第一章 グッドタイミング (2)
【OFF】
「〈ホッとスイーとタイム〉って、なんでスイートの〈ト〉まで平仮名なんやろうね」アシスタントディレクター=ADで、タイムキーパーでもある真鍋さんが、こんにゃくをもぐもぐと噛みしめながら、こんな話題をきりだした。
「だってな、安心するホッとと、温かいっていうホットをかけとるわけやろ? スイーとは甘いってだけで、なんにもかかってへんもん」
私より二つ上で、眼鏡をかけた、見かけは才女風の女性である。美人なのにいつも安物のトレーナーを着ており、関西弁と相まってワイルドな印象をかもしている。そんな業界人らしくないところが、とても業界人らしい。
「あんまりばたばたしないで、スイーと楽にやりなさいという意味では?」
「えー。なんかそれ、無理やりやん。納得いかへんなー」
私は反対隣に座る、ディレクターの野波さんに抗議の視線を送った。〈ホッとスイーとタイム〉という番組名を考えたのはあなたなのだから、この話題に口を挟まずに何をぼうっとしているのかしらと。
「ん? 何い?」
野波さんはトマトを食べるのに夢中だった。
うわあ、ありえない、ありえない。おでんのトマトは絶対に認めない。
「〈ホッとスイーとタイム〉のスイーとの〈と〉は何で平仮名かだそうです」
「考えてみりゃ分かるでしょうよ」人を小馬鹿にした口調で、野波さんは言った。
「片仮名でスイートって書いちゃったら、見た目がなんかお堅いじゃん。そこは可愛く恭しく、〈スイーと〉ってしちまったほうが、なんとなくイメージも明るくなるかなって思わない?」
父と同じぐらいの年であろうお腹の出た男性で、頭は見事につるっつるだ。脂ぎった額と業界人っぽい喋り方が、少し苦手である。
「まあ確かに、言われてみればそうですよねー」
「でも、ラジオなんやから、平仮名も片仮名も関係あらへんと思うねんけど」
再び真鍋さんが割って入る。
「イツミちゃんは厳しいなあ。そんなつんけんしてるから、二十七にもなって誰からも見初めてもらえないんだよお」
へらへらと笑う野波さんを、真鍋さんが睨みつけた。私を挟んでの喧嘩は勘弁してほしいと思った。
今年の春から、なんの因果か私はFMラジオ番組のパーソナリティという変わった仕事を務めていた。その番組がすなわち〈ホットスイーとタイム〉であり、毎週土曜日の深夜零時より、一時間の生放送で楽しくお伝えしている。
番組の内容は、タイトルどおり極めて緩い。往年の名曲を流したり、リスナーに電話をかけたり、地方ローカルラジオならでは、地元の優良店舗情報を配信したりする。
ほんの二、三ヶ月に一度ぐらいの割合だが、東京で活躍する有名人がゲストにきたりもするのだ。よくよく考えてみるとたいしたことないなあというような人でも、地方では大スターに変貌してしまうのだから、不思議である。
なんの因果かとは述べたものの、一応そこにいきつくまでには過程らしきものもあった。長くなるかもしれないけど、眠らずに聞いていてほしい。
大学時代にバイトを転々としていた私は、あるときラジオ番組のADのバイトに出会った。その番組というのが〈ホットスイーとタイム〉の前身番組である。
一、二年ほどは普通にADを務めていたのだが、当時からディレクターだった野波さんに、「アシスタントとして出演してみない?」と打診され、面白そうなので承諾した。ADからアシスタントへ異例の昇格である。
そして今年の春、前身番組でパーソナリティを担当していた方が突如、「これからは活動拠点を東京に移す」などと言い始めたので、アシスタントからパーソナリティへ更なる異例の昇格を果たしたわけである。
ああ、けっこう短い話だった。
おでんを次々と口へ運びながら、私たちは他愛のない話を続けていた。
「はむはむ。ねえ、あきちゃん。俺と一緒に初詣いこうよお」
