造りの家には敵いません。

 では彼らの巣穴はどこか? 人間大の蜘蛛が餌を引きずり込めるような場所は? 一つしかありません、地下室です。地面の下にもとからある穴です。もっと言えば、蜘蛛共は今、人間の建物全体を巣として使っているのです。そこら中蜘蛛の巣だらけですが、これらは全ていわば巣穴の壁の裏打ちとして張られているものなのです。

 いえ、この教会に地下室はありません。さらに隣です。この司祭館から見て、教会の聖堂と反対側に、教区センターがありますでしょう。コミュニティの信徒が集うための地域に開かれた場。定期的な教区の活動の他、地域の会議・集会にも使われていますが――二十年ほど前、時代に合わせた機能と設備のために建て替えられた時、図書室を作る予定でかなり広い空間が増設されたものと聞いています。事務所にそのような記録が残っていました。結局図書室は作られず……今は、その、教区センターの設備としては使われてはいません。彼らから送られてきた管理用のノートパソコンやら通信妨害装置――これはもちろん違法ですよ――そういった物ばかりの場所になっていますよ。かなり広い空間ですから、蜘蛛がさらった人々は最終的にはその地下室に連れ込まれるとしか思えません。

 いえ、アントニオ君はまだ地下階の図書室跡には連れ込まれてはいないはずです。今ならまだ大丈夫。絵理さんは何か外科手術的な処置をするために教区センターの地下を借りたいと連絡してきていました。ものの三十分でそんな大仰な作業の準備が整ったとは思えません。さっさと連れ帰ってしまいなさい、手術が始まる前に。アントニオ君もきっとそこの教区センターにいるでしょうが、きっとまだホールかどこかで一人でコーラでも飲まされている事でしょう。あるいは蜘蛛の糸でぐるぐる巻きです――ライターを拾った? 素晴らしい、それがあれば糸を切れます! 服は少々焦げてしまうでしょうが、大した事ではありません。早く、早く行きなさい……私は神の御心に背きました……教区司祭としてあるまじき行為を……この小さな教会の運営のために、悪魔の果実に手を出したのです……私はなんて事を……それでも、それでも自分で勝手に取り出すべきではなかった、抑えられなくなった……何もかも私のせいだ……私は地獄に落ちる。死んだ後もこの教会の墓地に埋葬してもらえるかどうかも分からない。だが本当に落ちるべき者共がいる……蜘蛛共が、蜘蛛共が……私自身が蜘蛛のそれ(﹅﹅)になったのだ……アレッシアさん、どうか、蜘蛛共の青い目にだけは気を付けてください。あれは人ならざる化け物にされてしまうのです。絶対に見られない事です。見つかってはいけません。絶対に、駄目です、駄目だ、ああ、駄目だ――駄目だ、駄目だ、駄目だ――」

 司祭が血走った目で、掠れる声をさらに枯らした。

 直後、彼は体を居心地悪そうに揺すり始めたかと思うと、突然興奮し始め、急に両方の足首、次いですぐに脚全体を激しくばたつかせ始めた。彼は何かに急かされるように書き物机に手をついて体を辛うじて支えながら立ち上がった。彼の両足はあまりにも激しく震えていて、最初のうちは立ったままでいるのを保てないほどだった。しかし今度は彼は常軌を逸しているほど極端に両足を伸ばして体を一直線にして直立姿勢を取ったかと思うと、すぐに何かに突き動かされたように絶叫しながら走り出した。その狂乱のまま扉を撥ね飛ばすように乱暴に開け、言葉にもならない事を喚きながら部屋を出て行ってしまった。


 二階から一階に降りると、すぐそばの物置脇に勝手口があり、そこから司祭館の庭へ出られる。そのさらに奥に、入って来た時とはまた別の短い渡り廊下があった。司祭館に繋がる渡り廊下はどちらも割り当てられた教区司祭専用の通用路らしい事にアレッシアはようやく気付いた。普段は聖堂ないし教区センターの壁に、それと見分けがつかないほどそっくりそのままな扉で仕切られ、しかもその扉は極めて分厚くて頑丈なのだ。それが内向きに開け放たれていたので、壁に張るような現代的幾何学模様の壁紙が扉に張られているのが見えたので、その事に気が付けたのだ。開けたのはきっとコッラディーニ司祭であろう。人間らしい機微を持ち合わせていなさそうなあの絵理という尻の青い女を出迎えるために。

 聖堂の伝統的な建築様式とは対照的に、教区センターは現代的で開放的だった。板張りと石材を組み合わせた床に白すぎない壁、ところどころにコンクリートの柱。現代人の信徒が休日に集まって穏やかに過ごすのには中々良さそうな場所である。文化複合施設の側面があるようで、壁の慎ましい案内板には演劇ホールやバーなどがここにはある事が示されていた。

