(二)
「だ~か~ら~、オレのせいじゃないって」
目の前に座る、水干姿の小舎人童が言う。
「あれは、勝手にあの猫が追いかけてきたんだよ」
オレは悪くない。悪いのは、追いかけてきた猫。そう主張するけど。
「アンタがあそこにいなかったら、猫だって追いかけてったりしなかったわよ」
女二の宮、桜花さまの飼い猫、コハク。
いつもは、柱にくくった紐に繋がれてるんだけど、桜花さまがわたしによく見せてくださろうとして、紐を外したのがいけなかった。
いろんな気配にさとい猫は、抱き上げた命婦さまの腕からスルリと逃げ出して、ピョンピョンピョーンと庭先の木に登ってしまった。――コイツを追いかけて。
「ああ、どうしましょう」
「姫宮さまの猫が……」
オロオロするだけの命婦さまと先輩女房方。
雑色か舎人を呼んで、下ろしてもらおうかしら。でもそうすると、姫宮さまのお姿を、見られてしまうわ。では、御簾を下ろして、几帳を置きましょう。ああ、木に登らせたら、思わぬ角度から見えてしまうかもしれないから、衝立も必要かしら。それとも屏風? 半蔀もおろしたほうがいいかしらね。ああでも、そうしたらコハクさまの様子がうかがえないわ。もし、目を離してる間に落っこちでもしたら、ああ。
とまあ、木に登ってしまったコハクさまを巡って、ああでもないこうでもないと騒ぎ続けていらした。しまいには、「誰よ、暑いからって、なんでもかんでも開けっ放しにした人は!」みたいな、八つ当たりに近い怒声も出てきて。
桜花さまも、コハクさまが気になるのか、立ち上がって端近まで出ようとなさるもんだから、それをお止めしようとする者、ガタガタと几帳だ御簾だと動かす者で、桐壺にある桜花さまの御局は、てんやわんわの大騒ぎになってしまった。
わたしもその「大変だわ、どうしましょう」っていう女房方の空気と、「心配だわ、どうしましょう」っていう桜花さまの憂いに圧されてさ。つい、「じゃあ、わたしが助けに参ります」って言っちゃったのよ。
猫が登ったのは、そこの木でしょ? 遠くへ行ったわけじゃないし、ちょっと猫を捕らえるぐらい大丈夫でしょ? って。
庭に降りるのにも、木を蹴っ飛ばすにも袿は邪魔だったから脱ぎ捨てた。ズルズル引きずる袴はたくし上げて腰のところでまとめた。どっちも汚したら、頑張って用意してくれた父さまに申し訳ないしね。
で。
でよ。
猫の登った木、わたしのお腹あたりの高さのとこを、ガーンッと蹴っ飛ばしたのよ。ちょっと揺らす程度、木を折らない程度の力加減で。
そうしたら、バラバラと落ちる木の葉に混じって、目をまん丸にしたコハクさまも落っこってきたの。それを「ヨッ」と受け止めて。
受け止めて。受け止めたまではいいのよ、受け止めたまでは。
まあ、「はしたない」とかなんとか、お小言はくらっちゃうかもしれないけど、それでも猫を救出できたことは良いことだと思ってるの。桜花さまのご心痛も取り除けたし、猫も無事だったしで、良かったよかったって思ってるの。
問題はその先。
猫を取り戻して一件落着、ふり返ったその先に、安積親王さまさえいらっしゃらなければ、良かったよかったですんだのよぉぉぉぉっ!
「ねえ、孤太。アンタ、時を巻き戻す技なんかないの?」
「は?」
「だから、時を巻き戻してやり直す、そういう技!」
安積さまに見られる前、ううん、それよりもっと前。猫が逃げ出す前に戻すの。
初出仕したわたしが、桜花さまにご挨拶して。そこを不意に訪れた兄宮、安積さま。
「おや、見かけない顔だね、誰?」
なんてお声掛けいただいて。
「本日よりこちらに務めさせていただきます。美濃の国司の娘、菫野でございます」
とかなんとかで、ちょっと恥ずかしくて、うつむき気味に扇で顔を隠したりして。
「菫野。可憐な名前だね」
な~んて、おっしゃっていただいて。
「可憐でおしとやかで、それでいて華があって。妹のご機嫌伺いが楽しみになりそうだよ」
とか、そういうことになって。
「まあ、およしになって。わたくしと宮さまでは身分が違いすぎますもの」
とってもしおらしいわたしと。
「そんな野暮なことを言うではないよ。私ときみとの間にどんな差があるというんだい? きみを恋しいと思う気持ちを止めることは、神仏であってもできないことだよ」
「宮さま……」
「〝宮〟だなんてよそよそしい呼びかけはナシだ。私の名を、〝安積〟と呼んでくれないか」
「あ、安積……さま」
とか。とかとかとかっ! そういうことを仰っていただく予定だったのにっ!
