第三章 悩める人 (6)
「もしもし?」眠たそうな声である。昨晩朝まで勤務していたはずなので、無理もないだろう。
「あれ? 本山さん、どうしたんですか」
「ああ、直くん。起こしちゃってごめんね。えっと、本日のバイトは体調不良によりお休みさせていただきます」
「ええ!? 急にそんなこと言われても……」
シフトに穴が空いてしまうのは痛手だろうが、まずは体調の心配をしてほしいものだ。
「大丈夫だよ。のんちゃんが代わりに出てくれるって」
「あ、そうなんですか。それなら」
なんという変わり身の早さ!
挨拶もせず、私は通話をきった。それからケータイをテーブルの上に投げ置き、新しい缶ビールを手にした。五百ミリリットルの缶をもう三本も空けており、気分も悪くなってきたが、かまわずプルトップを引き剥ぐ。ヤケ酒とはそういうものなのだ。
家へ帰ってきたのは三時過ぎで、現在はすでに五時半となっていた。その間、小波ちゃんや大学時代の友人に愚痴メールを送りまくっていた。一見優しげな返事はくれるが、文面から相当鬱陶しがっているのが読みとれる。みんなまだ仕事中なのである。
小波ちゃんを含めた何人かは、仕事終わりにうちへ駆けつけてくれるそうだ。はたして本当だろうか。「どうせ言葉だけさ」と自分に言い聞かせつつも、やはり淡い期待を抱いてしまっている。
玄関のチャイムが鳴った。私はぴたっと動作をとめ、ゆっくりと玄関に顔を向ける。本当に、誰かがきてくれたのだろうか。
「はーい」
覗き穴から来客者を確認してみる。むむ、黒いコートを着て、白いマスクをつけた女性。これはまさしく口裂け女……ではなく、小波ちゃんだ。
私は嬉々としてドアを開けた。するとその瞬間、ぱんという破裂音が目前で響き、きゃっと短い叫び声を上げ退歩する。玄関の段差につまづき、私はそのまま尻餅をついてしまった。
「きゃはは、きゃは」小波ちゃんが私を指差して爆笑している。もう片方の手にクラッカーを持っていた。
「あきちゃんってば最高! そんなナイスリアクションしてくれると、こっちもいたずらする甲斐があるってもんだなあ!」
「小波ちゃん」
座ったまま、私は小波ちゃんを睨みつけた。しかしそれとは裏腹に、嬉しいような悔しいようなよく分からない気持ちが湧いてきて、立ち上がるとすぐに小波ちゃんに抱きついたのだった。
「うわ! あきちゃん、お酒臭いよー」私の背中をさすりながら、小波ちゃんは言った。
「ちゃんと、私の分のお酒もとってくれてるんだろうね」
「うん、うん……」私は泣きじゃくりながら頷いた。そして、小波ちゃんを見上げる。
「もう、仕事終わったの?」
「派遣の特権、定時上がりを発動させちゃった」
小波ちゃんは現在、近所の雑貨卸売会社のオフィスで働いている。派遣社員であったはずだが、もう二年以上勤務地は同じなので、そうは呼べなくなってきていた。
彼女を部屋に招き入れ、きんきんに冷えた缶ビールで乾杯した。
「ひどいよねー」小波ちゃんが言った。
「せっかくあきちゃんが思い出を洗いざらい話してやったっていうのに、始めから打ちきりが決まってたなんてねー」
小波ちゃんはよく髪型を変えるが、今回もまたふわふわショートから黒のストレートに変わってた。中学の頃の彼女に戻ったようで懐かしかった。コートの下には胸もとの広く開いたシャツを着ていた。お酒に弱いので、一口飲んだだけでその辺りが赤くなってきている。
「本当! 小波ちゃんたちにも失礼だよね!」
「それもこれもぜーんぶ、〈ホッとスイーとタイム〉の存続のためだったのにね」
「ねー。もう、今週の〈アッキーの恋の軌跡〉はストライキしてやるもん! 前回いいところできっちゃったけど、そんなの関係ないし!」
「それ、いいじゃん! やっちゃえ、やっちゃえ!」
