(四)
重い。
体が石になったかのようだ。
石になってズブズブと沼の底に沈んでいくような感覚。
苦しくて、怖くて、あがきもがきたいのに、石のように重いだけの体は、目を開くことも、指一本動かすことも許さない。そのうち、息をすることすら禁じられそうだ。
(これまで、か……)
ずっともがいてきた。ずっとあがいてきた。
この十七年間、生き延びることに必死だった。
(母上、僕はここまでのようです)
――あなたの妹よ、安積。
桜花を産んでしばらくして。それまで宿下がりしていた母が内裏に戻ってきた。まっさらな産着に包まれた桜花と、愛おしそうに妹を抱く母。母は、産後の疲れもあってか、少しやつれていたけれど、それでも変わらず美しく優しい母だった。
――桜花をお願い。
内裏に戻ってわずか十日ほど。
母が急死した。
産後の肥立ちが悪かったからだと言われた。父の寵愛が激しく、弱っているのに無理に内裏に戻ったからだと。
――桃乃!
冷たくなった母の亡骸を抱き、泣き叫んでいたのは父。
なぜ、どうしてと狂ったようにくり返し、母の躯が死臭を放つようになるまで抱き続け、野辺送りを拒んだ。
桐壺更衣は、帝のみ心を抱いて泉下に向かわれた。
周りの者は、そう囁きあった。
桜花を宿し、里に下がった母。その母の元にコッソリ忍んで来て、膨らんできた腹を愛おしそうに撫でていた父。母がまだ早いと止めるのも聞かず、僕に琵琶を教えようとした父。よく笑い、何事にも精力的に取り組む楽しい父だった。
けれど、母を亡くした父は、笑うことを忘れ、何に対しても関心を示さなくなった。生まれたばかりの桜花のことも、僕のことも見ようともしなくなった。
今ある父は、魂を母に持ち去られた抜け殻。
そう思った。
僕はいい。
桜花か生まれるまでの間、父に大事にされたこともあった。
けれど、桜花は。
桜花は、自分に関心を示さない冷たい父の視線しか知らない。母を知らないのに、父に疎まれている。
桜花を守らなければ。
母がいないのなら、僕が代わりに。父が疎むのなら、僕が愛しむ。
桜花が幸せになれるよう、心を砕いてきた。
母を愛していた父は、次の誰かを寵愛するようなことはせず、子は、異母姉と僕、そして桜花だけとなった。
東宮を立てることになった時、本来なら、唯一の皇子である僕が立太子されるはずなのに、父は、先の左大臣の孫娘にあたる姉宮を女東宮とした。
母に似ているといわれる僕が見たくなかっただけなのか。それとも血筋から姉を選んだのか。単に、政に興味がなかったのか。理由は知らない。
だけどそのせいで、政は大いに混乱する。
身分を取るか、男子継承を取るか。先の左大臣が政の中心にいた時は、有無を言わさぬ強引さで、姉が東宮であっても誰にも異論を唱えさせなかった。しかし、左大臣が出家し、政治の空白が生まれた今、「やはり東宮は男子でないと」という声が上がりだす。僕を推すため、桜花を利用する。桜花を妻にした者が僕の後ろ盾となり、僕を帝に押し上げ、権力を得る。
僕が権力闘争に巻き込まれるのはいい。
皇子に生まれたのだから、覚悟はしている。
けれど、そのために桜花を利用されたくない。桜花にだけは、幸せな人生を送ってほしい。
そのためには、桜花を本当に想ってくれる相手と娶せて、僕は出家して世俗から離れたほうがいい。――そう思ってたのに。
(相手のが早かったな)
僕がもう少しだけ桜花を見ていたいと思ってしまったから。桜花のそばにいたいと願ってしまったから。だからこうして、僕に焦りを感じた相手が行動を起こした。僕には毒を。桜花は、彼女のおかげで守れたけど。
(母上、申し訳ありません)
僕はどうやらここまでのようです。
政争に巻き込まれ、毒を盛られることにも疲れました。桜花のことは、僕に代わって、彼女と真成が守ってくれるでしょう。
(菫野――)
桜花を守る手駒の一つとして呼び寄せた美濃の娘。
純真で、真っすぐで、疑うことを知らない彼女なら、僕がいなくなっても、桜花のことを大事に尽くしてくれるだろう。僕に代わって。
(菫野……)
クルクル変わる表情。琴の演奏がとにかく下手で、ちょっとからかえばすぐに真っ赤になるぐらい初心。なのに、木を蹴っ飛ばしてネコを振り落としたり、桜花を抱いて跳んでくるほどの強力。
あおぎ待つ 涼しの風は 吹きぬれど 手たゆくならす 乙女笑みせじ
扇をウッカリ圧し折った彼女。代わりにとふざけて贈った扇への返歌。上手いとは言わない。けれど。
(笑みせじ……か)
河原で遊んでいる時に垣間見た楽しそうな笑顔。宇治を離れる日、僕に「これからいっぱい遊びに行けばいい」と語った笑顔。桜花を連れて脱出してきた時に見せた、少し緩んだ笑顔。
(笑みだらけじゃないか)
いつの間にか、桜花の幸せだけじゃなく、その笑顔も見ていたいと思っていた。けれど。
(それもここまでだ)
諦めが、心と体を支配する。黒く闇に溶け込むように、意識が薄れていく。
〝――安積さま!〟
〝しっかりしてください、安積さま!〟
不意に、意識を闇から引きずり上げられる感覚。――誰だ?
このまま溶けてなくなりたいのに。そうしたら、二度と苦しい目に遭わずにすむのに。顔をしかめたくなる。――顔? もう自分が何者かわからなくなりかけてたのに。――自分?
(スミレ……ノ?)
意識した途端、瞼の裏側までパアッと明るくなった。それまで自分を取り巻いてた凍てつくような寒さが、サアッと後ろに遠ざかっていく。
(温かい……)
かじかんでいた手足まで熱が戻る。固くこわばっていた体から力が抜けていく。
(死にたくない)
さきほどまで、消えることが当たり前だと思っていたのに。
(生きたい)
遠ざかる冬の気配に、迎えた春の喜びに生を渇望する。
閉じたままの瞼から、涙がこぼれ落ちる。
ドクン。
心臓が跳ねる。
僕は。僕は生きていたい。この先もずっと。
「すみ、れ……の……」
体の奥からこぼれた音は、声だったのか。
「大丈夫です。必ずよくなりますから」
ギュッと手を握り返される感覚。少し痛いぐらいの力。でもとても心強い力。
手から、生きる力が流れ込んでくる。その手はまるで、僕をこの世に繋ぎ止める「舫い」のよう。
(菫野……)
かすかに開いた瞼の向こう。僕の手を握りしめる菫野の顔。
下唇を噛み締め、目をグッと開いて涙をこぼして、頬を赤くして。
泣いてるのか笑ってるのか、喜んでるのか。
よくわらかない顔で、一途にこちらを見つめていた。




