(四)
「やはりこちらは風の通りが良くて、過ごしやすいですね」
用意した円座に腰を下ろされた、近衛中将さまが言った。
近衛中将さまと安積さま。どちらも桜花さまと同じで汗一つかいていらっしゃらない。なんか、ジトッとしてるわたしが、異様な汗かきに思えてくるぐらい。
身分ある人は、「額に汗をかく」ってのを知らないのかもしれない。
「ここに人が少ないことを当てこすってるのかい?」
安積さまがおっしゃる。
風が通るほど人が少ない、仕える人の少ない寂しい室っていう皮肉にも取れるもんなあ。
「いやいや、そうではありませんよ。こちらは、心安くいられる、よい室だと思っているのですよ」
ちょっと困った顔の中将さま。袖から蝙蝠の扇を取り出した。
「弘徽殿や梅壺ともなると、ちょっと襟を緩めただけで誰かが飛んでくるからね。気が休まる暇がないのですよ」
う~~ん。
それは、「暑いのでしたら、わたくしが扇であおいで差し上げますわ!」とかなんとかで、少しでもお近づきになりたい女房たちが、我先にと争ってるんだろうなあ。
近衛中将。
名前は……ゴニョゴニョ、わかんないけど、弘徽殿の中宮さまの甥で、東宮となられた女一の宮さまのお従兄妹、左大臣家の息子となれば、誰も放っておかないと思う。それも、……これだけお顔が良ければ。
近衛中将さまと安積さま。
先輩女房たちが、お二人の舞がとても素晴らしかったって言ってたけど、多分、その通りだったんだと思う。
「私なら、何をして許されるのだよ」とか言いながら、女性を口説きそうな中将さまの甘いお顔立ちと、そういう艶ごとには縁のなさそうな、凛とした繊細な美しさを感じる安積さまのお顔立ち。どっちがいいとかじゃなくて、どっちもいいのよね。
並んで座っておられると、どちらも優劣つけがたい。春と秋の好みが分かれるように、これもどちらがと問われると、すっごく悩みそう。
あさみどり 花もひとつに 霞みつつ おぼろに見ゆる 春の夜の月
――浅緑の空も、咲き匂う桜の花も一つに溶け合い霞むなかに見える、春の夜の月が好きよ。
人はみな 春に心 寄せつめり われのみや見む 秋の夜の月
――皆さま春に心を寄せるのね。だったら、私だけが見ることになるのかしら、秋の夜の美しい月を。
みたいな。
この歌が詠まれた時は、春に軍配が上がりそうだったみたいだけど、近衛中将さまと安積さまなら、どちらに上がるのかしら。
その明るく朗らかな態度から、中将さまってのもアリだけど、逆に遊んで終わられそうな雰囲気もあるし。かと言って安積さまには、すでにからかい相手に認定されてるみたいだし。誠実に接してくれるかもしれないけど、笑われ続けるのはなあ。
一番いい選択肢は、「桜花さまと歓談なさるお二人を遠くから眺め続けること」だと思う。愛らしくおかわいらしい桜花さまと、優劣つけがたい、素敵な中将さまと安積さまをこの目に収めることこそ至上。そこに恋だの愛だの紛れ込ませるのは無粋すぎるわ。うん。
わたしは、こうして置き物かなんかのように座って見てるだけでいい。
「……と、思いませんか、女房どの」
え?
なに? わたし?
突然のように返答を求めてきた中将さま。……って、ごめんなさい。考え事二割、ウットリ八割で、なんにも聞いてなかったです!
「あの、えと……」
どうしよう。どう答えたらいい?
障子の後ろから、先輩女房さまたちが「何やってんよ! ちゃんとお答えしなさい!」とか、「歌を詠むのよ! 歌!」とかささやき叫んでるけど、歌? なんで歌? どういう流れで歌が必要なの、今!
誰か教えて頂戴!
聞いてませんでした。もう一回お願いしますって言ったら、先輩たち、発狂しそう。
「薔薇なき 室に吹く風 芳しき 春の盛りの 花ぞ匂へる。少し季節は違いますけれど、春の花も悪くないのでは?」
へ?
「おや。それは失礼いたしました」
歌を詠んだ桜花さまと、軽く謝罪する中将さま。一瞬の間を置いて、お三方がお笑いになる。
――薔薇がなくても、この室に吹く風はとってもいい香りがしますの。なんたって、春の花、桜と菫はありますもの。
…………?
薔薇に関する話になってたのかな? ここに薔薇がなくて残念ですね――みたいな。
で、返歌に困ってたわたしに代わって、桜花さまが歌をお返しになった。
というか、なんで薔薇?