 今までの場所とは異なり、教区センターは蜘蛛の巣に侵されてはいなかった。というよりも、通る機会の多くなりそうな場所だけが人の動線に沿ってよく掃除されていた。ホールは蜘蛛の糸らしいものは見当たらず、壁にはモップやらが立てかけられ、待合の出来る椅子やの上には松明やバーナーや水入りバケツが置きっぱなしになっていた。それ以外の場所が本当にひどいもので、壁や天井はおろか床まで糸だらけになっていて、糸はあらゆる場所をふさいでいて廊下にも出られなければ二階にも上げれなさそうな有様だった。地下室へ繋がっているらしい扉の周りは糸が払いのけられて綺麗にされていたものの、ここはそもそも鍵がかかっていた。

 歩いているとすぐに教区センターのエントランスホールに行き当たった。アレッシアはその時何かが聞こえた気がした。はっきりとはしなかったが、人間の衣擦(きぬず)れに近かった。小さな希望の芽をを感じ取りながら、しかしながらやはりまだ恐々と音のした方へ足を向けた。

 そこは喫茶店(バール)だった。教区センターに足繁く通う信徒達はここで軽食を取りながら朝から晩まで談笑するものだ。立ち飲みの出来る短めのカウンターがある以外はほとんど広い廊下に近いような場所だが、そのカウンターの上にも奥にも十分すぎる量の酒やジュースの瓶が置かれている。

 今度ははっきりと、がさごそという硬い物を物色するような音が聞こえた。カウンターの中からだった。アレッシアはおっかなびっくりカウンターに身を乗り出して奥を覗き込んだ。

「トニーノ!」

 そこには、めちゃくちゃに散乱した何かの箱や梱包材の山に埋もれるようにして、座り込んでいるアントニオの姿が見えた。

「ママ!」

 彼は床の上に直接置いたレモンジュースの瓶とコップを持ってよたよたと立ち上がった。声に疲労と寂しさと少しの怯えの混じった、何とも言えない頼りないものが混じっていた。

「こんなところにいたのね、探したわ」

 アレッシアはもはや泣きそうになりながら、カウンター越しに抱擁した。彼もまだ顔色は悪いものの抱擁し返してくれた。それこそ彼女がずっと待ち望んでいたものだった。万感とはこの事だった。

 彼は手のレモンジュースをカウンターの上に置き、いささかびくつきながらカウンターの外の様子、天井や奥の壁を落ち着き無く確かめてた後、引きこもっていたカウンターの中から恐る恐る出てきた。

「今、あの蜘蛛出て来てない?」

「大丈夫よ、見当たらないわ」

「お母さんは大丈夫?」

 その言葉の意味を言葉通り解釈したアレッシアは、

「大丈夫よ。あなたこそ怖くなかった?」

「……怖かったような、怖くなかったような」とアントニオは妙に複雑な顔をした。

 その表情の真意は理解しかねた。

 しかし確実なのは彼を恐ろしい目に合わせてしまったという事だった。愛する息子。世界で一人しかいない、神より祝福と共に授かった太陽よりも明るいこの世の光。それを守るには強靭な心が必要だった。いかなる障害の前でも忍耐強くあり、理性を保ち、知性を発揮し、無垢な可能性の塊にとって最も安心できる存在でなければならなかった。それが今、彼はつい先ほどまでTシャツを蜘蛛の糸まみれにした上から、その糸の粘着性で付着した埃で全身をみすぼらしく汚して、一人怪物蜘蛛の巣の中で身を縮めて怯えていたのだ。本来は彼女が彼を守らなくてはならなかった。

 そんな彼に対して、その場の感情をそのままぶつけて怒鳴って叱るなど、賢い母親のする事ではない。本能のまま振舞い――

「怖がらせる事で言う事を聞かせるのが子育てなら、そんなの蜘蛛と同じよね」

「何の話?」

「ごめんなさい、ごめんなさいトニーノ」彼を再び、今度はしっかと強かに抱き寄せ、鼻をすすって声を絞り出した。「お母さん、謝らないといけないわ。広場での事……あんな風に怒って、ごめんなさい。仕事が忙しくてあなたとの時間がなかなかうまく作れなくて、ここのところずっと苛々してたのよ。パパも帰ってこれないからその分のお仕事もママがしなくちゃだし――」

「分かった、分かった。仲直りだね」アントニオは彼女の謝罪をいやに忙しなく遮った。「今はその話は良いから」

 彼はアレッシアの手を引っ張ると、無理やりカウンターの中に引きずり込んだ。床に散らばる雑多なもののうち、段ボール箱を手に取り、

「ママ、これを被って。身を隠さなきゃ」

「今、いないわよ。さあ、早いところ逃げなきゃ――」

「駄目だよ! あれが見えないの?」

 彼はカウンターの陰から向こうの窓を指差した。アレッシアも何が何だかわからないものの、彼の異様に切迫した様子から何か緊急なものを感じ取ったので、とにかく彼に従ってカウンターの中でしゃがんで身を隠し、外の様子をうかがった。