猫を捕らえたわたしを見て、宮さま大爆笑。桜花さまがお諌めしても笑いが収まることはなかった。
いや、そりゃあ「はしたない!」って怒られるよりはマシだけどさ。だからって、笑われて「良かった」にはならない。
やり直したい、最初っから。
「ムリ言うなよ。そんな技があったら、とっくの昔に、アンタのその強力をどうにかしてるって」
詰め寄るわたしを遮る孤太。
「オレ、その力を申し訳ないな~って思ってるから、こうして都まで着いてきたわけだし。時を戻せるなら、あの時にやり直ししてるって」
そう。そうよね。
ストンと座り直す。
木を蹴っ飛ばして、猫を振り落としたわたしの強力。
この力は、わたしの家が代々強力の相撲人の血筋だったとか、生まれ持ってた力じゃない。
わたしが七つの頃、美濃国で墨俣川が大雨が原因で大洪水を起こした。めちゃくちゃになった民家や田畑を直すのも大変だったけど、一番の問題は、墨俣川の中洲にデデーンッと居座った巨石と、それに絡みつくように留まった流木だった。
巨石を取り除き、流木をどけないと、いつまた水があふれるかわからない。川が落ち着かない限り、家も田畑も直せない。だけど、あれだけの巨石、どうやって川から引き上げる? 他の川の流域の復興もある。そこだけにかかずり合ってる暇はない。
わずか七つの子どもだったわたしでも、とんでもないことが起きていることぐらい理解できた。
巨石を動かさなきゃいけないけど、動かす方法がない。
普通なら、石を焼いて熱してから砕くとかするんだけど、流木があるから、石に近づくこともできないし、川の中では火もつけられない。
そんな困った状況のなかで、わたしが出会ったのが、この孤太だった。
孤太は子狐で、たまたま通りがかった国府近くの野で、里の者が仕掛けた罠にかかっていた。「助けてくれよぉ」と、泣きべそかいてた孤太がかわいそうになって、罠から外してあげたんだけど。
「お礼に一つ、願いを叶えてあげるよ」
っていう、孤太の申し出に、つい
「だったら、わたしに力をちょうだい」
って言っちゃったのよ。
あの巨石が動かせたら、父さまもみんなも助かるでしょ? だから、あの石を動かせるぐらいの力をちょうだいって願っちゃったの。
今思えば、「あの石をどかせて、みんなを助けてちょうだい」って言えばよかったのに。石をどかせるのは、わたしじゃなくてもよかったのに。
わたしの願いを額面通りに受け取った孤太によって与えられた怪力。巨石は取り除けたし、家や田畑も立て直せて、メデタシめでたし――じゃなくて。
美濃の強力姫。
それがわたしの二つ名となった。
父さまは、巨石が取り除けてよかったと喜ぶべきかどうか微妙な顔になったし、母さまは、泡を吹いてぶっ倒れた。
この内裏への出仕だって、母さまが「強力姫なんて二つ名を忘れて、一からやり直す絶好の機会です!」と、喜び勇んでお引き受けしたことで成ったもの。「強力など披露せず、つつましやかに女房仕えをするのですよ」って散々言われてきたのに。強力を隠して、おしとやかに過ごして、いつかは公達と素敵な恋愛をくり広げて――。
「まあ、いいじゃん。公達は他にもいるだからさ。あの宮さんがムリでも、他にいいヤツいるかもしれないじゃん。アンタの強力に惚れたって言ってくれるヤツ。今回ダメでも次がある! 次行こう! 次! 次に期待!」
カラッとした孤太の励まし。
孤太も、強力を授けたことに責任を感じてるのか、小舎人童を装って美濃から着いてきてくれたけど。
(強力に惚れられてもうれしくないわよ……)
慰めにもなってないわよ、それ。
「蓼食う虫も好きずき」とは言うけどさ。強力が好きなんてそんな奇特な公達がいるわけないでしょ。
大きなため息とともに、近くにあった脇息に突っ伏す。
ああ。やっぱり、最初っから巻き戻してやり直したい。そして母さま、ゴメンナサイ。