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筋肉乙女は恋がしたい! ~平安「強力」恋絵巻~  作者: 若松だんご
六、式部卿の宮、物思ひ煩ひたまふの語
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(四)

 重い。

 体が石になったかのようだ。

 石になってズブズブと沼の底に沈んでいくような感覚。

 苦しくて、怖くて、あがきもがきたいのに、石のように重いだけの体は、目を開くことも、指一本動かすことも許さない。そのうち、息をすることすら禁じられそうだ。


 (これまで、か……)


 ずっともがいてきた。ずっとあがいてきた。

 この十七年間、生き延びることに必死だった。

 

 (母上、僕はここまでのようです)


 ――あなたの妹よ、安積。


 桜花を産んでしばらくして。それまで宿下がりしていた母が内裏に戻ってきた。まっさらな産着に包まれた桜花と、愛おしそうに妹を抱く母。母は、産後の疲れもあってか、少しやつれていたけれど、それでも変わらず美しく優しい母だった。


 ――桜花をお願い。


 内裏に戻ってわずか十日ほど。

 母が急死した。

 産後の肥立ちが悪かったからだと言われた。父の寵愛が激しく、弱っているのに無理に内裏に戻ったからだと。


 ――桃乃!


 冷たくなった母の亡骸を抱き、泣き叫んでいたのは父。

 なぜ、どうしてと狂ったようにくり返し、母の躯が死臭を放つようになるまで抱き続け、野辺送りを拒んだ。


 桐壺更衣は、帝のみ心を抱いて泉下に向かわれた。


 周りの者は、そう囁きあった。

 桜花を宿し、里に下がった母。その母の元にコッソリ忍んで来て、膨らんできた腹を愛おしそうに撫でていた父。母がまだ早いと止めるのも聞かず、僕に琵琶を教えようとした父。よく笑い、何事にも精力的に取り組む楽しい父だった。

 けれど、母を亡くした父は、笑うことを忘れ、何に対しても関心を示さなくなった。生まれたばかりの桜花のことも、僕のことも見ようともしなくなった。

 今ある父は、魂を母に持ち去られた抜け殻。

 そう思った。


 僕はいい。

 桜花か生まれるまでの間、父に大事にされたこともあった。

 けれど、桜花は。

 桜花は、自分に関心を示さない冷たい父の視線しか知らない。母を知らないのに、父に疎まれている。

 桜花を守らなければ。

 母がいないのなら、僕が代わりに。父が疎むのなら、僕が愛しむ。

 桜花が幸せになれるよう、心を砕いてきた。

 

 母を愛していた父は、次の誰かを寵愛するようなことはせず、子は、異母姉と僕、そして桜花だけとなった。

 東宮を立てることになった時、本来なら、唯一の皇子である僕が立太子されるはずなのに、父は、先の左大臣の孫娘にあたる姉宮を女東宮とした。

 母に似ているといわれる僕が見たくなかっただけなのか。それとも血筋から姉を選んだのか。単に、政に興味がなかったのか。理由は知らない。

 だけどそのせいで、政は大いに混乱する。

 身分を取るか、男子継承を取るか。先の左大臣が政の中心にいた時は、有無を言わさぬ強引さで、姉が東宮であっても誰にも異論を唱えさせなかった。しかし、左大臣が出家し、政治の空白が生まれた今、「やはり東宮は男子でないと」という声が上がりだす。僕を推すため、桜花を利用する。桜花を妻にした者が僕の後ろ盾となり、僕を帝に押し上げ、権力を得る。

 

 僕が権力闘争に巻き込まれるのはいい。

 皇子に生まれたのだから、覚悟はしている。

 けれど、そのために桜花を利用されたくない。桜花にだけは、幸せな人生を送ってほしい。

 そのためには、桜花を本当に想ってくれる相手と娶せて、僕は出家して世俗から離れたほうがいい。――そう思ってたのに。


 (相手のが早かったな)


 僕がもう少しだけ桜花を見ていたいと思ってしまったから。桜花のそばにいたいと願ってしまったから。だからこうして、僕に焦りを感じた相手が行動を起こした。僕には毒を。桜花は、彼女のおかげで守れたけど。


 (母上、申し訳ありません)


 僕はどうやらここまでのようです。

 政争に巻き込まれ、毒を盛られることにも疲れました。桜花のことは、僕に代わって、彼女と真成が守ってくれるでしょう。

 

 (菫野――)


 桜花を守る手駒の一つとして呼び寄せた美濃の娘。

 純真で、真っすぐで、疑うことを知らない彼女なら、僕がいなくなっても、桜花のことを大事に尽くしてくれるだろう。僕に代わって。


 (菫野……)


 クルクル変わる表情。琴の演奏がとにかく下手で、ちょっとからかえばすぐに真っ赤になるぐらい初心。なのに、木を蹴っ飛ばしてネコを振り落としたり、桜花を抱いて跳んでくるほどの強力。


 あおぎ待つ 涼しの風は 吹きぬれど 手たゆくならす 乙女笑みせじ


 扇をウッカリ圧し折った彼女。代わりにとふざけて贈った扇への返歌。上手いとは言わない。けれど。


 (笑みせじ……か)


 河原で遊んでいる時に垣間見た楽しそうな笑顔。宇治を離れる日、僕に「これからいっぱい遊びに行けばいい」と語った笑顔。桜花を連れて脱出してきた時に見せた、少し緩んだ笑顔。


 (笑みだらけじゃないか)


 いつの間にか、桜花の幸せだけじゃなく、その笑顔も見ていたいと思っていた。けれど。


 (それもここまでだ)


 諦めが、心と体を支配する。黒く闇に溶け込むように、意識が薄れていく。

 

 〝――安積さま!〟


 〝しっかりしてください、安積さま!〟


 不意に、意識を闇から引きずり上げられる感覚。――誰だ?

 このまま溶けてなくなりたいのに。そうしたら、二度と苦しい目に遭わずにすむのに。顔をしかめたくなる。――顔? もう自分が何者かわからなくなりかけてたのに。――自分?


 (スミレ……ノ?)


 意識した途端、瞼の裏側までパアッと明るくなった。それまで自分を取り巻いてた凍てつくような寒さが、サアッと後ろに遠ざかっていく。


 (温かい……)


 かじかんでいた手足まで熱が戻る。固くこわばっていた体から力が抜けていく。


 (死にたくない)


 さきほどまで、消えることが当たり前だと思っていたのに。


 (生きたい)


 遠ざかる冬の気配に、迎えた春の喜びに生を渇望する。


 閉じたままの瞼から、涙がこぼれ落ちる。

 ドクン。

 心臓が跳ねる。

 僕は。僕は生きていたい。この先もずっと。


 「すみ、れ……の……」


 体の奥からこぼれた音は、声だったのか。


 「大丈夫です。必ずよくなりますから」


 ギュッと手を握り返される感覚。少し痛いぐらいの力。でもとても心強い力。

 手から、生きる力が流れ込んでくる。その手はまるで、僕をこの世に繋ぎ止める「舫い」のよう。


 (菫野……)


 かすかに開いた瞼の向こう。僕の手を握りしめる菫野の顔。

 下唇を噛み締め、目をグッと開いて涙をこぼして、頬を赤くして。

 泣いてるのか笑ってるのか、喜んでるのか。

 よくわらかない顔で、一途にこちらを見つめていた。

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