第三章 悩める人 (5)
【OFF】
雑誌やテレビでも紹介されていた店だったが、昼どきなのにたいして人が並んでおらず、ほんの数分で二人分の席が空いた。その原因は明らかで、店から漏れるとんこつスープの香りが、異臭というレベルを超越していたからに他ならなかった。
「ほんまにここで食べるん?」真鍋さんは顔をしかめたままだ。
「今ならまだ間に合うって。さっきの洋食屋さんにしようや」
「駄目です!」私はびしっと言ってやった。
「この店を目当てに一時間も電車に揺られてきたんですよ! 食べとかないと絶対後悔します! そもそも、真鍋さんから誘ってきたんでしょ!」
「だって、臭いんやもーん」
時刻は午後一時。私と真鍋さんは、ときどきこうして、一緒に有名ラーメン店に足を運ぶ仲であった。お互い、夜とは違ってメイクやファッションに気合いが入っている。その他にも、相手の新しい一面を垣間見られる機会なので、私はこのひとときを気に入っていた。
「とんこつラーメンなんだから、仕方ないんじゃないですか。匂いが強烈でも、味は保障つきですよ。〈ザ・ラーメン道〉で三ツ星もらってましたもん」
わざわざ私が説明せずとも、店内の至るところに、その名誉を誇示する貼り紙がしてあった。
「前に食べにいったとんこうラーメンの店は、これほどやなかったけどなー」
「換気に使うお金を材料費に回しているんですよ。ますます期待が膨らみますね。あ、すみませーん! チャーシューメンを二つお願いしまーす!」
私はそう告げると同時に席を立った。給水器で二人分の水を入れ、コップを持って帰ってくる。
「あんがと」コップを受けとりながら、真鍋さんは言った。
「ねえ、あきちゃん。例の高校時代の同級生の子に連絡ついた?」
「あ! つきました、つきました。今、名古屋に住んでいるそうで、私びっくりしちゃいましたよー」
先述のとおり、私は気をつかってしまう人間である。スタッフたちは「名前もだしてないんだし、大丈夫じゃない?」と言ってくれるのだが、あの恵那ちゃんにだけは、どうしても私の思い出話に登場させるという許可をえておきたかった。他の子はともかく、彼女の役どころは少々過激なのである。
ところが、いまだに彼女と連絡がついていなかった。連絡がつかないまま、こないだ先走ってラジオに登場させてしまったので、今頃かんかんに怒っていやしないかとひやひやしていたのだ。
しかし一昨日、なんとか恵那ちゃんの実家の住所を調べ上げ、彼女のお父さんに恵那ちゃんのケータイ番号を聞きだすことに成功した。
「うそー!? あきちゃん!? 超久しぶりー! 元気してたー!?」
電話口から、高校時代とちっとも変わらない恵那ちゃんの明るい声が聞こえてきた。容姿も服装も、あの頃のままなんじゃないだろうかと思った。
「久しぶりだねー。ねえ、恵那ちゃん、今どこにいるの?」
就職先から名古屋支店への配属を言い渡され、その会社を退職しながらも、依然として名古屋にとどまっているという回答だった。現在はアルバイトで生計を立てつつ彼氏と同棲しているという話を聞き、なかなか本題を口にしにくかった。
だが、逃げるわけにはいかない。
「すっごーい! あきちゃん、ラジオのパーソナリティなんてやってたんだ! あははは! 私のことなんていくらでも話していいよ。今は彼氏一筋だけど、どっちも好きなら二股だってオーケーっていう信条は変えてないもん」
なんて明快な性格だろう。是非、私の代わりにパーソナリティをやっていただきたい。
「でも、夏休みにナンパされたときのこととかもあるじゃん。ああいうのも話していい?」
「ぜーんぜん! エッチまでは浮気じゃないから! 心さえ奪われなきゃね!」
二股理論と矛盾しているような気がしたが、黙っておいた。
「分かった、ありがとう。こっち帰ってきたら連絡してね」
「あ、ちょっと待った」何かを思いだしたように、恵那ちゃんは言った。
「あきちゃん、ケータイ替える予定ない?」
「ケータイ? ううん」
「私さ。ソフトバンクの営業のバイトやってんだけど、今月ノルマ達成すれば社員昇格できるんだ。ねえ、ケータイ替えない?」
「…………」
このタイミングで断れるはずがないではないか。
「そ、そういえば」私は観念した。
「そろそろビジネス用に、もう一台ほしいなって思ってたんだった」
「わあ! 奇遇だね!」
「…………」