理解できてないわたしに、桜花さまが御簾越しにニッコリ笑って目配せしてくださった。
背後からは「なにやってんのよ、新米!」とばかりに、先輩にゴンッと障子を小突かれた。痛くはないけど、後ろが怖い。
「しかし、花は芳しけれど、いかんせん、都の夏は暑うございますな」
中将さまが言った。あ、やっぱり汗をかいてなくても、皆さま暑かったりするのね。わたしだけが暑い、ムダ汗かいてるわけじゃないのね。
「夏の間は、出仕などせず、宇治の山荘にでも籠もって涼しく過ごしたい。そう思ってしまいますよ」
手にした蝙蝠で、パタパタあおぎ始めた中将さま。
その仕草に、「あー、わかる」って強く同意。暑いよねえ、都。わたしも宇治とかに避暑に行きたいって思ってたもん。
というか、そんな風にヒョイッと気軽に行ける山荘を持ってるなんて。さすが左大臣家だなあ。ウチなんて、都に屋敷はあるけど、そんなところに山荘なんて持ってないもん。暑さをしのぎたいのなら、美濃にいたほうがマシ。
「なんだい。中将どのは、竹林の七賢のような暮らしを望んでおられるのか?」
「いやいや。世俗を離れることは憧れますが、酒や清談は好みませんよ」
この世にて 春を知らざり 我なれば いかにか常世の 花を愛でしか
――この世の春(恋)も知らないのに、どうやってあの世で花(美人)を愛でたら良いのでしょうか。
つーまーりーはー。
まだ死にたくねえんだよ。もっと恋愛を楽しみたいんだよ、オレは。
だもんねえ。この中将さまは。
「酒だ、酒、酒!」よりは、「女だ、女、女!」なんだろうなあ。哲学的な談話、清談よりは、艶めいたことを囁くほうが好きそうだし。
「私が好むのは、月を眺めながら楽を奏でることですよ」
あ、ちょっと違ったみたい。
「昼の炎暑も静まり、暗闇に蛍が舞う夜。サラサラと流れる川音に合わせて楽を奏でる。夜の静寂に吸い込まれるのは、川のせせらぎか笛の音か。耳を傾けるのは月と山の鹿。昼は天高くさえずる鳥たちも、今はねぐらで静かに聞き入るだけ」
あ、それ、いい。
なんか想像するだけで〝涼しい〟って感じがする。
琴を奏でるのは桜花さまみたいな方よね。それに合わせて笛は、中将さま? 安積さまも悪くないわ。月と蛍に照らされた川面と、暗く沈む山の稜線。蛍の光が、時折ほんのりと桜花さまの横顔を照らし出すの。
少し間違えて、はにかまれる桜花さまもいいわ。それに、フッと笑って、笛の音を合わせてくださるの。とすると、笛はやはり安積さまね。ご兄妹で奏でられたら、それ、動く絵巻物よ。見とれちゃう自信あるわ。
「そうだ。よろしければ一度宇治の山荘に参られませんか」
え?
「一度都を離れて、涼を楽しまれるのも良いかと」
中将さまが提案なさる。
「それは、中将どのが楽しみたいだけじゃないのかい? 僕たちを連れて行くことを口実に」
「まあ、そうなのですが」
安積さまの問いに、アッサリ認める中将さま。少し困ったように頭を掻く。
「――人言を しげみ言痛み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る。宇治ならば、言痛むこともございませぬ。宮さまも『家にありし 櫃に錠さし 蔵めてし』ものを解き放ってやってはいかがでしょう」
――――――? ???
どういう意味?
「中将どの……」
安積さまが困ったような顔をなさったけど、それは、わたしみたいに「意味がわからん!」じゃなくて、「意味がわかってるから困ってる」顔。そしてなぜか、こっちを見てくるんだけど……どうして?
即興で詠まれた歌なのか、それともどこかから引用してきた歌なのか、そもそも歌の意味すらサッパリのわたしには、安積さまが困る理由も何もわかんないんだけど……ってどうして中将さまが、フフンッてわたしを見て笑うのよ。
「つきましては、女房どの」
え? は? わたし?
「あなたにも是非、宇治にいらしていただきたいのだけど、どうかな?」
なんでわたし?
「宇治は風光明媚な場所です。きっと気に入ると思いますよ」
だからなんでわたしが名指しで言われるのよ。
なんかの教養を下地にポンポンスラスラ和歌とか出てきてすごいなあ、さすが内裏だなあって感心してたけど、どうやらそんなこと思ってる場合じゃないみたい。
「楽しみですね」
意味ありすぎな、中将さまの微笑みと眼差し。
だーれーかー。
その意味とか理由とか教えて下さいよぉ。