第一章 グッドタイミング (8)
自宅マンションの目の前の、細い路地で、タクシーは停車した。料金を支払い、私はタクシーを降りてそそくさとエントランスホールへ駆け込んだ。自宅でファンに待ち伏せられた経験は今のところないが、それでも気がかりは気がかりである。私の場合タレント事務所などに所属しているわけでもないので、自分の身は自分で守らねばならない。
エレベーターで四階まで上がる。実はこのときが一番緊張する瞬間である。大した防犯設備もないマンションなのだから、もし私の家の住所を知っているのなら、賊はすでに四階まで上がっているはず。四階でドアが開いた瞬間に襲われてしまったらどうしよう。
やがて、四階につく。薄明かりの灯った回廊は本日も例外なくひっそりとしており、私は安堵の息をはいた。「ローカルラジオのパーソナリティ無勢が大物を気どるな」と罵られてしまいそうだが、怖いものは仕方がない。
いつものように、なんだか申し訳ない気持ちになりながら、私は玄関の鍵を開錠しようとした。すると――。
「あれ?」
鍵がすでに開いている。もしやと思いながら、私はノブをひねった。案の定、玄関先に見慣れたスニーカーが脱ぎ捨てられている。
「はあ?」と私は眉間にしわを寄せた。
「鍵を閉めろって、いつも言ってんのに。あいつはなんでこう、だらしがなくて……」
ぶつぶつと文句を言いながら、浮き足立っている自分にも気づく。まさか、ラジオ終わりに拓人と会えるなどとは、考えてもいなかったからである。
拓人は彼の家の近所の服飾通販事業所で、週六日毎日十時間ほどがっつり働いている。彼にとって休日前の土曜の夜こそ最も心が昂るひとときなのだろうが、あいにく土曜の夜は私が仕事なので、毎週職場の仲間と飲み歩いているらしい。酒が好きなくせに酒に弱い彼は、愛する恋人がパーソナリティをしているラジオのことも忘れ、この時間は自宅でいつも酔いつぶれているのだ。
だから、土曜の夜に私の家を訪ねてくるということは、ないわけでもないが非常に珍しい。そんなものの存在すら知らなかった自動販売機の当たりくじに当たって、もう一本サービスしてもらったときのような気持ちである。
頭痛もすっかり治まってしまった。リビングのソファに着ていたコートをかぶせ、私はうきうき気分で寝室へ飛び込んだ。
寝室は暗かったが、ベッドに男が横たわっているというのはすぐに見てとれた。どうやら、うつ伏せのようである。シングルベッドを我がもの顔で占領するその男の腰付近に、私はストンピングを見舞ってやった。
「う、うーん」
ベッドから不快そうな呻き声が上がったところで、私は寝室の明かりを点けた。
「ああ、お帰り」身体を反転させ、私の顔を認めたところで、拓人は言った。
「寒かったでしょ。まあ、入りなさい、入りなさい。暖めておいたから」
トレードマークともいえる細い目を更に細め、自らを覆っている布団を指し示す。
「私のベッドだし」
ぶしつけに言いつつも、私は拓人の隣に潜り込んだ。
ああ、暖かい。冷えきっていた身体が瞬時に温まっていく。緊張していた心が解きほぐされていく。それらの快感を身に沁み込ませるように、私はあくびと背伸びを同時にした。
「あのさあ」身体を拓人のほうへ向ける。
「私の留守中に部屋にきたときは、鍵を閉めておいてくれないかな。何度も、何度も、何度も、何度も言ってることだけど」
「ああ、すっかり忘れてた」
拓人は無邪気に微笑んだ。その台詞も、何度も聞いている。
「あと、うちにくるときはあらかじめメールとかしてほしいな。特に私が留守の場合。急に人がいたらびびっちゃうでしょ?」
「それにしても、長山くん懐かしいなあ」拓人は私の言葉を完全無視した。
「しっかり覚えてるよ。あのときみんな笑ってたけど、俺はこっそり秋実が可哀想だなって思ってたんだよ。本当だよ」
「そりゃあ、どうも」私は頬を膨らませた。
「珍しいじゃん。ラジオ聞いてたんだ」
私が長山くんに仕返しをされたときのことをラジオで話しているのを聞いて、その話を蒸し返したに違いなかった。
「うん、聞いた。愛しのアッキーがお仕事頑張ってんのに、俺だけ眠るなんて、とてもじゃないけどできないよ」
「そりゃあ、どうも」
とまた気のない返事をしたとき、拓人のはく息がまるで酒臭くないのに気がついた。まあ彼はここまでバイクに乗ってくるのでそれは至って健全であるが、土曜の夜だというのにどうしたのだろう。
「ああ。酒やめたの、俺」
私の心を見透かしたかのように、拓人は答えを明かした。
「へえ、なんでまた急に」
「いや、節制よ。節制」拓人が私の頭に腕を回した。彼は上半身裸であった。