次回の放送では覚悟しておいてもらおう。
「ふーん、その子おもろいねー」ふうふうと麺に息を吹きかけながら、真鍋さんは言った。
「一度会うてみたいなー。めっちゃ可愛いんやろ?」
「可愛いですよー! 萌え萌えって感じです!」私もずるるとラーメンを啜った。
「はむはむ。ねえ、けっこう美味しいでしょ? やっぱこの店にしてよかったでしょ?」
「はむはむ。うん、そうやね。美味い」
「あはは! 真鍋さん、海苔がくっついてお歯黒になってますよ!」
「ほんまに? くわばらくわばら」
「真鍋さん?」私は眉間にしわを寄せ、真鍋さんの顔を覗き込んだ。
「なんか、元気ありませんね。悩みでもあるんですか?」
真鍋さんの箸の動きがぴたっととまった。しばらくそのまま視線を宙に漂わせ、やがて箸を置いてしまった。
「え? まだ、たくさん残ってるじゃないですか」
「あきちゃん、食べる?」
「いえ……」
私は引き続きラーメンを食しながら、真鍋さんを盗み見ていた。彼女は頬づえをつき、気の抜けたような顔で店内を眺め続けている。
いったい、どうしたのだろう。
真鍋さんといえば、焼肉を食べたあとにラーメンを食らい、帰宅してからも更にポテトチップスを食べるという豪快な人なのだ。食欲もそうだが、先ほどのようにぼうっとしている場面を、今日はたびたび目撃している。
これは絶対、何か悩みを抱えているはずである。五年来の仲の友人として、放っておくわけにはいかなかった。店を出たらどこかしんみりとした場所へ連れていって、一つ残らずはかせなければ。
「今日な。ちょっと仕事の話をしようと思っとって」
「ああ、今は大丈夫ですよ。あとで喫茶店にでも場所を移しましょう」
私は麺を食べ終え、スープをれんげですくっていた。
「うん、そうしょうか」そう言いながらも、真鍋さんははあと溜息をついた。
「野波さん、本当に汚いよな。言いにくい話は、いつもうちに押しつけて」
「え?」私はれんげを置いて、神妙な顔つきで真鍋さんを見つめた。
「なんなんですか? やっぱり、今話してください。お願いします」
「うん」真鍋さんは力なく頷いた。
「残念やけど、〈ホッとスイーとタイム〉が三月で打ちきられることになってもうた」
「…………」
私は口をつむんだ。ほんの少しだけ予感めいたものはあったが、やはりショックだった。
「なんていうか」しゅんと肩を落とし、私はしぼりだすように言った。
「すみません。やっぱり、お色気エピソードが少な過ぎたのでしょうか」
「ううん。あきちゃんの話は概ね好評よ。スポンサーさまも満足しとるみたいやったし、今月の聴取率上がっとるし」
「え?」私は眉をひそめた。
「じゃあ、もうちょっと待ってくれても……」
「聞いた話では……」真鍋さんは顔を背けながら、コップに口をつけた。
「去年の時点ですでに打ちきりは決まっとったんやって。テコ入れはスポンサーさまの意向で、いわゆる最後っ屁を狙ったんやろうな」
「そんな!」私は自分でもびっくりするぐらいの大声を上げてしまった。店内のお客さんたちの注目を浴び、慌てて自らの気を静めた。
「ひどいですよ。嘘偽りなく自分のことを話すのって、すごく勇気がいるのに。そのために昔の同級生にも許可をえたのに。何もかも、全部無駄だったんですか」
「ごめんな。野波さんも私も知らんかってん」
そしてまた、真鍋さんは深い溜息をついた。
そうだった。真鍋さんに文句を言っても始まらないのだ。もちろん、野波さんや他のスタッフも同じ。彼らも〈ホッとスイーとタイム〉の打ちきり通告にはショックを受けているだろうし、もとはといえば、打ちきりが決まるまでちっとも面白い話ができなかった私が悪いのだ。
「真鍋さん」ぶつけようのない怒りに頬を膨らませながら、私は言った。
「これから、ヤケ酒つき合ってくれませんか」
「無理よ。夕方から収録があるんや。あきちゃんかて、バイトやろ?」
〈ホッとスイーとタイム〉以外にも、真鍋さんは幾つかの番組を受け持っていた。
「……仕事がないときに言ってくれればよかったのに」
私はつい毒づいてしまった。
「そうやね。ごめん」
自己嫌悪に陥る。真鍋さんを責めても何も始まらないのに。
電車に乗っているあいだ、私たちに会話はなく、駅についたところで手を振り合って別れた。ひゅうと木枯らしが吹き荒ぶ中、私はどうしようもない焦燥感を胸に抱きながら帰路についた。