第四章 抗争 (3)
「ど、ど、ど、どうしたの?」
三ヶ月ぶりの対面を懐かしむ余裕もなく、私はうろたえて拓人に指をつきつけた。
「いや、本山さんのようすがおかしかったから……」
「さっき、私が新藤くんのおうちに電話したのよ」お母さんが割って入ってきた。
「あんたがいつまでも帰ってこないから、新藤くんと一緒なのかもしれないと思って」
私は押し黙ってしまった。数秒間の気まずい沈黙が流れる。それを打ち破ってくれたのは拓人だった。
「本山さんが無事でよかったです」彼は母に会釈しながら、こちらへ歩いてきた。
「もう遅いので今日は帰ります。お休みなさい」
それから、私にも「じゃあね」と別れの挨拶をする。靴をはき、たたきの上でつま先をとんとんとする彼の姿を見つめながら、私はなんだかやりきれない思いに駆られた。
その因果は不明であるが、ここで拓人を帰してしまったら、もう二度と彼と通じ合えないような、そんな気がしていた。
「ちょっと」
「ん?」
拓人は振り向く。
大きく深呼吸をしてから、私は続けた。
「泊まっていきなよ。もう遅いから」
「え?」
拓人の細長い目が、くわっと見開かれた。
「こら、こら」お母さんが笑いながら言った。でも、目は笑っていない。
「何、おかしなこと言ってるの。あんたたち、まだ高校生でしょうが」
その言い分に、私はむっとする。年齢がどうとか、そういう問題ではないのだ。
「泊まらなくてもいいから、私の部屋で少し話をしよう?」
「こら!」お母さんが寄ってきて、私の側頭部をぺしんと軽く叩いた。今度は笑っていない。
「新藤くんだって、あんまり遅くなるわけにはいかないんだから」
「いえ」拓人がやっと口を開いた。
「僕は大丈夫です。少しだけでいいから、二人で話をさせてくださいませんか?」
私は緊張した。一瞬だけ私に向いた拓人の視線が、やけに冷たく感じられたからだ。
お母さんは戸惑いの表情を浮かべる。お父さんがいるリビングをちらっと見やり、それから私たちの顔を順に見比べる。私たちは申し合わせたように、二人とも真剣な目つきをしていた。
「あんまり遅くなっちゃ駄目だからね」
拓人の手を引っ張って自分の部屋に入った私は、まず扇風機をドアの前に置いた。ドアに鍵はついていないが、内開きなため、これで外からは開けられない。ここで私たちが殺されたなら、謎が謎呼ぶ密室殺人である。
「本山さん、何やってんの?」
苦笑しながら話す拓人を、ベッドに着席させる。その隣に私も座った。
しんとした部屋にまた、なんとも微妙な空気が流れる。
拓人はティーシャツにハーフパンツという出で立ちだった。髪が伸びた気配はなく、あれからも何度か床屋へいったのかもしれない。
一方の私は浴衣姿のまま。浴衣さえ脱ぎ捨てれば、あっという間に下着姿になれる。そう意識すると、顔を赤らめずにはいられなかった。
「本山さん?」
「ん?」
私たちは顔を見合わせたが、しかし、どちらからともなくさっさと目をそらした。
なんという気まずさだろう。前に会ったときも気まずさは感じたが、そのときとは少し種類が違うような気がする。今回はその成分に、何か不穏なものが混じっている。
「一つ訊きたいんだけど、いい?」
「いいけど」
「本山さんってさ」少し間を置き、拓人は言った。
「ひょっとして、俺と別れたがってる?」
私はどきっとした。電話ではそのような気配は見られなかったが、やはり拓人も不審に思っていたのか。
それも無理はない。実際、私は拓人と別れるのを前提に、この三ヶ月を過ごしてきたのだろう。だが、言うまでもなく、今はそうじゃない。
「ううん」と私はかぶりを振った。
「そんなことないよ」
「じゃあ、なんで俺の誘いを断るんだよ」
私は押し黙っていた。「誘うのが遅過ぎなんだよ!」と反論してもよかったが、いかんせんこちらには彼への罪悪感があった。おっぱいの罪悪感が。
「正直に言ってほしいな。俺、ここ最近まともに眠ることだってできないんだ。どんだけ俺を悩ませれば気が済むんだよ」
だんだんと腹が立ってくる。私だって拓人にどれだけ悩まされたか。
「なあ、なんで黙ってるんだ?」
もう謝るのはやめた。おっぱいの罪悪感は、別の方法で晴らしてやる。
私は無言で立ち上がり、部屋の明かりを消した。拓人が「へ?」と素っ頓狂な声を上げる。
「ねえ、ベッドで横になってて」
「え? だって……」
「早く! 時間ないんだから」
拓人は渋々とベッドに上がった。落ちつきなく私に目配せをしながら、ゆっくりと身体を横たわらせる。
「あっち向いててね」
