(四)
「急に訪れて申し訳ないね。退出前に、どうしても桜花の顔を見たくなってしまって、先触れも出さずに来てしまった」
「あ、いえ……」
どうにか手についた瓜汁を拭いて、扇で顔を隠す。
「ここでの暮らしはどうかな? みなとも上手くやってるかい?」
「はい、え、と……。皆さまには、とても親切にしていただいております」
「桜花はわがままを言ったりしてないかい?」
「宮さまは、新参者のわたくしにも、とてもお優しく接してくださいます」
「そうかい? それならよかった」
安積さまがニッコリお笑いになる。
「でも、初めての宮仕えだ。なにか困ったことがあったら、いつでも言うんだよ」
「はい。ありがとうございます」
ああ言われたらこう答える。そう訊かれたらこう答える。
こういうやり取りは、あらかじめ母さまから手引書を用意してもらってたから、応じるのも手引書通りにやれば楽勝、楽チン。
今だって、手引書通りに軽く頭を下げて感謝を伝えてる。おまけにニッコリ笑顔つき。
うん、完璧。
「そう言えば、きみは美濃の育ちだったね」
「はい。父が美濃の国司を務めておりますので」
「美濃の夏はどう? ここよりも暑かったりするの?」
「ええ。でも近くにいくつも川が流れておりますので。そこで涼を取ることが出来ますわ」
そして川が多いとうことは、水運は発達するけど、その分洪水の被害も大きい。わたしがこの強力を得たのだって、それが原因だし。
「美濃が恋しい?」
「そうですわね。あの涼しさと父母を思えば、懐かしく感じますわ。でも宮さまをはじめ、皆さまとても優しくしてくださるので、望郷の念はございますが、寂しくはありませんの」
「強いね、きみは」
「いえ、それほどでもございませんわ」
この辺の受け答えも想定の範囲内。
わずか十六で親元を離れ出仕してきた。故郷の父母を慕う寂しい心を押し隠し、務めを果たす健気な女房。
あとは、夕暮れの山なんか眺めて望郷の歌を口ずさんでおけば、「ああ、なんといういじらしい女房どのだ。惚れた! っていう公達の一人や二人現れるから。男性の庇護欲に訴えて、そこから色恋になだれ込むのよ!」と、母さまに徹底的に仕込まれた。
まあ、安積さまは「色恋なだれ込む」には身分が違いすぎるから、その対象外だけど。でも、どこかからわたしの情報が漏れて、「そんな女房どのがいるなら、一目会いたいものよ」な公達が現れるかもしれないし。
強力を隠して、おしとやか健気な女房を演じる。
公達ホイホイやって来い。素敵な恋愛くり広げるわよ、ホホホのホ。
「――美濃の者たちはみな、きみみたいに強いのかな」
え?
「木を一蹴りして、困っていた猫を助けただろう?」
え? う? は?
想定外が来た。
「兄さま」
それまで黙っていた桜花さまが、安積さまをたしなめるけど。
「僕は、あの心優しいきみの行動に胸打たれたんだよ。木を蹴っ飛ばしてまで助けようとするきみの優しさにね」
言って、またクツクツと喉を鳴らし出した安積さま。……ねえ、それって、全然「心優しい」「胸打たれた」と思ってないわよね。どっちかと言うと、「木を蹴っ飛ばすその豪快さ」に「腹の底から笑った」なんじゃない?
