(五)
「――宮。先日読経を勤めた阿闍梨が、宮にお話したいことがあると使いをよこしているのですが、いかがいたしましょう」
筵道もちゃんと見つかって、あとは出発するだけってなったときに、荘を預かる家司が伝えに来た。
「僕に?」
「はい」
馬に乗りかけた安積さまが、手綱を持ったまま驚く。
安積さまだけじゃない。すでに牛車に乗り込んでるわたしや桜花さまも、別の牛車に分乗してる先輩女房たちも、みんな驚いてる。
ここまで準備したのに?
安積さまが阿闍梨さまにお会いになるのなら、出立は延期?
わたしたちだけじゃなく、同行する随身や舎人たちも「ええ~」って顔をする。「せっかく準備ができたのに」って顔。「なんで今になってお話したいことが出来るんだよ」「出立は中止かあ」ってとこだろう。「めんどくさい」が最上位。
「わかった。じゃあ、僕が会いに行こう」
そのまま鐙に足をかけ、馬に跨った安積さま。
「桜花たちは先に船着き場に行っておいで。僕も後から追いつくから」
「わかりましたわ。わたくしたちは、渡河の支度をしてお待ちしております」
「うん、頼むよ」
桜花さまが了承すると、わたしたちより先に門を出た安積さま。同じく馬に跨った帯刀を連れ、そのまま駆け去る。
(カッコいいなあ……)
その後ろ姿に思う。
公達であっても、馬に乗るのは普通。馬を駆けさせる公達は珍しくもない。
荒々しく武者が馬を駆けさせるのとは違う、凛とした後ろ姿なのに、どこか男らしさも感じる。乗馬のうまさなんてわかんないけど、素直に「カッコいい」って思った。
その後ろ姿が遠ざかってから、わたしたちの乗った牛車がゴトリと音をたて、ゆっくりと前へ歩み始めた。
「菫野は、兄さまをどう思う?」
「へあっ!?」
牛車が進み始めて間もなく。いきなりの桜花さまからの問いかけ。
「兄さまを、少しは好ましいって思ってくださる?」
「こっ、こここ、好まっ、好ましいってっ!?」
何を訊いてくるんですか、桜花さまっ!
暑いからじゃない、別の汗が額一面にびっしり滲む。
「大丈夫よ。ここにはわたくしと菫野しかいないわ」
「えっと、まあ、そうなんですけど……」
正確には、わたしと桜花さまとコハク一匹。先輩女房たちは別の車。
「菫野は、兄さまのこと、好き? それとも嫌い?」
「えっと、えっと、あの……、その……」
滲んだ汗が、ダラダラと滝のように流れ落ちる。桜花さまを見ることが出来なくて、目はフヨフヨマヨマヨ、視線を彷徨わせる。
自分でもよくわからないのに、どう説明しろと?
「兄さまはね、出家なさるおつもりなの」
「えっ!?」
どうして? なんで?
ポツリと、呟くように言われたことに驚く。
安積さまって、たしかわたしより一つ年上なだけだよね? まだ十七だよね?
それで出家? そんなに信心深くいらっしゃったの? それか病を得て、御仏にすがりたいと思っていらっしゃるとか?
出家と言われて、それぐらいしか理由が思いつかないんだけど。
「阿闍梨さまとお話しって。きっと、そのことで相談されてたのだわ」
暗く沈んだような桜花さま。兄が出家となれば、その寂しさは理解できるけど。
「それはないんじゃないでしょうか。ほら、普段お唱えするお経の解釈のことで、相談されてたのかもしれませんし」
そうよ、そうだわ、そうなのよ。
わたしをからかったりふざけることも多い安積さまだけど、ちゃんと真面目にやらなきゃいけないことは押さえていらっしゃるっていうか。親王さまらしいところもあるから、それで、お経の解釈について、阿闍梨さまにお尋ねになったりしてたのよ。で、その回答を伝えたいから、お会いしたいって阿闍梨さまがおっしゃったのよ。うん。きっと、そうよ。そうなのよ。
安積さまなら、すっごく麗しい僧になるだろうけど、そういうことじゃないわよ、きっと。
だって、僧になったら宮中に参内するのも難しくなるし。「桜花には、幸せになって欲しいんだ」っておっしゃってた安積さまが、そんな妹を置いて出家なさるなんてありえないと思うけど。
「わたくしね、菫野には、兄さまを俗世につなぎとめる〝舫い〟になってほしいって思ってるの」
「舫い……ですか?」
船を川に、海に、水辺につなぎとめる舫い。
それは、わたしでなくても、桜花さまでも充分なのでは?
