第四章 抗争 (2)
それからも、恒例の夜の電話は続けた。ただし、こちらこそ拓人を拒んでいるんだぞという姿勢を示すために、例の沈黙は二度と作らなかった。
「ところでさ。夏休みの花火大会だけど……」
「あ! 私、これから友達に電話かけなきゃいけなかったんだった。ばいばーい」
「ば、ばいばい」
こんな調子である。
そんな冷戦が続く中、いよいよ高校初の夏休みを迎えた。その頃には恵那ちゃんの他にも何人か仲のよい子ができて、恵那ちゃんを含めた五人の小グループを形成していた。清純派な子が多かったので、男性経験の多い私と恵那ちゃんがボスである。えっへん!
拓人が私と一緒にいきたがっていた地元の花火大会も、彼女たちと一緒に出かけた。少し拓人が可哀想かなと思ったけれど、騙されてはいけない。彼は彼で、別の女と楽しくやっているはずさ。
幸い雨は降らなかったが、曇り空で蒸し暑い夏の夜だった。県内有数のビッグイベントなだけあって、会場は多くの人で込み合っていた。醤油の焦げたよい香りが漂う中、私たちは人のあいだを縫い歩き、出店を巡った。
「うわ」恵那ちゃんが私の腕に飛びついてきた。
「今、誰かにお尻触られたよ! 痴漢がいる、痴漢が!」
「恵那ちゃんのお尻セクシーなんだから仕方ないよ。我慢しなさい」
他の子があははと笑い、恵那ちゃんは「もう!」と膨れた。私もだいぶボスの貫禄がついてきたものだ。
水風船釣りのお店と出会った。子供のようにはしゃぐ恵那ちゃんを、他の四人が見守る恰好となった。
私たちはみんな浴衣を着ていた。恵那ちゃんに限っては小慣れた化粧までしており、目立ち方が半端ない。通りすがる男性たちも、みんな彼女に見惚れているように思える。
「ねえねえ」
「ん?」
女の子の一人がとんとんと肘うちしてきた。
「あそこの男の子たち、ずっとあきちゃんを見てるよ」
「え!?」
なんと、輝いていたのは私も同じだったのか。私はそっと、女の子が指し示す方向を見やった。
そこに中学時代の同級生の一団がいたため、私は脱力するのであった。
一応手を振って応えてみると、彼らはわらわらとこちらへ寄ってきた。
同時に不安を覚える。彼らは私が拓人とつき合っているのを知っているし、拓人がサッカー部出身のイケメンじゃないのも知っている。っていうか、私がビッチじゃないのを知っている。
「本山、元気?」
「みんな、いくよ」
私は恵那ちゃんを引っ張り起こし、その店を逃げだした。古きよき友よ、すまない。私はもう、君たちが知っているあきちゃんではないのだ。
百メートルほど離れてから、私たちはようやく足をとめた。
「いいの? 知り合いじゃないの?」
「うん、ちょっと思いだしたくない男なんだ」
「きゃー! あきちゃんって悪い女ー!」
茶番である。
そのとき、またしても男に話しかけられた。
「ねえ、ちょっといい?」
早くも追っ手がきたかと私は身構えたが、話しかけてきたのは見知らぬ顔の男性二人組であった。顔つきや体躯を見る限り、私たちよりも年上、大学生ぐらいに感じられた。
ホッとする私とは裏腹に、他の子は怯えた表情を見せる。原因はすぐに分かった。男のうちの一人がタンクトップを着ており、腕に龍の墨を入れていたのである。おまけに、頭はごちごちのスキンヘッドだ。ただ、私はタトゥーやスキンヘッドを生で見慣れているせいか、それほど怖くはない。
「女の子だけじゃ、つまんなくない?」
タトゥーじゃないほうの男性が続ける。こちらは浴衣姿で、顔立ちも好青年ふうだ。粗を探すとするなら、ぎんぎらぎんの銀髪がとても眩しい。
「うん、つまんない。お兄さんたち、一緒に遊ぶ?」
恵那ちゃんである。彼女も臆することなく、二人と接している。
「おお、ノリいいじゃん」男性たちは奇妙な目配せをした。
