第三章 悩める人 (4)
恵那ちゃんから衝撃的な告白を聞かされたその週の日曜日、ようやく私は拓人と会う決意を固め、約束をとりつけた。というのも、私は、しばしば拓人に会おうと急かされながら、何かしら理由をつけてそれを渋り続けていたのだ。恵那ちゃんにはビッチに見られたい私だが、拓人には絶対にそうは見られたくなかったからである。
なんせ学校でビッチを演じ始めて以来、私の脳味噌の中は拓人との無制限一本勝負のことでいっぱいになっている。拓人を前にするとそれを変に意識し、彼に勘繰られてしまうのではと本気で心配していた。
それなのに突然会うことにした理由は他ならない。恵那ちゃんと対等に渡り合うため、拓人にいよいよ正式な試合を申し込もうと考えたのである。
待ち合わせ場所は、過去にもデートの際に利用した駅前の広場だ。張りきっていた私は、十分も前にそこへやってきた。背中のリュックサックの中には、なんとなく必要かなと思って着替えが入っている。他にも、縄の代わりにビニール製の縄跳びを持ってきた。拓人が恵那ちゃんの彼氏と同じ趣味だったときのためである。
避妊具が必要なのも、もちろん分かっているさ。でもそれを買う勇気が沸いてこず、交渉成立後に拓人に買わせる気でいた。あとはラブホテルという場所を利用するのに、財布に入った三千円で足りるのかということだけが気にかかっていた。
五分後に拓人が自転車に乗って現れた。なんと手ぶらであったが、それよりも驚いたのは彼の容姿で、私はぼうっと突っ立って、数秒間彼を見つめてしまった。
厳密にいうなら、拓人は髪をきっただけだった。あのじめじめとした髪の毛をさっぱり除去し、坊主頭にイメチェンしていたのだ。彼の近況については電話でよく聞かされていたが、頭を刈ったことは聞いていなかった。
それにしても――。
カッコいい……拓人ってこんなにカッコよかったっけ?
中学時代に彼を日陰者たらしめていたのはきっと、結局はあの髪の毛だけだったのだ。今の拓人なら、誰に紹介しても「あきちゃんの彼氏、カッコいい」と羨ましがられるに違いない。
「すっげえ、驚いてる」自転車から降りながら、拓人は笑った。
「久しぶりだね。びっくりさせようと思って黙ってたんだ。やっぱりおかしい?」
「カ、カ……」私は頬を赤くしながら言った。
「カッコいい! すっごくカッコいいよ!」
「そう?」照れたようにうつむき、拓人は自らの頭をぼりぼりとかいた。
「本山さんがそう言ってくれるなら、しばらくこのままでいようかな」
「うん! 絶対そのほうがいい!」
その時点で、私は完全に怖気づいていた。拓人の容姿がレベルアップし、喜ばしいのと反面、誰か他に彼を好きになる女子が現れるのではなかろうかと不安も覚えた。よって、彼に嫌われたくないという気持ちが強まり、自分から無制限一本勝負を申し込むなど、そんなはしたないことはできなくなってしまったのである。
「どうしたの? そのでかいリュックサック」拓人は目を丸めた。
「山にでもいくつもり? それなら先に言っておいてくれなきゃ」
「いや、これは……」私は視線を右往左往させた。
「ほ、他にバッグがなかっただけ。気にしないで」
あははと私は乾いた笑い声を発した。
拓人もあまりお金を持っていないそうなので、結局どちらかの家へ赴くこととなった。お母さんに「遅くなるから」と宣言した手前、我が家は無理である。自転車を引き、私たちは拓人の家へ向かった。
拓人と肩を並べて歩きながら、やはり私は胸の高鳴りを自覚せずにはいられなかった。ああ、大丈夫だろうか。口にもできないほどのはしたない考えを私が持っているということを、彼が察してしまわないだろうか。
「新しい友達できた?」
突然話しかけられ、私はびくんと身体を痙攣させた。
「新しい友達? あはは。うん。一人すごく気の合う子がいたよ」
「そう」拓人を前を向いたまま言った。
「さすが本山さんだな。俺、人づき合いが苦手だから、話しかけてくれる奴がいてもろくに返事もできやしない」
控え目な性格までは急に変わらないというわけか。拓人としては不本意だろうが、私は少し安心する。
「私と話すときみたいに、気楽に接すればいいと思う。私からすれば新藤くん、特に人づき合いが苦手なようには感じないし」
通りすがりの太ったおばちゃんが、私たちをじろりとねめつけるように見ていた。彼女の目には、私たちがどのぐらい深い仲だと映っただろう。
「正直言うと、本山さんも怖い」
「え?」
拓人に顔を向けると、彼もこちらに視線を移していた。恥ずかしくなって視線をそらす。
わ、私が怖い? 何それ?