「えー? かまいませんけど。はむはむ。すっごく混んでるんでしょう?」
「いや、駄目やろ! 一緒にいったら駄目やろ! 野波さん? あきちゃん、彼氏おるんですからね。あきらめてください。はむはむ」
「彼、人ごみ苦手だしなー。そうだ! 真鍋さんも一緒にいきましょう。それならモーマンタイ!」
「やーよー。うちも人ごみ苦手やもん」
12月26日。クリスマスはつい昨日のことなのに、その名残はもう街のどこにも見かけられない。本日は深夜より、平成21年最後の生放送を控えていた。その打ち上げを、打ち上げという言葉と矛盾してしまうが、先にやっていた。
もともとは私たちも番組終了後に打ち上げを行っていたが、帰りが遅くなり過ぎてしまうため、誰かの提案で先に打ち上げを行うという方式に改められた。生放送を控えているのでお酒は飲めない。よって、ただ一緒に夕食をとる会となってしまっているのは残念でならないが。
場所は屋台のおでん屋さんである。野波さんたちと待ち合わせしていた某家電量販店の玄関前から、魅惑たっぷりの赤提灯がちらちらと覗いているのを見つけたのだ。家電量販店の客引きさんの話だと、移動式の屋台だそうで、明日にはもう余所の町へ旅立ってしまっているとのことである。
そう聞いては、いてもたってもいられない。当初のお好み焼きの予定を変更し、私たち三人は慌てて屋台の暖簾をくぐったのであった。
それにしても、屋台というものはなんて素敵なのだろう。明らかに外なのに、思いっきり外なのに、ちょっと暖簾をくぐっただけでこんなにも暖かいとは。ああ、何もかもを放りだしてこのまま屋台で朽ち果てたい。
「聞いてや、あきちゃん」真鍋さんの愚痴が始まる。
「こないだの合コンさー。一人の男にすごく気に入られてもうて。その人、年収一千万超の青年実業家なんやー」
「いいじゃないですかー。やりましたねー」
「でもな。三十なのに、どう見ても頭がヅラやねん。先行き不安やって思わへん?」
「ヅラってけっこうお金かかるんでしょう? 年収一千万超の証ですねー」
「いや、そうゆう問題ちゃうくてさー」グラスを傾けながら、真鍋さんは悩ましげに首を振る。そのグラスの中の液体は水のはずだが、彼女はでき上がってしまっているようだ。
「やっぱ、ハゲって子供にも遺伝するやん? 顔は悪くないんよ、顔は。やけど、ハゲは致命的やんか。将来生まれてくる子供がハゲ確定やなんて、うち、耐えきれへんわ」
〈ハゲ〉を連発し、明らかに野波さんを煽っている。私は心配になって、しきりに野波さんを観察していた。私たちの会話に耳を傾けつつも、おでんを食らい続け、必死で聞こえないふりをしているさまがひどく痛々しい。
やがて彼は私の視線に気がつき、我に返ったふりをする。
「あれえ? あきちゃん、ちくわも食べなきゃあ。おやじ! ちくわ!」
「あいよ!」
「あ、どうも」
私は大口を開けて、ちくわにかぶりついた。このちくわ、なかなかの大物である。
「いいくわえっぷりだ。ねえ、彼氏のとどっちが大きい?」
「え?」
私はちくわをくわえたまま目を丸めた。野波さんの言葉の意味を理解するにつれ、顔を赤くしていき、やがてちくわを皿に落っことしてしまった。
な、なんという! なんというお下劣な!
これはあれだ。野波さんと初めて出会った日に、彼が「ADっていうのはア○ル童貞の略なんだ」などとぶちまけた際、「下ネタ、NO!」と、しっかりつきつけてやらねばならなかったのだ。「もー、野波さんってばー」と、愛想笑いを振りまいてしまったこの私が、きっと悪い。野波さんの中ではもう、一生私はエロエロ女と見なされ続けるのだ。
「野波さん、あきちゃんに訴えられますよ」
「いいじゃんねえ。あきちゃん、けっこう好きなんだよねえ」
「好きじゃないですよ、もう!」
また愛想笑いを浮かべてしまう私。どうしようもなく進歩がない。よい子のみんなは私みたいになっては駄目だぞ。