(二)
「なあ、もういい加減、美濃に帰らねえか?」
安積さまが参内なさって、人の少なくなった屋敷で、孤太が言った。
「他の女房たちは家に帰ってるってのによ。アンタだけ働いてるって、不公平だろ」
「だからって、やめるわけにはいかないじゃない」
それに、その場合、帰るとしたら美濃じゃなくて、都にある父さまの屋敷でしょうが。
「オレ、飽きちゃったんだよなあ、内裏とか都とか。よくない気だらけだし。息が詰まる」
「よくない……気?」
なにそれ。
誰の目もないのをいいことに、ゴロンと転がった孤太に問いかける。
「ああ、アンタは気づかないか。ここ、ものすごい負の気だらけなんだよ。呪いたいほど誰かを恨んでたり、憎んでたり。もうすでに、〝呪い〟になってるヤツもあるかな。生霊ってやつもあちこち飛んでる」
「ちょっと! そういう怖いこと、ポンポン言わないでよ!」
夏なのに、背中がゾクゾクする。
「言っても言わなくても、そこにるの、変わんねえんだけど?」
「でも言われなかったら気にならなかったんだから!」
いるのに見えなくて、気にならなかったのと、いるってわかっても見えないってのは、恐怖の度合いが違う。いるならちゃんと姿を見せなさいよって思うけど、見たら見たで怖いので、やっぱり見えなくていいですって思ったり。できることなら、見えないまま、どっか行ってくれるとありがたい。
「……ねえ、ってことはこの屋敷にもいたり――する?」
とても素敵な、品のいい安積さまのお屋敷だけど。
「ん――、ここにはいねえ。オレがいるからな」
「アンタがいると、変わるの?」
「これでもオレ、妖狐だぜ? あやかしも怨霊も、追っ払うぐらいの力はあるっての」
そっか。そうなんだ。
そうやってゴロンって転がってると、クソ生意気な小舎人童にしか見えないから忘れかけてたけど、コイツ、そもそも妖狐だったんだわ。
わたしにこんな強力を授けるぐらいなんだから、怨霊を追っ払うぐらいできて当たり前なのかもしれない。
「で、どうするんだよ。美濃に帰るのか? 帰らねえのか?」
「帰らないわよ」
「美濃なら怨霊もなにもいねのに?」
その言葉に、思わずグッと喉が鳴る。怨霊がいないのは、ホッとできていいんだけど。
「こんな中途半端なところでほっとけないのよ。桜花さまもまだお戻りになれない状況だし」
「そんなの、アンタには関係ないじゃん」
「関係あるわよ。大アリよ!」
ちょっと大きな声で言い過ぎたかな。少し気を落ち着けて座り直す。
「わたし、安積さまはもちろん、桜花さまにもお幸せになって欲しいの。だから、こんな中途半端なところで離れたくないのよ」
「怨霊がいても?」
「怨霊がいても」
「呪いだらけでも?」
「呪いだらけでも」
「怖くねえのか?」
「怖いわよ」
当たり前のこと、訊かないで。
「でも、震えてるぞ」
「う、うるさい! これは、そのっ、悪漢とっちめてやるぞっていう、その前の震えよ! やる気と力が漲っちゃってるのよ!」
ウソだ。それも大ウソ。
怨霊や呪いは見えないからまだいい。なんとかやり過ごせる。
でも。
体がブルブルじゃなくカタカタと震えてるのは、自分でもわかってる。
(怖いんだ)
あの夜の事件。
侍たちに連れ去られたことももちろんだけど、大立ち回りのときに見た刀。牛車をぶっ壊して応戦したけど、月明かりにギラつくあれは、あれは――。
自分の強力を過信してるわけじゃない。強力だって、多勢に無勢となれば勝ち目はない。ううん。そもそもわたしは武人でも侍でもないんだから、そういう覚悟とか度胸なんてものはない。「やってやらあ!」なんていうヤケっぱちしかない。
あの時、なんとか逃げおおせたからいいけど、もしかしたら、もしかして……。
「ほれ」
目の前で、白い煙が上がる。すぐに消えた煙のなかから現れたのは、茶色の毛並みを持ったキツネ。
「今日だけ特別に、尻尾、触っていいぞ」
「孤太……」
フサフサ、タシタシと尻尾で床を叩く。
「なんだよ。狐に戻って、誰かに見られたらとか言うのか?」
「ううん。ありがとう」
軽く礼を言って、その尻尾を触らせてもらう。
(そういえば美濃にいた時も、こんなことあったっけ)
わたしが雷を怖がってた時とか、お化けの噂を聞いて眠れなくなった時とか。
「しゃーねえなあ」って言って、「特別だぞ」って、尻尾を触らせてくれた。フサフサの尻尾を触ってると、縮こまっていた心がほぐれてくる。その心遣いがうれしくて、伝わる温もりがうれしくて。
自称長生きの孤太からしてみれば、わたしは完全に赤子の扱いなんだろうけど。