安積さまがここを訪れたのって、桜花さまに会いに来たっていうより、わたしをからかいにきたんじゃないの? 「妹のとこにおもしれーヤツいるから、遊んでこよう」っていう。
思わずムッとしかけた顔を扇で隠す。
「美濃の者が強力がどうかは存じません。ただ、わたくしの力は生まれ持った力だと、父母から伝え聞いとります」
「きみのご両親も強いのかい?」
「父は、相撲が好きでしたわ」
見る方専門だけど。
毎年、都に送り出す相撲人を選ぶ試合を、楽しそうに見ていたけど、父自身はヒョロいので、相撲を取ったら確実に負ける。ポーンとどっかに投げ飛ばされて終わり。
「なるほど。相撲人の血筋か。なら、その力もあり得るのかな」
「はい」
違うけど。
この力は、(川から石をどける)力がほしいと願ったわたしに、孤太がその言葉どおりに授けちゃったものだし。ご先祖様は関係ないし。
でも、力の由来を話しちゃいけないって孤太に言われてるから、そういうことにしておく。狐から授けられたって言ったら、わたしが「狐憑き」とかなんとか噂されちゃうし。そうなると、恋愛どころか宮中から追い出されて、「狐姫」ってことで、一生誰とも恋愛できなくなっちゃう。
強力のことはバレちゃったからどうしようもないけど、その授かった顛末までは知られちゃいけない。
「でも、きみのような強くて心優しい女房が妹のそばにいてくれると心強いよ」
まだ言うか。そんなにわたしをネタに笑うつもりなら、この強力を見せて、いっちょ首でも圧し折ってやろうかしら。
「――僕は、あまり頻繁に妹のところに来ることができないからね」
立ち上がりかけた膝を思いとどまらせるような、元気のない安積さまの声。笑いなんてどっか行っちゃって、心なしか、肩も下がってるような気がする。
「三条の、僕の屋敷に連れて行ければいいんだけど。そういうわけにはいかないから」
そっか。
安積さまは、今年十七歳。とっくの昔に元服をなされてる。臣籍降下したわけじゃないけど、だからって内裏で暮らすことは難しい立場になった。
それに対して、妹の桜花さまは十四歳。母親もなく、寄る辺のない宮中での暮らしを案じて、ここを訪れることは出来ても、一緒に過ごす時間は短い。
「年も近くて、心優しく強い。きみのような存在が桜花のそばにいてくれると、僕も安心できる。桜花の寂しさも紛れるだろうし」
え、と……。
わたしの「強い」は物理的というかなんというのか。
でも、妹を案じる安積さまのお気持ちはよく分かる。
帝は、亡き更衣さまを愛してらしたみたいだけど、そのお子様方に関心が薄いのか、こちらに参られることはない。ここを訪れるのは、兄である安積さまだけ。
その安積さまだって、帝の第一皇子なのだから、本当なら東宮に立たれてもおかしくない生まれなのに、弘徽殿の中宮さまのご実家、左大臣家の権勢に押されて、東宮には一つ年上の異母姉、女一の宮さまが立たれている。
「女が東宮などと」なんて批判も少なからずあるし、「安積さまを東宮に」っていう意見もあるし。
そんな不穏な宮中に大事な妹を置いておかなきゃいけないって、すごく心配なんだろうな。なにか不遇な目に遭ってないか、問題ないだろうかって、兄として気にかけていらっしゃるんだろうな。
「わたくしなどでよろしければ、一生懸命お世話させていただきますわ」
そのご心労の種を少しでも無くせるように。少しでも安心してもらえるように。わたしてよければ、力を貸すわよ。
バキッ。
――へ?
なんか、手元で音が……って、げ。
「フフッ。それは頼もしいね。相撲人なみの力を持ったきみがいてくれたら、とても心強いよ」
わたしの手元、要近くでベッキリ折れかけた檜扇。言葉に力を入れたら、ついでに扇を持つ手にも力が入っちゃったみたい。
「きみがいてくれたら、桜花も退屈しなさそうだ」
ブハッ。
思いっきり吹き出した安積さま。桜花さまも、「美濃……」と絶句したあと、クスクスと笑い出す。
簀子の縁に控える帯刀も、さすがに「女房どの、これを」って檜扇の代わりを差し出してはくれなくて。姿勢を変えずに固まり、目をまん丸にして、折れかけの檜扇を見てるだけ。
プーッ、アハハハハ……。
遠くから、安積さまとも桜花さまとも違う笑い声が、頭の奥に響く。こっちも絶賛、抱腹絶倒中。
――孤太。
アンタ、覚えてなさいよ。
そもそもアンタがこんな力を与えたのが悪いんだからねっ!?