「うんうん、遊ぼう遊ぼう。君たち、女子高生? 俺たち、夢見るフリーターね」
というわけで、彼らと合流することとなった。二人ともすごく明るい性格で、他の子たちの緊張もすぐに解けたようだった。わあきゃあとはしゃいでいたので、周りの方々にはたいへん迷惑だったかもしれない。
「わー、綺麗だなー」
花火を並んで見上げたときには、私は銀髪さんと気の合う仲になっていた。
「ここにいたって、俺たちはいつまで経ってもビッグにはなれねえ」銀髪さんは夢を語っていた。
「やっぱりよ、東京にいって初めてスタートラインに立てるってもんだ。いつかは上京してやるぜ! 東京にもきっと、俺たちみたいなアウトローを受け入れてくれる場所があるはずさ!」
今聞くと陳腐な言葉に思えてしまうが、そのときの私は目をきらきら輝かせて彼の話に聞き入っていた。もしそのタイミングで「一緒に東京までついてきてくれ!」と懇願されたら、拓人のことも忘れ、ほいほいとついていってしまったかもしれない。彼らが東京で何をしたがっていたかは、残念ながら覚えていない。
花火が終わると、他の三人の子たちが門限を理由にそそくさと帰っていった。私にも一応門限はあるのだが、彼女たちの手前、そんな軟弱なことは言いだせなかった。
だが、腕時計の針は十時を差そうとしている。やはり、私もぼちぼち帰り始めなきゃならない。私は必死に、然るべき理由を探した。
そのとき、恵那ちゃんがちょこちょこと寄ってきたのだった。
「あっきちゃん!」私のおっぱいをつんつんとつつく。
「私ね。今からあの人とホテルいくことになったから、ここで別行動にしよう」
「え!?」私は仰天して恵那ちゃんを、それからタトゥーさんを凝視した。
「ホ、ホ、ホテル!? だって恵那ちゃん、か、か、彼氏いるじゃん!」
「彼氏たちとは、今夜だけ別れることにしたの」満面の笑みで恵那ちゃんは言う。
「だってあの人、面白いんだもん! 好きになっちゃったんだもん!」
タトゥーさんが、にやりと不気味に笑った。確かに彼と恵那ちゃんは、私と銀髪さんのように、ずっとツーショットを形成していた。
「ねえ」と恵那ちゃんが耳打ちしてきた。
「あの銀髪の人、ものすごいテクニシャンなんだって。あきちゃんも頑張ってね」
「え!?」
どくんと私の心臓が跳ね上がった。
「だって、あきちゃん」恵那ちゃんは不思議そうに目を丸める。
「彼氏と別れて寂しいんでしょ?」
そう。拓人とはすでに別れたと、説明してあった。それはつまり、いずれは本当に拓人と別れようと考えていたからなのだが――。
「寂しさを紛らわしてもらいなよ。あの人カッコいいし、あきちゃんのタイプなんじゃない?」
「そ、そうだね」私は曖昧に笑ってみせた。
「そろそろ身体が男を欲しがっている頃だろうし、ちょっくらお相手してあげようかな」
「さっすが、あきちゃん! そんじゃ、また明日ね」
恵那ちゃんとタトゥーさんは、あっさりと夜の闇に消えていった。その途端、銀髪さんが「それじゃあ、いこうか」と私の肩に手を回してきた。
私はその手を反射的に払いのけるのだった。
「ど、どうしたの?」
「あ、すみません」私はうつむき、それから上目づかいに銀髪さんを見た。
「あのう、実は私も、あまり遅くなるわけにはいかなくて」
「え?」銀髪さんは心外そうに眉をひそめた。しかし、すぐに表情を和ませる。
「そんなー。これからってときにそれはないっしょ。帰りはちゃんと送ってあげるから、ね? もうちょっと遊ぼうよ」
そして、彼は再度、私の肩に手を回した。今度は私も抵抗しなかったが、決して彼の誘いに乗ったわけではない。そうしながら、どうやって逃げだそうか、策を練り続けていた。そんなとき、脳裏にふと拓人の顔がちらついたのだった。