「うちのクラスに大山っていう、見るからにヤンキーって奴がいるんだ」拓人は続ける。
「まあ特段危害は加えられないし、むしろそれなりに仲よくやってるかな」
「その人がどうしたの?」
私の頭の中のクエスチョンマークが、どんどん膨れ上がっていくのだった。
拓人が返答をためらっているあいだに、目的地に到着した。
拓人の家はやや古ぼけた平屋である。ここにくるのはもう五度目ぐらいになるのに、なんだかやたらと他人行儀に私を迎えているような気がした。やっぱり、もっと早く拓人に会っておけばよかったと思う。
「お邪魔しまーす」私は玄関を上がり、それから、居間でくつろぐ拓人のおばさんに挨拶をした。
「どうも、ご無沙汰しております」
「あら、本山さん。久しぶりー」
「母さん、お茶とかはいらないからね」
拓人が照れ臭そうに言った。
「はーい。分かった、分かった」
おばさんの冷やかすような視線から逃れ、私たちは拓人の部屋に入っていった。
部屋には勉強机が二つ並んでおり、一つはおじさんのものであるらしい。私が拓人の机の椅子、拓人がおじさんの机の椅子に座るのが慣例となっていた。
「ほんと、久しぶりだな」椅子に座りながら、私は部屋を見回した。
「わ、また本が増えたね。谷崎潤一郎? 難しそう」
拓人は中学三年頃から読書に目覚めていたのだった。
「本を読んで教養をつけたいんだけどね、なかなか読み進まない」拓人は、私があずけたリュックサックの置き場所を模索していた。
「これ、随分と思いね。本当に山へいくつもりだったんじゃないの?」
「それはもう気にしなくていいから! あ、そうそう。さっきの話の続き聞かせてよ。ヤンキーな子がどうしたって?」
「ああ、その大山って奴がね……」部屋の隅に畳んで置かれた布団に、寄りかからせるようにリュックサックを置いた。それから、ぜんまいがきれたように拓人は無言で立ち尽くす。
「やっぱ、この話いいや」
「ええー」私は眉をひそめた。
「気になるじゃん。そこまで言ったなら、話してもらわなきゃ困る」
「そ、そうだね」拓人も所定の位置に座った。
「ただし、この話を聞いても、俺を嫌わないでね」
「え? うん」
私のクエスチョンマークは、天井を突き破って宇宙まで届いてしまいそうだった。嫌うだって? いったい、拓人はどんな突拍子もない話を始めるつもりなんだ?
「その大山って奴が……写メって分かるかな、それを俺に見せてくれたの」
「ああ、ケータイの……?」ケータイが浸透し始めたばかりの頃だった。
「ふーん。で、どんな写メ?」
「なんていうか」坊主頭をかきむしり、拓人は言いにくそうに言葉を並べていった。
「あいつの彼女が素っ裸で、こう、足を広げているような」
「素っ裸で?」その姿を想像してしまい、私は赤面してうつむいた。
「なんかすごく大胆だけど、それがなんなの?」
「直接関係はないんだけど」拓人は慌てたようすで、首を横に振った。
「まあ、つまりさ。その写真を見てから、なんとなく『本山さんが浮気してたらどうしよう』って心配するようになっちゃったわけだね」
「う、わ、き?」
私の目は点となってしまった。
「いやさ。写真を見せられて、俺はすごい劣等感みたいなものを覚えたの。次に、なんで本山さんは俺みたいなのが彼氏で我慢できているんだろうって考えるようになって。そしたら、本山さんに何度も会うのを断られたのとシンクロして、最終的には、ひょっとしたら我慢できていないんじゃないかって……」
私はまぶたを閉じて考え込んだ。
分からん! 男心がさっぱり分からん!
「まず、その素っ裸の写真を見たことが、どこがどう劣等感に繋がるわけ?」
「うん、だからまあその……」拓人は言いよどんだ。
「っていうか本山さん、怒ってる?」
「…………」
うむ、とても怒っている。煮えきらない態度の拓人に対してもそうなのだが、そんなハレンチ写真を拓人に見せた大山とかいうヤンキーに対してもだ。つまり拓人は。私のより先にそのわけの分からんビッチの股間を目撃してしまったわけである。おまけに、拓人はその無関係な股間にかなり感化されてしまっているようすだ。これは怒らずにはいられない。
「分かった! もう正直に言う」拓人は姿勢をぴんと正した。だが、顔は下を向いている。
「そうやって、彼女を平気で裸にできる大山が羨ましかったんだ! 俺も本山さんの裸が見てみたい!」
私は唖然とした。それから反射的に、両腕で自分の胸もとを包み込んだ。
そ、そういうことだったのか。
拓人は拓人で、私に無制限一本勝負を挑みたがっていたのだ。交際を始めてからもうすぐ二年。そりゃあ男だって、次のステップを意識してしまうのは当然である。
私はちらっとリュックサックを、それから、おばさんのいる居間のほうを見やった。
心音が爆発してしまいそうなほど暴れ回っている。下半身がじんじんと微熱を帯びているのが分かる。脇の下には汗が滲み、喉がからからに渇いている。だから口を開こうとしたとき、ごほっと一度咳き込んでしまった。
それでも言葉にしなくちゃならない。深呼吸をしてから私はなんとかこう言ったのだ。
「す、す、好きにしていいよ」