(三)
「あの、宮さま。どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもない。なんでもないよ」
そうかなあ。
安積さま、笑って答えてくださったけど。
なんでもなさそうでもないお顔なんだよなあ。
夜遅く、内裏からお戻りになった安積さま。
牛車から降りてからずっと、手を握ったり開いたりをくり返してるし。
「宴で緊張してたのかな。今になってホッとして痺れてる感じなんだ」
「お厳しいお父上なんですか?」
「え?」
「だって、それって、お父上の前で演奏するのに、緊張したってことですよね?」
安積さまのお父上。帝って、そんな音楽に厳しい人なのかしら。ちょっとでもおかしな演奏したら、「そこ、違う!」ってお怒りになるような。多分、演奏を聴いておられる間、ずっとしかめっ面してそうな。ウチだったら、ちょっとぐらい間違えても、「テヘ」で済むけど。帝室ともなれば、音楽も完璧でないと叱られちゃったりする? 安積さまほど素晴らしい奏者でも納得されない?
「いや、そういうわけじゃないけど……。もし、僕の父がそんな人だったら、菫野はどうする?」
「絶対、御前で演奏しません!」
回れ右して遠慮させていただきます!
「ハハッ。大丈夫。父はそんな怖い方じゃないよ。七絃の琴の名人ではあらせられるようだけど」
「へえ。じゃあ、宮さま方の演奏の上手さは、お父上譲りってことなんですね」
七絃の琴がどんなものか知らないけど、安積さまも桜花さまもとてもお上手だもん。きっとお父上の血を引いていらっしゃるからよね。
としたら、わたしは「まあまあ」程度の母と「ほどほど」具合の父の血を引いてるから……「それなり」にはなるはずなんだけど。――あれ? わたし、「それなり」になってる? どうだ?
「――今日は、このまま休ませてもらうよ」
単衣に袿という、くつろいだ格好に着替え終えても、手を気にされる安積さま。
「そうですね。無理せず、ゆっくり休んでください」
よっぽど緊張してたんだろう。それなら、喋ってないで早く寝た方がいい。
「共寝してくれる誰かがいれば、疲れもとれると思うんだけどねえ」
「もう! そういうふざけたことをおっしゃってないで、早く休んでください!」
わたしだってバカじゃないんだから。いつまでも、そういう事言われて、アタフタする新米女房じゃないんですからね!?
「ハハッ。共寝したら、それこそ有明の月を見るまで目が冴えてしまいそうだから止めておくよ」
だーかーらー。
グイグイと、安積さまの背中を寝所に向けて押し出す。
「……おっと」
その背中がぐらつき、安積さまが片膝をつかれた。
「申し訳ありません!」
わたし、強く押しすぎた?
「いや。ちょっと目まいがしただけだよ。なんでもない」
言って柱に手をかけ、立ち上がろうとなさるけど。
「あっ! あぶない!」
立ち上がるどころか、そのまま倒れ込む安積さま。とっさに手を出し、その体を支えるけど。
(何これ)
末端の指先は氷のように冷たいのに、触れた体は燃えるように熱い。聞こえる息の音はとても浅くて速くて苦しそうで。間近で見た顔は、紙のように真っ白。
(緊張が解けかたからって、こんなふうになる?)
さっき、着替えを手伝った時はなんともなかったのに。
なにかおかしい。
こんな急な体調変化なんて、あり得ない。
「宮さま、失礼しますね」
全く力の入らなくなってる安積さまの体を、グイッと脇の下から肩で持ち上げ、そのまま寝所まで運んでいく。
「大胆な床入りだね」
「そんなこと言ってる場合ですか!」
絶対、こんなのおかしい。おかしすぎる。
「典薬医を呼びます!」
それか、僧都か誰か。
「呼ぶ、な。呼んじゃ、ダメ、だ」
わたしの腕をガッと掴んだ安積さま。
言葉は途切れがちになるぐらい辛そうなのに、その手は信じられないぐらい力がこもっていた。
「大丈夫……だよ。慣れてる、から。明日の、朝には、元、通り……」
「安積さまっ!?」
運ぶ体がズンッと重くなる。呼びかけても反応が全くない。
* * * *
(どうしよう……)
床にお寝かせしても、一向によくなる気配はない。それどころか、ドンドン顔色が悪くなっていってる気がする。
(これで、朝になったら元通りはないよね)
せめてもの看病として、額に水で冷やした布をあてて差し上げるけど、効果があるようにも見えない。息は浅いままだし、とても苦しそう。目も覚まされない。
こんなの、一晩寝ただけで治るような状態じゃない。それどころか、一晩経ってしまえば、さらに悪化してしまう。
(典薬医を呼ぶ?)