私は拓人に背を向け、増幅する呼吸を一旦整えてから、一気に浴衣を脱いだ。それから流れような動作でブラジャーを外し、パンティも下ろす。これで、一糸まとわぬ姿である。
だいぶ汗をかいていたようだ。空気に晒された身体がひんやりとする。そして、なんだか不思議な感覚も覚える。熱いような、かゆいような。お風呂に入るときは何も感じないのに。
男の子の前で裸になるというのは、やっぱり特別なことなのだろう。もし拓人が私の言いつけを破ってこっちを向いていたらと考えると、顔から火をふいてしまいそうになる。
「ね、ねえ。本山さん、まさか、脱いでるの?」
「まだだよ」
「いや、俺、心の準備が……」
振り返って拓人を見た。彼は言いつけを守っていた。それどころか身体を丸めるようにして目をふさいでくれている。それでも私が何をやっているのかは、想像がつくらしい。「泊まっていきなよ」なんて言ったのだから、当然か。
ただ、彼は少し誤解している。いくら私だって、今ここで無制限一本勝負を申し込む度胸なんてない。今日はあくまで練習試合なのだ。
窓の外から、断続的なノイズが聞こえてくるのに気がついた。いつの間にか、小雨が降りだしている。その雨音が妙に艶かしく感じられ、私は引き寄せられるように窓辺へ歩いた。庭に立つ木を雨が揺らすのを見て、雨が降るたびに今夜のことを思いだすのだろうなと思った。
そのとき、とんとんとドアがノックされる。私はびくっとその場で飛び上がった。。
「もうすぐ十二時よ。早く帰しなさい」
「分かってるよ! すぐ終わるから!」
私は素っ裸のまま、ベッドの上でぐしゃぐしゃになった夏用のかけ布団を手にとった。そしてそれをマントのように背中からかぶって、拓人の隣に横になった。布団が私と拓人を、すっぽり覆い隠した。
拓人との距離は、わずか一センチ。もう、後戻りはできない距離だ。
「いいよ。こっち向いて」
「は、裸なの?」
「早く!」
拓人はようやく、こちらに身体を向き直した。彼は強張った表情で私をじっと見つめていた。口もとには、はにかむような笑みが浮かんでいる。恥ずかしいのはこっちである。
「いや、急にそんな……」
私は精一杯色っぽい表情をし、「好きにしていいよ」と言ってやった。
拓人は閉口し、一転して真剣な顔つきとなった。息づかいも荒くなっている。それに呼応するように、私の心拍数も上がる。二人の鼓動が、少し強くなった雨音に溶けた。。
「じゃあ、抱きしめてもいい?」
おっぱいを触らせる気でいた私にしてみれば、拍子抜けするほどお安い御用だ。私は目をつむり、ずりっとベッドの上を前に移動した。拓人の身体と、ほとんど密着してしまっている。
「どうぞ」と口にしかけたが、私は躊躇する。だし抜けに気づいてしまったからだ。
あれ、もしかして私って汗臭いんじゃないの?
くんくんと首筋あたりをかいでみる。やはり、少々すっぱい香りが――。
「あ、やっぱり……」
拒もうとした矢先、拓人の右腕が背中に回った。私は「うっ」と声をもらし、拓人の身体に吸い寄せられた。
「どうしたの?」
「いや……」
……な、なんだこれ。
すごく気持ちいい。拓人の口、ちょっと臭いけど。私も臭いかもしんないけど。ひどく暑苦しいけど。おっぱいがぐにゅうって潰れちゃってるけど。自分だけ裸で恥ずかしいけど。なんかもう、そんなのどうでもよくなってくる。
私は拓人にキスをした。拓人もキスを返してくれた。それから頬を寄せ合って、私たちは微笑んだ。途端に猛烈な睡魔が私を襲った。
ああ、気持ちいい。このまま眠ってしまいたい。
だがしかし、眠ってしまったらたいへんなことになるので、私は慌てて飛び起きた。再び拓人に目隠しを命じ、大急ぎで服を着る。ぱちんと明かりを点けると同時に、ドアがまたノックされた。
今度は私とともに、拓人も跳ねていた。
「秋実! いい加減にしなさい!」
あわわ。お父さんである。
「はーい、もう帰すよー」それから私は拓人に顔を向けた。
「続きはまた今度ね」
「うん」
拓人はぽりぽりと頭をかいた。
私たちはその後も、互いの家を持ち回って練習試合を重ねた。家族と同居していても、意外となんとかなるものである。
親が留守なときなど、真剣勝負に移行するチャンスは幾度かあったが、練習試合でもそれなりに満足していたので、多くは望まないでおいた。ラブホテルは勝手が分からないので、利用する気になれなかったのだ。
一度、拓人のお母さんに見つかってしまったが、そのときのことは三者とも蒸し返さないのが暗黙の了解なので、私も話さない。思いだすだけで記憶が暴れ回る。
結局、真剣勝負は高校卒業まで持ち越しであった。
真剣勝負の感想はまあ、えへへとだけ述べておこう。