「兄さまは、わたくしのために、どれだけ居心地が悪くても一緒に居てくださる。でも、わたくしの未来を思って出家なさることも考えていらっしゃる」
「桜花さま……」
「わたくしはね、兄さまに、ご自身の幸せを求めてほしいって願ってるの。わたくしのためじゃない、自分のために生きてくださいって。そのためには、わたくしじゃない誰かが兄さまには必要なの」
今あることが桜花さまのためで、出家することが未来の桜花さまのためでもある。
よくわからない理由。よくわからない状況。
けど、桜花さまは安積さまの出家を良く思っていらっしゃらなくて。なんとか思いとどまらせたいと願っている。
(でも、よく考えたら、親王である安積さまが出家って、よっぽどのことなんじゃない?)
安積さまは、帝の第一皇子。
亡き母君が桐壺更衣という身分が低い方だったので、東宮に立つことができず、代わりに、外祖父に先の左大臣を持つお二人の異母姉、女一の宮さまが立太子なさった。
――生まれた腹より、皇子であることを。
――皇子がおられるのに、内親王が東宮に立つのはおかしいのではないか。
そういう声があるのは知っている。
貴族のなかには、安積さまこそ東宮にふさわしいと推している者もいる。
安積さまを立太子することで、自分が先の左大臣に成り代わって権力を得たい。でもそのためには、それなりの見返り、約束めいたものがなければ、行動を起こせないわけで。「東宮に推してやるから、代わりのものを寄越せ」ってなって、安積さまがお渡しになれるものっていったら――あ!
(桜花さま……だ)
桜花さまをその貴族に嫁がせたら、ソイツは全力で安積さまを支援するだろう。だって、嫁の兄だもん。安積さまが将来帝になられたら、見返りウッハウハだもん。先の左大臣なんて目じゃないわよ。
そして塗り替えられる勢力図。先の左大臣家は落ちぶれて、その貴族が新たな大臣になる。
でもそうなると、桜花さまは安積さまのために、愛してもない貴族に嫁ぐことになる。桜花さまがどれだけ帯刀を愛していらっしゃっても、政争の駒にされてしまう。
(もしかして、それを封じるための出家……とか?)
あり得る。あり得るわ。
だって、安積さま、おっしゃってたもん。「桜花には、幸せになって欲しいんだ」って。あの帯刀が桜花さまを盗んでくれたらって。
桜花さまの幸せのために、ご自身を取り巻く政のしがらみに桜花さまを巻き込まないためには、安積さまが出家するしかない。出家して俗世と縁を切ったら、もう誰にも桜花さまの未来を邪魔はできない。桜花さまの未来は自由だ。
――桜花には。
この言葉の意味を、ようやく理解できた気がする。自分は出家して、俗世と未来を捨てるけど、せめて妹にだけは人並みの幸せを掴んで欲しい。そう安積さまは願ってる。
けど、桜花さまは、それを望んでいらっしゃらない。桜花さまは桜花さまで、安積さまの幸せを願っていらっしゃる。(わたしのことは置いといて)誰かと、恋をして幸せになることを望んでいらっしゃる。
(もどかしい……)
どうして、兄妹いっしょに幸せを掴んじゃいけないんだろう。
〝――おい、菫野。聞こえるかっ!?〟
突然、わたしのなかのもどかしさをふっ飛ばすように、頭にガンッと響いていた声。
(孤太?)
声の主は孤太。妖力を使って、音にならない声で喋りかけてきてる。
〝お前の乗ってるこの牛車、なんかおかしいぞ! 船着き場とは違う方に向かってる!〟
「なんですってっ!?」
思わず声を上げる。船着き場と違う方向?
「――菫野? どうしたの?」
問いかける桜花さまを置いて、後ろの御簾から外を見る。篠の目からのぞく、外の景色。後から付いてきてるはずの先輩たちの牛車はどこにもなく、いるのは警固についた、いかめしい顔の随身のみ。
「いかがなさいましたか、女房どの」
わたしが覗いたことに気づいたんだろう。随身の一人が声をかけてきた。
「いたずらに外を眺めておいでになると、大変危険ですよ。ゆっくりとお座りください」
言葉の後につけられた「ニヤ」。
座ってないと、均衡を崩して危険だよ――ではなく、黙ってそこにいねえと命はねえぞ――に聞こえるのは気のせい? ううん。絶対気のせいじゃない。
「菫野……」
だって、そこからグンッと牛車が速度を上げたし。ガラガラガタガタと、牛車は座っていても舌を噛みそうなぐらい車体を揺らす。普通の随身や牛飼い童なら、内親王さまをお載せして、こんな無茶苦茶な走りをしないはず。
「大丈夫です。大丈夫。わたしがついてますから」
怯える桜花さまをどうにか抱きしめる。
なにがいったいどうなってるのか、まったくわからない。
だれがどうしてこんなことをしてるのかも。どうしてそうなったのかも。
(どうしよう……)
大丈夫なんて保証はどこにもない。安心なんてどこにもない。
ヒヤリと冷たい汗が額から流れ落ちた。