 窓の外は教区センター入口のちょっとした広場で、ベンチのある軒下だった。ベンチに手をついて辛うじて立ち、がくがくと不自然に膝を笑わせているのは、コッラディーニ司祭だった。遠くて顔はよく見えないが、もはや心ここにあらずと言った様子で、意識があるかどうかも知れなかった。その尋常でない様子を見下ろしているものがあった。庇の上から起毛のスーツ姿が頭を下にしてぶら下がっていた。

「僕をここまで連れてきたのはあの絵理っていう日本人の女の人だよ。背の高い部下達と一緒に僕を担ぎ上げて、最初は二階の事務室に閉じ込めたんだよ。逃げたら殺すって言われて。どうせ蜘蛛だらけで出られないけどって。二階の窓から、外が見えたよ。その辺一帯が蜘蛛だらけだった。行列を成して糸の上を歩いてた。巣の真ん中に何人かが捕まってて、ずっと騒いでた。何言ってるかは分かんなかった。多分移民だよ。そいつらの一人が身をよじると、その振動で周りの蜘蛛が一斉に反応してさ。一番最初にそいつの上におぶさった一匹が腹の先を執拗に突き立てられてたよ。それを見た他の蜘蛛達は途端に興味を失って、別の移民に飛び掛かった。あいつら全員、今頃もう人の形してないんじゃないかな……。

 僕を二階に押し込めてる間にここのホールを掃除したらしくって、一階に降りて来させられた時には蜘蛛の巣が無くなってた。絵理は『準備が出来るまでこの辺でしばらく待ってろ』って言った。しばらくしたら地下室に連れて行くって言ってた。そこで蜘蛛が繁殖してて、巣穴みたいになってるから、計画って奴が狂う前に元に戻すんだって。バッソおじさんもそっちに連れて行かれちゃってて、あいつらに使われる(﹅﹅﹅﹅)前に取り上げたんだって。僕はもう使われちゃってた(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)から、それを取り出す処置をして、駄目そうならあいつらの拠点まで僕は連れていかれるみたい。

 ああ、まだ知らないんだ。ねえ、どうしてお母さんだけ無事だったと思う? どうして蜘蛛はお母さんを襲わなかったと思う? さっきの移民の話さ。蜘蛛は群れの仲間同士で獲物の奪い合いをしないんだよ。そばに別の奴がいたから、蜘蛛はお母さんがもう別の奴の捕まえた獲物だと思って襲わなかったんだ。あの絵理って日本人だよ。あいつも蜘蛛からしたら身内なんだ! あいつも蜘蛛なんだよ! 人間だって? そうだよ。そうだけどそうじゃないんだ! 蜘蛛は人間を変えちゃうんだよ! あれは悪魔だよ!

 絵理の奴、言ってたよ。蜘蛛は半分ぐらいは造網性だけど、この蜘蛛は巣穴を掘ってその中で卵を産むんだ。でも建物の壁や床じゃ硬すぎるんだ。もっと柔らかいところに巣穴を掘るんだよ。子蜘蛛の餌がいつでも手に入る場所に。そんなの一か所しかないだろ? そしてあの蜘蛛達は自分達もその巣穴(﹅﹅)に潜り込んで、子蜘蛛が孵化するまでの間宿主が死なないように、宿主の体の一部になって操るんだよ!」

 彼が絶叫したその時、窓の外でも苦悶のうめき声が聞こえだした。コッラディーニ司祭は今やベンチの上で膝立ちの恰好でがたがたと震えていた。絵理が庇の上から冷淡に見つめる中、彼は苦痛に耐えかねて物凄まじい声を挙げた。背筋を限界まで仰け反らせたせいで体勢を崩し、彼はベンチの上で倒れた。にもかかわらず彼の両脚は、本人の意思とは無関係に震えていた。絵理が体のどこかから糸を噴き出し、本物の蜘蛛のようにそれを伝って天井から降りてきて、彼の襟首を掴んで異様な怪力で持ち上げた。彼女の手で空中に宙ぶらりんに吊るされた司祭の脚はなおも忙しなくひとりでに揺れ動いていた。そしてとうとうその動きは大きくなり、ついに彼の両脚はまずふくらはぎのところから破裂した。次いで腿のあらゆるところが破裂し、彼の体内で孵化した子蜘蛛達が外に出てきた。それを確認した絵理は口や手のひらから鋏角を伸ばして麻酔毒を彼の体に刺すと、司祭の体はそれっきりぴくりとも動かなくなった。絵理は背中や腕や脚から長い蜘蛛の脚を生やし、司祭の死体を抱えてどこかへ消えていった。

引用元:旧約聖書のうちの一篇『歴代誌下』(著者はエズラであるといわれている)、日本聖書協会『聖書 新共同訳』(翻訳者多数)より

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