(三)
都の夏は暑い。
どうしようもなく暑い。
全体的にムワァッとしてて、御簾を開け放とうが、扇であおごうが、そこにある空気自体が暑いのだから、風が吹いても結局暑い。
少しでも涼を求めて、紗の単だけを羽織った命婦さまたち。こんな暑いのに袿なんて着ていられるかってのは激しく同意。それも数枚重ねた袿となると――蒸れてどうにもならない。
でも、そのどうにもならない数枚重ねをさせられてるのは、わたしと桜花さま。桜花さまは、「仮にも姫宮なのだから」ってことで。わたしは、「なにかあった時の応対役」として。乳房までうっすら透けるような紗の単で、応対できないでしょ? めったに誰も訪れないような桐壺でも、万が一ってこともある。だから一人ぐらいちゃんとした格好をしてないと。で、若い子なら、暑さにも耐えられるでしょ? ってことでわたしがその務めを押し付けられ――訂正。任された。
「美濃だって、暑いでしょうに。ごめんなさいね」
「あ、いえ。これぐらいは、なんとか」
嘘です。
宮さまと違って、わたしの体は汗かきまくりです。逆に、どうしてそんな涼しげな顔で座っていられるのか、宮さまにお訊きしたいぐらいです。手にした扇であおいでみるけど、起きた風はやっぱりぬるくて、暑いのは維持されたまま。
「美濃のふるさとは、ここより暑いの?」
「そうですね。暑さはここと同じぐらいですが、川が近いので、涼をとることは簡単ですよ」
「素敵なところなのね、美濃のふるさとは」
「いえ、それほどでも……」
川と国司の館は意外と近い。
どうにもならないぐらい暑かったら、川に行けばいい。直接水に触れなくても、川を渡る風だけでも充分涼しかったりする。
美濃は、山の多い国だ。隣の飛騨、信濃の方から流れてくる川と、その山々から流れ落ちる川が幾筋も集まって、綾紐のように絡り、大きな川となって、尾張や伊勢との境を流れていく。豊富な水を利用した水運も発達しているけど、その分、氾濫、洪水といった水害も多い。わたしがこの力を得るキッカケとなったのも、その豊富すぎた水が原因だし。
(こっちでも涼がとれるような川か池があればなあ……)
都にも川はあるけど、東の鴨川はちょっと……正直近づきたくないし、桂川は遠い。神泉苑もあるけど、あそこは帝の許しがなければ入れない禁足地だし。
いっそのこと、避暑ってことで北山か、山科、かなり足を伸ばして宇治なんてのもいいかもしれない。それか、近江の石山寺詣でか、大和の長谷寺詣で。石山寺なら船で湖を渡るし、長谷寺なら山籠もってる上に清涼な大和川が流れてて涼しそう。その点では、宇治も悪くないわ。山と川があるし。結構涼しいんじゃないかな。
などと、涼しくなる方法を考えることで、少しは涼しく――ならない。
滅得心中、火自涼。
――無念無想の境地になれば、火も涼しく感じられるものだ。
な~んて、唐国のオッサンは言ったみたいだけど、何か気を紛らわすようなことを考えても考えなくても、暑いもんは暑いっての。というか、涼しくなる方法を考えちゃったせいで、今が暑いことを余計に意識しちゃったじゃない。どうしてくれるのよ、唐国のオッサン。
「――宮。今しがた、こちらに式部卿の宮さまと、近衛中将さまがこちらに伺いたいと使いが参りました」
開け放たれた御簾の向こう、先触れの使い、応対をした女の童、お仕えする女房という、三段式に言伝が伝わる。
「あら、それはいけないわ。支度をしないと」
それまでグダ~と、炎天下の犬のようにだらけてた命婦さまたちが、シャキッと慌ただしく動き出す。
開けっ放しの御簾を下ろして桜花さまのお姿を隠して。品のいいかおりのお香を焚いて。
お二人のために円座もお出しして。
式部卿の宮さま? 近衛中将さま?