「ありがとう、孤太」
尻尾だけじゃ物足りなくて、目の前の狐をギュッと抱きしめる。孤太の体は、尻尾よりも温かくてなめらかで。頬ずりするととても気持ちいい。
「こら! 毛並みが乱れ……っ! グエッ! た、頼む、力を抜い……、グエエエエッ」
ジタバタ暴れた孤太。
腕を緩めると、ピョンッと逃げ出して、わたしから距離を取った。
「ふう。押し潰されるかと思った」
ポンッと、また小舎人童に戻った孤太。
「アンタさ、強力すぎるんだから、もうちょっと加減してくれよな」
人の形をとっても毛並みが気になるのか、しきりに腕や肩を手で払って撫でる。
「うるさいわね。こっちがせっかく感謝してるってのに」
やっぱりこの狐、口が悪くて腹立つわ。
* * * *
調べが、夜の闇のような空に吸い込まれる。
最後の一音を奏で終え、その余韻が消えるとともに、控えていた公卿たちから、感嘆の息が漏れる。
「さすがですな」
「素晴らしい」
その賞賛は、誰から聞きたかったのか。口の端がゆがむのを押さえ、琵琶を置く。
父帝の無聊をお慰めするために開かれた宴。なのに、その父の姿はどこにもない。宴が始まって早々に席を立たれてしまったのだ。
(宴など興味がない。そういうことか)
琵琶を奏でる息子にも興味がない。
息子が宇治に出かけていたことも。娘が具合が悪くなったことも。知らないわけではないだろうに、一言も話しかけたりしてこなかった。
母が亡くなって以来、父は誰にも何にも興味を示さない。まるで、亡き母とともに父のみ心も常世におられるかのよう。今ある父はその抜け殻。だから、母が遺した娘にも感心を抱かない。
「いやあ、とても素晴らしい琵琶の音でしたな」
「権大納言どの」
「あまりの素晴らしい演奏、そのご様子に、月も恥じいって出てこられぬようですなあ」
宇治で見た時は、水面を銀色の波で彩った明るい月だったのに。遅くに昇った月は、早々に雲に隠れてしまった。
「恥いるのは、月だけではありませんよ。僕も弟君の素晴らしい笛の音に、琵琶を弾く手を止めそうになりました」
「いやいや、愚弟の笛ごとき。お耳汚しでなければよいのですが」
「兄上、ヒドいなあ。私だって頑張って吹いたんですよ」
権大納言の謙遜に、明るくつっかかっていくのは、愚弟と呼ばれた近衛中将。
「お前は、宇治だ北嵯峨だと、遊び呆けてばかりだったではないか。笛の練習も疎かにして」
「うう、それを言われると耳が痛いなあ」
中将が顔をしかめて耳に触れる。その仕草に笑いが起きる。
「そういえば、権大納言どのは和琴がお得意だとか。一度、ご兄弟とともに奏じてみたいものです」
「いやいや、わたくしめの琴など……」
「琴は、曲の要。権大納言どのとともにあれば、拙い僕でも、素晴らしい楽を奏でられそうな気がします」
琵琶はその場の一番身分ある者が奏でる楽器。琴は、奏じる曲を律する楽器。まるで政のような楽器の関係。
その琴を弾くように勧めても、こうして遠慮する。「では、わたくしめが」とならない謙虚さを、この男は持っている。
父親の、入道となった先の左大臣とは違う。入道ならば、「では」と膝をすすめ、琵琶も笛の音もかき消すぐらいの音声で和琴を演奏しそうなのに。
次の除目で父親の跡を継ぎ、左大臣になるであろう男は、人の良い、謙虚な人物。
まあそれも、そう思わせるように演じているだけかもしれないが。
油断はできない。
「それを申したら、帝の奏でられる七絃の琴は、この世のものとも思えぬ、素晴らしい調べでございますよ」
「父帝の?」
「ええ。その素晴らしさは天地さえ心動かされるほどだとか。楽を聴こうと龍神が舞い降り、そのおかげで日照りに苦しむ都が救われたことがあるとか」
「へえ」
父がそのような奏者であったとは。
七絃の琴は王者の楽器。演奏は秘伝、一子相伝の技。
帝である父が奏法を知っていたとしてもおかしくないが、龍を呼んだというのは誇張だろう。そもそも、僕は父が七絃の琴を弾くことすら知らなかった。僕は、父にとって相伝に値する息子ではないから。
「では僕も、雨の一滴ぐらいもたらせるように、精進しないといけませんね」
言って、曇った夜空を見上げる。
(月が見えなくてよかった)
こんな汚れた地上など、明るく照らす必要はない。
うわべだけの言葉。笑い。その下では、醜くドロッとした感情が渦巻いている。
(月は、彼女たちだけ照らしていればいい)
汚れを知らぬ、無垢な春の花だけを。
胸のうちに広がる苦い思いに、近くにあった盃を飲み干した。