安積さまには止められたけど。でも、このまま放っておいていいわけない。
こういう時、あの帯刀がいてくれたら、的確な判断を下せるんだろうけど。帯刀が戻ってくるのは、明日の朝。今から使いを飛ばしても、すぐに帰ってこれるわけじゃない。
(誰か、誰か、安積さまを助けて――!)
「――おい、菫野! 大変だ! ……って、倒れたのか、ソイツ」
「孤太!」
寝所に飛び込んできたのは孤太。
「ねえ、アンタ、病気とか怪我とか治す力あったよね!?」
その姿に、パッと頭にひらめく。孤太は、妖力でわたしの手の怪我を治してくれた。もしかしたら、安積さまの容態も治してくれるかもしれない。
「あるにはあるけど。でも両方を同時にどうにかすることはできないぜ?」
「両方?」
「今、この屋敷に向かって呪詛がかけられてる」
「呪詛っ!?」
「ああ、それもかなり強力なやつだ。この宮さんを呪い殺す気満々のやつ」
「もしかして、この体調の急変って呪詛のせい?」
「それも一因だろうけど、それだけじゃねえよ。宮さん、毒も盛られてるぞ」
「毒っ!?」
呪い殺そうとするだけで足りないっての? 毒まで盛って、確実に仕留めようって思ってるの?
「そんな……」
誰が? どうして? なんで安積さまを?
人をからかうこともあるけど、とっても妹思いでお優しい方なのに。誰かに、そこまでして死んでほしいって願われてるの?
愕然と体から力が抜ける。代わりに、フツフツと湧いてくる怒り。
「助けてやることはできるけど、どっちかだけしかできねえ。特に呪詛は、複雑で高度な術式が使われてるからな。解呪だけで手いっぱいになる」
じゃあ、どうしたら。
解呪できても、毒が回れば助からない。毒が抜けても、呪詛で殺される。
「――これを使うといいよ、女房どの」
サヤと御簾が動いた。
「ち、中将さま?」
「呪詛はその童に任せるとして、毒に関してはこちらを飲ませて差し上げれば問題ないよ」
差し出されたのは、小さな竹筒。
「あの、どうしてここに」
こんな折よく現れたの? それも薬持参で。
「内裏を退出するときから、具合が悪そうになさっていたからね。ちょっとこちらに寄らせてもらったんだ」
「寄らせて」っていうか、「忍び込んで」きたのでは?
屋敷には、侍とか雑仕とかもいるのに。女のところに忍び込みなれて磨かれた技とか?
「それよりも、早く飲ませて差し上げないと。毒自体は、しびれをきたすだけの弱いものだけど、呪詛と重なれば衰弱が激しくなる」
半ば無理やり手渡された竹筒。わたしの手の中で、タプンと水の揺れる音がした。
でも。
(これ、飲ませても大丈夫なの?)
中将さまが悪い人だとは思えない。
でも先日の桜花さま誘拐事件とか、怪しいといえば怪しすぎる人物でもある。
そして今、待ってましたとばかりに、折よくこれを持ってきた。安積さまが毒を盛られたことも知っている。
これが、とどめを刺すための毒だったら? 飲ませてさらに悪化したら?
手のなかの竹筒をギュッと握りしめる。
「菫野どの」
近くに座った中将さまが、まっすぐにわたしを見る。
「信じられないのはもっともだ。けど今は。今だけは、私を信じてくれないか」
「中将さま……」
ジッとわたしを見る目。
「――わかりました」
わたしは、この目を知っている。
軽く息を吐き出し、竹筒に刺さった栓を抜く。
「信じるのかよ」
「信じるわよ」
孤太に答えて、一口だけ飲む。
うげ。不味い。
「もしこれが毒なら、わたしも死んで怨霊になって、よくも騙したわねって、中将さまを呪い殺せるし」
「――おいおい」
「宮さまにしか効かない毒なら、この後中将さまの首を圧し折ってやればいいだけだし」
「おっかねえなあ」
「お手柔らかに頼むよ、女房どの」
怯える孤太に、軽く笑う中将さま。
「大丈夫ですよ。この薬が効いたら何もしませんから」
もう一度栓を抜き、今度は薬を口いっぱいに含む。意識のない安積さまに薬を飲ませるにはこれしかない。
(ごめんなさい……)
安積さまの両頬を押さえ、唇を重ねる。一滴たりともこぼさないように、飲み下せるように、ゆっくりとその喉へと薬を流し込む。
「あとは、孤太。頼むわよ」
「わかった。オレもこういう陰険な術は大嫌いだからな。一発〝呪詛返し〟ってヤツをぶちかましてやるよ」
立ち上がると、そのままピョンピョンっと庭先を駆けて飛び上がった孤太。その姿は、あっという間に暗闇に紛れる。
「身軽な童だね」
「そ、ソウデスネ」
冷や汗ダラダラ。
暗闇に、ケツケツと狐の遠吠えが響く。