って誰のこと?
「安積親王さまと、先の左大臣どののご子息ですよ」
いまいち理解してないわたしに、「こんな格好じゃ御前に出られないわ!」と、障子の向こうに引っ込みかけた命婦さまが教えてくれた。
安積さまは「式部卿」という位をお持ちで、左大臣の息子は「近衛中将」という役目に就いているらしい。だから、「式部卿の宮と近衛中将」。普通、宮中で本人の名前を呼ぶことはない。わたしだって、菫野じゃなくって、「美濃」って呼ばれてるし。
「貴人の御名ぐらい、きちんと覚えておきなさい」
いや、それは無理。
わたしがここに来て覚えたのは、桐壷流掃除の仕方と、宮さまの愛猫コハクの遊び方だけだもん。ダレノレの宮、ナントカノ中将って言ったら、あの人のことでしょ? みたいなことまで覚えきれない。
「あのお二人はお歳が近いせいか、とても仲がおよろしいのよ」
叱られるわたしに、近くにいた先輩女房たちが助け舟を出してくれた。
「去年の秋だったかしら。大宮さまの古稀の祝賀でお二人が舞われた『青海波』。宮さまに付いて、わたしたちも見ることが出来たのだけど。おめでたい千鳥の刺繍された青柳色の袍に、右肩を脱いだことで顕になった下襲の袖の朱が鮮やかに翻って」
へえ。
「仲良きお二人だから、舞の息もピッタリで。あまりの美しさに、舞い散る黄葉も色褪せたように霞んで」
ほお。
助け舟っていうよりは、「わたくし、とっても素敵な舞台を見てきましたの」自慢だな、これは。
障子の向こうに隠れるのを忘れて、うっとり頬に手を当てて熱弁してくださる。
「天人が愛でて、攫われそうな美しさというのは、ああいうのを言うのでしょうね」
「少し不吉ですけどね。でも大宮さまも、命が伸びる思いだって仰られてたとか」
「おやおや。天人などに攫われてはたまりませんな。宮はもちろん、私もこの世を謳歌したくてたまらないのですから」
クスクスと笑う声。同時に漂ってきた、男らしく、それでいて爽やかな香り。
簀子の縁とを仕切る御簾を払い入ってきた、若い男二人。式部卿の宮こと安積親王さまと、近衛中将こと、先の左大臣の息子、(多分)藤原のナントカさま。(お名前、教えてもらってない)
二人が姿を顕すと、先輩女房たちが「キャアッ!」と軽く悲鳴を上げて、障子の向こうに隠れてしまった。あられもない姿を見られることもだけど、噂してたことが恥ずかしいらしい。「後はよろしく!」とわたしを置いて隠れたけど。……わたしの母さまぐらいの人にかわいらしく「キャアッ!」って叫ばれてもなあ。
「おや。ここの花は恥じらい隠れてしまったのかな」
「中将どの」
「いやいや、奥ゆかしくていいことですよ。昨今の花は、艶やかさばかり競って、恥じらいがない」
安積さまの後に入ってきた近衛中将。安積さまにたしなめられても、先輩女房たちの顛末を褒めるようにして笑い続ける。バッチリ見てたな、この人。
「この世にて 春を知らざり 我なれば いかにか常世の 花を愛でしか――と。この世の花を知りたくてここに伺ったのだけれど。おや、花が一輪、取り残されたようだね」
え? へ?
〝花が一輪〟って、それ、わたしのことっ!?
意味ありげ、意味ありすぎる近衛中将さまからの視線。
慌てて、手にあった広げた扇で顔を隠す。暑いからって、あおいで風を作るんじゃない。ここでの扇の正しい使い方。女房であっても、顔はキチンと隠しましょう。
「ほお……」
わたしの行動に、なぜか中将さまが感嘆の声をあげる。奥ゆかしくて良いとか、そういうの……かな?
「これは、これは……」
続いた言葉に、なんか違う意味があるような。――そう感じるのはわたしだけ?