今頃、一人で寂しがってるんだろうな。
はっと私は気がついた。
本当は分かっていたのだ。拓人は私を裏ぎったりなんかしない。彼を疑ったのは、彼を信じる勇気が私になかっただけなんじゃないか。
二人は歩く。霧が立ち込めてきて、辺りは異様な雰囲気に包まれていた。途中までは、帰路につく人の流れに沿って駅のほうへ向かっていたが、やがて暗がりの一本道に銀髪さんが折れようとした。
「自転車とってこないと……」
「あきちゃん、おっぱい大きいね」
銀髪さんは私の言葉を無視した。
「え?」
次の瞬間だった。彼は挨拶代わりの冗談のつもりだったのかもしれないが、私は全身に稲妻を浴びたようなショックに見舞われた。銀髪さんが、恵那ちゃんがやるように私のおっぱいをぽよんとつついたのだ。
「え?」
数秒前と寸分狂わぬ反応をする私。だが、そこからが違った。傷口から血が滲みだしたかの如く、私は瞳を涙で濡らした。
「あ、あきちゃん? どうしたの?」
「すみません、すみません」
困惑する銀髪さんの顔はもはや見えない。いくら手で拭っても無駄だ。次から次へと涙が溢れだしてくる。
どうしてこんなに悲しいのだろう。たかがおっぱいをつつかれただけ、いつも恵那ちゃんにされているのに。拓人にだって、いつかは触らせてやるつもりだったのに。
そうだ、拓人だ。彼を差し置いて、銀髪さんが私のおっぱいを触った男性第一号になったのがとても悲しい。銀髪さんはいい人だけど、一番は拓人じゃないと駄目なのだ。
「ごめん、あはは」銀髪さんはぎこちなく笑いながら、私の肩に手を置いた。
「つい調子に乗っちまったわ。まさか、泣きだすとは思ってなかったからさ。ほら、注目浴びちゃってるって」
銀髪さんは本当に優しい人で、自転車置き場まで私を送ってくれた。彼に礼を言って自転車を発車させた私は、きこきことペダルを漕ぎながら、喪失感に胸を痛めていた。
拓人に謝ろうと私は思った。疑っていたこと、素っ気ない態度をとったこと、おっぱいを触られてしまったこと。いまだにケータイを持ってなかったため、すぐには実行に移せないのが歯がゆい。でも、家に帰ってからきっと謝ってみせるさ。
そんな矢先に、ぽつんとたたずむ電話ボックスを見つけた。むむ。家まで帰るのにあと二十分はかかる。すでに十時半を回っているので、下手したら禁断の十一時になってしまう。十一時以降に電話をすると、拓人のおじさんおばさんの心証を損ねてしまうのだ。そんなルールが、当時の私にはあった。
「よし!」と意気込んで、私は電話ボックスに飛び込んだ。十円を入れて、拓人の家のダイヤルを回す。わずか二度のコールで電話が繋がった。
「あ、あのう……」
「もしもし? 本山さん?」
「あ……」
拓人が応答してきたのは、はっきりいって想定外だった。私はあまりの動揺から、すぐさま受話器を下ろしてしまった。
し、し、しまった――。
もう一度かけ直すか? いや、これ以上電話すると、おじさんたちの心証が――。
うん、明日だ。今日はもうあきらめて、明日の朝一番に謝るのだ。
まだ謝っていないにも関わらず、拓人に謝ろうという決心は私の心を軽くした。「ごーめんねー、ごーめんねー」と意味不明な鼻歌でも歌いながら、残りの帰路をすいすいと進んだ。おかげで、予定よりも五分ほど早く家に帰りついたのだった。
「ただいまー」
玄関のドアを開けた途端、奥からお母さんがすっ飛んできた。
「ちょっと、心配したんだから! あんまり遅くなっちゃ駄目だってあれほど言ったでしょう!?」
「だって……」
言い訳を口にしようとしたそのとき、私はかちんと固まってしまった。
お母さんの後ろに、背後霊のように拓人が突っ立っているではないか。