私ばかりが酒をあおり、小波ちゃんは持参してきたポテトチップスをつまんでいた。
「自由の身になったんだし、一緒に海外旅行にでもいこうよ!」
「いいね! 私、香港いきたーい!」
はっきりいって私は体質的にあまり酔いを感じないのだが、それでも気分はすっかり高揚していた。嫌なことがあったときの、親友の力は偉大である。
「っていうか、明日から出発しちゃおうか」
ラジオなんて、もうどうでもよくなっていた。そうなのだ。そのお仕事自体が降って湧いたような話なのだから、番組が打ちきられる程度で落ち込んでいてどうする。もともとは、私みたいな素人をパーソナリティとして使うと言いだした野波さんの責任である。
「ところでさ、あきちゃん」小波ちゃんは、不意に声のトーンを落とした。
「ラジオが終わること、新藤くんには言った?」
「え? いや、言ってない」
晴れていた心が少しだけ曇る。
「やっぱりね」小波ちゃんは自身の服のえりをつまみ、ぱたぱたと仰いだ。
「さっさと言っちゃいないよ。どうせラジオでも発表しなきゃなんないんでしょ」
「でもさ」私ははあと溜息をついた。
「それを知っても、拓人が平然としてたらどうしよう。私、いよいよ逆プロポーズするしかなくなっちゃうかも」
そう。拓人に番組打ちきりのことを話せないのは、どうしても彼に次のステップを意識させてしまうからだった。週にたった一度の仕事とはいえど、〈ホッとスイーとタイム〉は私の城である。城が崩壊し荒野へ一人投げだされた私に、拓人には手を差し伸べる義務がある。その義務を拓人が放棄してしまわないかが不安なのである。
高校時代の彼の台詞を借りるなら、私は拓人が怖かった。
「すればいいじゃん。逆プロポーズ」
「え?」私は目を見開いて、小波ちゃんを見つめた。
「本気で言ってんの?」
「本気、本気」小波ちゃんは平然と頷いた。
「それで、新藤くんの気持ちもはっきりと分かるじゃん。あいつにその気があるのなら断ったりしないだろうし、もし断られたら、きっぱり別れを突きつけてやりなよ」
「別れを……」
もちろんプロポーズがなくとも、私たちの交際はつつがなく続いていくだろう。でも、私が彼に疑問を抱いてしまうのは避けられない。ひょっとして彼は、私と一生このままの関係でいようとしているのではないかと。
だとしたら、私の人生プランとは相違がある。いつか、拓人と別れなければならない。
「嫌だよー」私はまたじわりと目を涙で滲ませてしまった。
「拓人と別れたくないよー。怖いよー」
「よしよし」小波ちゃんは私を胸で受けとめた。
「冗談だってば。新藤くん、きっとプロポーズしてくれるって」
「ほんと? 本当にプロポーズしてくれる?」
「うん、うん」
小波ちゃんがそう言ってくれるなら、信じてみようと思った。
いつの間にか小波ちゃんは帰っていて、私は寝室のベッドに仰向けに寝かされていた。
星のない夜空を眺めながら、私は涙を拭った。
拓人にだって準備は必要だと思う。結局禁酒も失敗していたし、資金面で心もとないのかもしれない。私に手を差し伸べる義務なんて、本当に彼にあるのだろうか。
結婚するにはお金がかかるとはいうが、世間体を気にしなければその限りでもない。結婚式に憧れているわけでもないし、結婚指輪もないならないでかまわない。ああ、でも結婚指輪くらいもらわないと、拓人の愛を疑ってしまうかもしれない。
そんな私が、すごく嫌だ。本当は拓人を怖がっているんじゃなくて、自分自身を怖がっているんじゃなかろうか。そう考えだすと、頭が痛くなる。具合が悪くなる。
こんなときは、拓人と添い寝をするのが一番である。私は彼にメールしようとしたが、ケータイをとりに起き上がる気力もなく、そのまま眠りに落ちてしまった。
第三章 悩める人 完