「俺さ、酒も煙草もやるじゃん。健康に気を使わなきゃってのもあるけど、いかんせん金が足りないんだよ。ぼちぼち貯金とかも考えたほうがいいでしょ? 秋実と旅行とかいきたいしね。国内がいい? 海外がいい?」
丸坊主の頭をぼりぼりとかきながら、拓人は饒舌に話した。
「旅行? そんなのいったこともないじゃん」
鼻先に、拓人のやや色の濃い肌が当たる。汗の匂いに混じり、風呂に入ったばかりなのだろうか、薄らとボディソープの甘い香りが残っている。その香りと自分の吐息を交わらせながら、私はぼんやりと考えていた。
いったい、何ごとだろう。拓人は稼ぎが多いとはいえないが、実家暮らしなのだから、それなりに余裕はあるはずだ。お酒をやめて貯金だなんて、まとまったお金が早急に必要なのだろうか。
ひょっとして、結婚費用だったりして。
なくはない話だろう。むしろ、あって当然の話だ。私と拓人はもう十一年も交際しているのだから、ぼちぼち結婚の二文字が脳裏にかすめだすのは定石である。
しかし、拓人からそんな話を持ちだしてくるなど、まったく想像がつかない。
この男は本当に恋愛沙汰に奥手な奴で、思えば交際を始めたときも、初キッスのときも、なんて言葉を濁そうか初の無制限一本勝負のときも、全部全部私が先導してきたのである。「せめて結婚の話ぐらいは、彼の口から聞きたいな」という願望はあるも、彼が相手ではあきらめもついてしまうのだから、また悲しい。
だから、期待しないで、もうしばらく待ってみようと思う。まだ二十五なのだし、焦る時期でもないはずだ。
「小学生のときの秋実は本当に可愛かったな。お人形さんのように可愛いって言い方、あのときの秋実のためにあるようなもんだよ」
「やたらと〈小学生のとき〉を強調するね」
拓人は私に覆いかぶさるようにしてベッドの枕もとに置いたライトスタンドに手を伸ばした。かと思いきや、その付近に置かれた煙草の箱を手にとったのであった。
「煙草、やめたんじゃないの?」
「酒だけ。煙草優先でしょ」
大人のつき合いには欠かせない酒を優先させたほうがいいのではと思う。喫煙者ではない私には、理解不能なだけかもしれなかった。
「いや、本当に可愛かったんだよ。俺のおふくろも、よく言ってたな。あの子、将来美人になるわよって」
煙草に火を点けながら、拓人は話を戻した。
「なのに、私に投票しなかったんだね」
「ん? 投票?」一瞬きょとんとした顔を見せる拓人だったが、すぐに私の言わんとすることを理解したようだ。
「ああ、あれね。だってあのとき俺、他に好きな子がいたんだもん」
「私はちゃんと拓人に投票したのに」
「それ、たまたまじゃん」拓人は笑った。
「ラジオでもさ。地味な奴に投票したとか言ってて、俺吹きだしそうになっちゃった」
開票のときのことを思いだす。自分に謎の一票が投じられたのを受けた小学五年生の拓人が、喜ぶでも戸惑うでもなく、無表情で窓の外を眺めていたのをおぼろげに覚えている。
「きっとあのときから、心の奥底では拓人と結ばれるような気がしてたんだろうな」
「嘘つけ」
ええ。言わずもがな、まったくの嘘ですとも。
五年生のとき、初めて一緒のクラスになった拓人とは、小学生時代一度も会話すらしていないような気がする。先述のとおり地味な男子で、私に突っかかることもなかったため、その印象は極端に薄かった。あのままの関係だったら、現在ではとっくに疎遠だったであろう。
で、あのままの関係で終わらなかったのだから、運命とはことごとく不思議なものである。「心の奥底で拓人と結ばれるような気がしていた」というのも、あながち嘘ってだけじゃ片づけられないかもしれない。
「でも、やっぱ今の秋実が一番だわ」
「ふーん」
「昔は昔で可愛かったけどね」
「…………」
「昔の秋実がお人形さんなら、今の秋実はお姫さまかな」
「無理に、褒めなくてもいいし」
「本当に。彼氏として鼻高々って感じ」
「そう……?」
「……秋実?」
なんだか急激に眠気が増してしまった。
ああ、だけどまだ眠るわけにはいかない。拓人に、二人の話をラジオでする件を話しておかねば。いや、そんなことは明日でもいいのだけれど、ちゃんとパジャマに着替えなければ。いやいや、それよりも、メイクを落とさなければ。
拓人が起き上がり、再び明かりを消した。それから、包み込むように私を抱いた。もう私には声を発する気力も残っていなかった。
ああ、暖かい。気持ちいい。ホッとする。こんなに快適な空間なら、誰だって睡魔に勝てやしないさ。神さまも、メイクを落とさずに眠ることをよしとしてくれそうな気がする。
ふむふむ、仕方がない。今日だけはお肌の老化に〈待った〉をかけておいてやろう。
うーん、ありがとうございます。神さま――。
第一章 グッドタイミング 完